君がいない
夜海ルネ
煙雨
私には夢がある。それは、願うだけに留めるほかないこと。
雨が降っているのになかなか気づかなかったのは、ノートの端を濡らしているのが私の雨だったからだ。慌てて教室の窓を閉める。その間も絶えず、雨が頬を濡らす。
不思議と嗚咽は漏れない。肩が震えたりすることもなくて、本当にただ流れるだけだった。空がだんだん暗くなってきていた。灰に淀んだ雲が私たちの頭上にすっぽり覆い被さっている。
再び窓際の定位置に座った。席替えで連続してこの席に当たったのは本当に幸運だった。この席が、教室でいちばんのお気に入り。作業に疲れたら左手に外の景色を眺められるし、桜の木が一番綺麗に見えるから。
ノートを見下ろした。そこには私の思考の片鱗が刻まれている。ボールペンで拙く綴った想い。もっと形にするために書きだしているけど、うまくまとまらない。やっぱり書くのって難しい。私は見事に、壁に阻まれていた。
ペンを手に取って何か書こうとする。だけどやっぱり何も出てこない。ふとペンが動いたかと思えば、その先に続く文字には希望なんて見出せなかった。
“やっぱり無理なのかもしれない。小説家になるなんて。”
消しゴムで消そうにも、ボールペンだから消せなかった。いっそボールペンでぐしゃぐしゃと無秩序な線を描こうと思ったけど、やっぱりペンは都合よく動いてくれなかった。
「小説家になりたいの?」
ふと声が聞こえて、私はびくっと肩を震わせた。何か気配のする方を見れば、そこには私のノートを不思議そうに覗き込む女子生徒が立っていた。
「わ! だ、誰ですか?」
もちろん私は驚いて椅子からガタッと立ち上がり、彼女から少し距離を取る。
「驚かせちゃってごめんね、こんな時間に一人で残っている子を見つけたから気になっちゃって」
女子生徒は華やかだけど落ち着いた品性を備える容姿の人で、少し神秘的なオーラを纏っていた。見かけたこともないし、同じ学年の人ではなさそうだ。
少し気になるのは、ルビーみたいに綺麗な赤い瞳を持っていることだった。
「ところで、小説家になりたいの?」
「あ……」
私は机の上のノートにチラリと目をやった。幼い頃は漠然と作家になることを夢見ていたし、中学に上がって本をよく読むようになってからは尚更その思いが強くなって執筆を始めた。
だけど高校一年生になって、両親からはよく「大学はどこへ行くのか、将来は何になりたいのか」と聞かれるようになった。私はそこで、正直に「作家になりたい」とは言えなかったのだ。
自分の文章が本当に世で求められるのか不安でたまらなかったし、厳しい職業なのも十分に理解してしまったから。両親を不安にさせてしまうのが怖くて、言えなかった。
「まあ、そう簡単に頷けないよね。分かるよ、私もそうだったから」
彼女は空いていた隣の席にしなやかな動きで腰掛けた。
「私、ジュン。君は名前なんていうの?」
「……ミヅキ」
私が答えると、ジュンはほんのわずかな間を置いてから「へぇ、いい名前だね」とつぶやいた。
「ミヅキはどんな物語を書くの? 私、本読むの大好きなんだ」
机に肘をついて、ジュンは私の顔を少し覗くように穏やかな目を細める。
「あんまり綺麗なお話じゃないよ。拙くて、読みづらいかも」
「いいよ、読みたい。読ませて」
私はその不思議な出会いが持つ幻想性に惹かれて、ノートに綴った思考の片鱗を彼女に預けた。
ジュンは静かにページをめくった。そしてふっと顔を上げて、私の目を見ると微笑んだ。赤いルビーが刹那のあいだ煌めく。
「どうだった……?」
少し声を震わせながら尋ねると、ジュンは少しだけ勿体ぶってから口を開いた。
「ちょっと前のこと、思い出した気がする」
「前のこと?」
「私もね」
ジュンはそこで一度言葉を切ると、ほんの少し視線を揺らがせた。
「ああ、いや、やっぱなんでもない」
そして、ふいっと顔を横向けてしまった。
「あ、もうこんな時間。そろそろ帰った方がいいよ、ミヅキ。家の人が心配してるよ」
ジュンは何でもなかったかのように声色を変えてそんなことを言った。彼女が何を言いかけたのか気になったけど、確かに外はだんだん暗くなってきていた。だから私は、それ以上の追及をしなかった。
「……うん。ジュンは? 帰らないの?」
「私も、もうちょっとしたら帰るよ」
ジュンはそう言って意味深に笑った。出会った時から思っていたけど、彼女は浮世離れしたというか、普通の女の子とは少しちがうような雰囲気があった。
ノートやペンをリュックにしまって背負い教室を出ようとした時、不意にジュンが声をかけてきた。
「ミヅキ」
その声にはどこか寂寥感が漂っていて、私は少し身構えながら振り向く。
「明日もまた、会いに行っていい?」
そして少し切なげな顔でジュンがそんなことを言うものだから、私はなんだ、と肩をすくめた。
「もちろん、いいよ。話せて楽しかったし。ちょっとだけ」
ジュンは安堵したような表情を見せて「ありがとう」と言った。私はその笑顔に手を振り、教室を出る。
これが、突如現れた「ジュン」という少女との出会いだった。
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