第7話 欲を食べる妖怪
真夏の灼熱が和らぎ始め、爽やかな秋風が街路樹の葉を揺らす9月初旬。新学期が始まったばかりの小学校は、例年なら子どもたちの元気な声で賑わうはずだった。しかし今年は様子が違っていた。
教室の窓から校庭を見下ろす智也の黒縁メガネに、曇り空が映り込んでいた。グラウンドでは体育の授業が行われているはずなのに、生徒たちの動きは鈍く、歓声も上がらない。
智也は眉をひそめ、呟いた。
「おかしいな...みんな、元気がないよ」
隣に立つ美咲の肩が小さく落ちる。彼女の普段の明るい笑顔が影を潜めていた。
「そうだね。私も最近、なんだかやる気が出ないんだ。お気に入りのバレエシューズを見ても、練習に行く気になれなくて...」
美咲の言葉に、教室の後ろから颯が加わった。彼の声には、いつもの怪談話への興奮が感じられない。
「俺もだよ。昨日は新しく買った怪談本を読もうと思ったのに、なぜか途中で投げ出しちゃった。こんなの初めてだぜ」
窓際の席で静かに本を読んでいた香織も顔を上げ、めがねの奥の瞳に心配の色を浮かべながら言った。
「私も同じよ。いつもなら夢中になれる本なのに、最近は一行読むのも疲れてしまうの。まるで...言葉から意味が消えてしまったみたい」
彼女の言葉に、みんなが深くうなずく。そこへ、いつもは発明のアイデアを熱心に語る太郎が、珍しく元気のない様子で近づいてきた。彼は机に突っ伏すようにして言った。
「俺だって新しい発明のアイデアが全然浮かばないんだ。頭の中が真っ白で、何を考えても面白くない。こんなの初めてだぜ」
五人は互いの顔を見合わせた。そこには驚きと不安、そして何か深刻な問題が起きているという直感が浮かんでいた。教室の空気が重く沈んでいく。
智也が深いため息をつき、決意を込めて言った。
「みんな、これは単なる気分の問題じゃないと思う。町全体が、何かおかしい。調査する必要があるよ」
その日の夕方、五人は美咲の家に集まった。西日が差し込む居間で、美咲の弟が恐る恐る語り始めた不思議な体験に、全員が息を呑んで耳を傾けた。
弟は小さな声で、時折周りを警戒するように見回しながら話す。
「姉ちゃん、昨日の夜、窓の外に灰色の霧みたいなのが見えたんだ。最初は夜露かなって思ったんだけど...」
彼は一瞬言葉を詰まらせ、美咲が優しく背中をさすると、少し落ち着いた様子で続けた。
「その霧が、道を歩いてる人に近づいていったんだ。そしたら...人から何かキラキラしたものを吸い取ってるみたいに見えたんだよ。その人は急に肩を落として歩いていっちゃった...」
美咲は弟の頭を優しく撫でながら言った。
「そう、怖かったでしょう?でも大丈夫だからね。お姉ちゃんたちが何とかするから」
智也は眉間にしわを寄せ、顎に手を当てて考え込んだ。窓の外では、夕焼けが徐々に灰色の闇に飲み込まれていく。
「灰色の霧...人から何かを吸い取る...これは単なる想像や夢じゃない。何か本当に起きているんだ。調査する価値は十分にあるよ」
颯は目を輝かせ、久しぶりに興奮した様子で言った。
「そうだな!これは間違いなく怪異の仕業だ。街の人たちの元気を奪う妖怪がいるのかもしれない。早速調べてみよう!」
香織はすぐに行動を起こそうとした。彼女の目に、久しぶりの知的好奇心の輝きが宿る。
「私、関連する情報を探してみるわ。古い伝承や地域の言い伝えの中に、手がかりがあるかもしれない」
太郎も負けじと言った。彼の声には、発明への情熱が戻りつつあった。
「俺は、人々の意欲や感情を測定する装置を作ってみるよ。電磁波を応用すれば、きっと何かが分かるはずだ。それで町中を調べられるはずだ」
智也は頷き、みんなを見回した。彼の目には、仲間たちの中に少しずつ戻りつつある生気が映っていた。
「よし、それぞれ分担して調査しよう。何か分かったら、すぐに連絡を取り合おう。この町の異変を、僕たちの手で解明するんだ」
五人は固く握手を交わし、新たな謎に挑む決意を胸に、それぞれの任務に向かって走り出した。夜の帳が降りる街に、彼らの足音が力強く響いた。
翌日の午後、五人は再び美咲の家に集まった。窓から差し込む陽光は、まるで彼らの緊張を和らげるかのように柔らかく、部屋を温めていた。
香織が重いバッグから古びた本を何冊も取り出しながら、興奮した様子で報告を始めた。
「みんな、大変なことが分かったわ。図書館で古い伝説の本を見つけたの。それも、普段は開かれない特別保管庫から」
彼女の指が本のページをめくる音が、静かな部屋に響く。
「ここに『人間の欲を食べる妖怪』のことが書いてあったわ。この妖怪は、人間の欲望や意欲を吸い取って生きているの。そして、その正体は灰色の霧のような姿をしているって」
智也は真剣な表情で香織の隣に座り、本を覗き込んだ。
「その妖怪について、どんなことが具体的に書かれているんだい?例えば、どうやって現れるとか、どうすれば退治できるとか」
香織は眉をひそめ、ページをめくりながら答えた。
「残念ながら、退治の方法については明確な記述がないわ。でも、この妖怪が現れる条件については書かれているの。『人々の心に諦めや無気力が蔓延し、夢や目標を持つことを恥じるようになったとき』だって」
美咲は驚いて声を上げた。彼女の目には、不安と恐れが浮かんでいた。
「まさか...私たちの町が、そんな状態になっているの?そして弟が見たのは、本当にその妖怪だったの?」
颯は興奮気味に立ち上がり、部屋を歩き回りながら言った。
「やっぱり!俺たちの町に、本物の妖怪が現れたんだ!これは大発見だぞ。でも同時に、みんなが危険にさらされているってことだ」
太郎は自作の装置を手に持ち、みんなに見せた。複雑な回路と小さなアンテナが付いた、スマートフォンサイズの機械だ。
「俺も準備ができたぞ。この装置で妖怪を見つけることができるはず。霧状の妖怪が現れたら、きっと強い反応を示すはずさ」
智也はゆっくりと立ち上がり、窓の外を見つめた。街路樹の葉が風に揺れ、どこか寂しげな音を立てている。彼は深呼吸をして、仲間たちに向き直った。
「よし、これから町中を調べて回ろう。妖怪の痕跡を見つけるんだ。でも気をつけて行動しよう。もし本当に危険な存在なら、むやみに近づくのは避けたほうがいい」
五人は手分けして町を調査し始めた。夕暮れ時、彼らは中央公園に集合した。オレンジ色に染まる空の下、ベンチに座る人々の姿が妙に寂しげに見える。
颯が走ってきて、息を切らしながら興奮した様子で報告した。
「みんな、俺、見たんだ!灰色の霧みたいなやつが、あのベンチに座っていた人から何かを吸い取っていくのを!まるで...生気みたいなものだった」
その瞬間、太郎の装置が激しく反応し始めた。けたたましい警告音が鳴り、画面上のグラフが跳ね上がる。
「おい、これ見ろよ!すごい反応だ。間違いない、妖怪がここにいる!」
智也は周囲を見回しながら、静かに言った。彼の声には緊張が滲んでいた。
「みんな、気をつけろ。妖怪はまだこの近くにいるはずだ。目を凝らして、少しでも異常があれば報告するんだ」
美咲が不安そうに腕を抱きながら尋ねた。彼女の声が少し震えている。
「どうやって対抗すればいいの?私たち、妖怪と戦えるの?怖いよ...」
香織が古い本を開きながら答えた。彼女の表情は真剣そのものだ。
「この本によると、妖怪を封じ込める方法があるわ。特別な呪文と、強い意志が必要みたい。でも...具体的にどうすればいいのかまでは書かれていない」
智也は深く息を吐き、決意を込めて言った。
「よし、準備をしよう。妖怪を誘き寄せて、封印するんだ。僕たち全員の力を合わせれば、きっとできるはずだ」
五人は公園に太郎が開発した特殊な装置で人間の強い願望や欲望を模倣する波を発するもを設置して、これにより妖怪を特定の場所に誘き寄せる。
それから夕暮れ時を待った。緊張感が漂う中、彼らは互いに励まし合い、最後の作戦会議を行った。
そして、日が沈み始めたころ、不気味な静けさが公園を包み込んだ。
突然、灰色の霧が彼らの周りにゆっくりと現れ始めた。それは地面から立ち上る靄のように、徐々に形を成していく。
智也が叫んだ。彼の声には恐怖と興奮が入り混じっている。
「来たぞ!みんな、準備はいいか?」
しかし、妖怪の力は予想以上に強かった。霧が五人を包み込み始め、彼らの意欲や元気が急速に奪われていった。まるで体から力が抜けていくような、不思議な感覚に襲われる。
颯が弱々しい声で言った。彼の目から、いつもの好奇心の輝きが消えかかっている。
「だ、駄目だ...力が抜けていく...もう、何もする気がしない...」
美咲はよろめきながら、霧に飲み込まれそうになった。
「た、助けて....」
その瞬間、颯の中で何かが目覚めた。友を守りたいという強い思いが、彼の心の奥底から湧き上がってきたのだ。
颯は叫んだ。
「美咲!」
彼は最後の力を振り絞って美咲に飛びつき、彼女を守るように抱きしめた。その瞬間、颯の体から眩いばかりの光が放たれた。それは強い意志の光だった。
霧が一瞬後退し、そこに人の形をした存在が現れた。それは半透明で、どこか悲しげな表情をしていた。五人は驚きと恐れ、そして好奇心が入り混じった表情でその存在を見つめた。
智也が驚いて声を上げた。
「これが...妖怪の正体?」
妖怪は静かに、しかし周りに響き渡るような声で語り始めた。
「私は、人々が捨てた欲望の集合体だ。人間たちが自分の欲望や願望を恥じ、否定するたびに、私は強くなっていく。そして、その否定された欲望を糧として生きている」
香織が恐る恐る一歩前に出て、尋ねた。
「でも、なぜ人々の欲望を奪うの?それは人々を傷つけることになるでしょう?」
妖怪はゆっくりと首を振った。その姿は儚げで、どこか切なさを感じさせる。
「それが私の存在理由だ。捨てられた欲望は、新たな欲望を求める。しかし、それは結果的に人々を無気力にしてしまう。私もまた、この循環の犠牲者なのだ」
智也は眉間にしわを寄せ、考え込むような表情で言った。
「つまり、人々が健全な欲や目標を持つことが大切なんだね。欲望を完全に否定するのではなく、適切にコントロールすることが必要なんだ」
妖怪はゆっくりと頷いた。その姿が少し透明になってきたように見える。
「そうだ。人間の欲望は、時に危険だが、同時に成長と進歩の源でもある。適度な欲望と、それを追求する意志こそが、人間を人間たらしめるものだ」
美咲が小さな声で言った。
「私たち、間違っていたのかもしれない。夢を持つこと、何かを欲することを恥ずかしいと思っていた...」
颯が彼女の肩に手を置き、優しく言った。
「そうだな。でも、今なら分かる。夢を持つことの大切さを」
五人は互いを見つめ、深くうなずいた。そして、町の人々に欲望や願望を適度に持つことの大切さを伝える活動を始めることを決意した。
翌日から、五人組は精力的に活動を開始した。彼らは学校や公民館で講演を行い、街角にポスターを貼り、さらにはSNSを駆使して情報を発信し始めた。
智也は学校の朝礼で、全校生徒の前に立った。彼の声は少し震えていたが、目には強い決意の色が宿っていた。
「みなさん、夢を持つことは恥ずかしいことじゃありません。むしろ、夢は私たちを前に進ませる原動力なんです。小さな目標でもいい、何か自分が本当にしたいことを見つけてください」
美咲はバレエ教室で、年下の子どもたちに語りかけた。彼女の優しい笑顔が、不安そうな子どもたちの心を少しずつ開いていく。
「バレエが好きで練習するのは、とても素敵なことよ。上手くならなくても大丈夫。楽しむことが一番大切なの」
颯は図書館で怪談会を開催した。薄暗い室内で、懐中電灯の明かりだけを頼りに話す彼の姿は、まるで本物の語り部のようだった。
「怖い話が好きなのは、ちっとも変なことじゃないんだ。むしろ、想像力豊かで素晴らしいことさ。怖がることで、私たちは勇気を学ぶんだ」
香織は高齢者センターで、お年寄りたちと交流した。彼女は丁寧に、一人一人の話に耳を傾けていく。
「皆さんの人生経験は、私たち若い世代にとってかけがえのない宝物です。どうか、もっとたくさんのことを教えてください」
太郎は地域の科学イベントで、子どもたちと一緒に簡単な発明品を作った。彼の目は、子どもたちの好奇心に応えようと輝いていた。
「失敗を恐れちゃダメだ。むしろ、失敗こそが新しい発見につながるんだ。さあ、もっと自由に想像力を働かせてみよう!」
徐々に、町の雰囲気が変わり始めた。人々の表情が明るくなり、街に活気が戻ってきた。学校では生徒たちが積極的に発言するようになり、公園では子どもたちの元気な声が響くようになった。
ある夕方、五人は再び中央公園に集まった。夕焼けに染まる空の下、彼らの顔には達成感と喜びが浮かんでいた。
智也が静かに言った。
「みんな、見てごらん。町が変わり始めている」
美咲が嬉しそうに付け加えた。
「そうだね。みんなの顔に、希望が戻ってきたみたい」
その時、彼らの周りに再び薄い霧が現れた。しかし今回は、恐怖を感じるのではなく、五人は静かに立ち向かった。
霧の中から、あの妖怪の姿が浮かび上がる。しかし、その姿は前回よりもさらに透明度が増していた。
妖怪は静かに、しかし温かみのある声で語り始めた。
「ありがとう。君たちのおかげで、私の存在意義が変わった。人々が健全な欲望を持ち始めたことで、私は消えゆく運命にある。しかし、それは喜ばしいことだ」
颯が少し寂しそうに尋ねた。
「じゃあ、もう二度と会えないの?」
妖怪は柔らかな光を放ちながら答えた。
「いや、私は完全には消えない。これからは、人々に欲望の行き過ぎに注意を促す存在として、この町を見守っていこう。時折、霧のような形で現れるかもしれない。それは、皆さんへの小さな警告となるだろう」
香織が静かにうなずいた。
「つまり、適度な欲望の大切さを忘れないようにという、私たちへのメッセージなのね」
太郎は興奮気味に言った。
「すごいや!僕たちは、町を救っただけじゃなく、妖怪とも友達になれたんだ!」
智也たちは頷き、妖怪を見送った。霧は徐々に薄くなり、最後には夕焼けの中に溶けていった。
美咲が空を見上げながら、笑顔で言った。
「私たち、すごいことをやり遂げたね」
颯も誇らしげに答えた。
「ああ、本物の妖怪と対決して、町を救ったんだ!まるで、物語の主人公みたいだ」
香織は静かに付け加えた。
「そして、大切なことを学んだわ。欲望や願望は、適度に持つことが大切だってね。それが私たちを成長させる原動力になるのよ」
太郬は新しいアイデアを思いついたように目を輝かせた。
「よーし、この経験を元に、新しい発明を考えてみるぞ!人々の夢を応援するような装置とか...」
智也は仲間たちを見回し、温かい笑顔で言った。
「みんな、これからも一緒に頑張ろう。私たちにはまだまだ、解明すべき不思議がたくさんあるはずだ。そして、それを通じて町の人たちを助けていけるんだ」
五人は固く握手を交わし、新たな冒険への意欲に満ちた表情で、夕暮れの公園を後にした。
町には再び活気が戻り、人々の顔には健全な欲や目標に向かって頑張る決意が見えた。そして時折、ほんの少しだけ灰色の霧が現れては消えていく。それは、欲望と共に生きることの難しさと大切さを、静かに伝え続けているかのようだった。
智也たち五人組は、これからも町に起こる不思議な出来事の解明に挑戦し続けることだろう。そして彼らの活躍が、多くの人々に勇気と希望を与えていくのだ。
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