今年の夏は、貴女が咲かない。

見咲影弥

 花笑む、という言葉がある。


まるで花が咲くかのように笑うこと――彼女の微笑みを形容するのに、これほど適した言葉が果たして他にあるだろうか。私は知らない。彼女の満面の笑み。ときにはにかみ。私はいつだって、彼女の傍にいて、その笑顔を見守っていた。彼女は可愛らしくて、美しかった。まさに花のようだ、お世辞抜きでそう思ったのだ。


でも――今年の夏は、彼女が咲かない。


いや、もう二度と咲くことはないかもしれない。総ては私のせいだ。私が、彼女を枯らしてしまったのだから――。

      

 *

 放課後美術室を覗くと、彼女はいつものようにそこにいた。イーゼルに立てかけたカンヴァスに真剣に向き合っている。邪魔しちゃ悪いかと引き返そうとしたが、窓越しに彼女と目が合う。ポニーテールの女の子。白いセーラーの上から青のエプロンを着ている。ここへ来ると彼女は大抵その格好だ。彼女は私に手招きしていた。彼女がいいと言うなら入らせてもらおう。


締め切られた戸を開けると、冷たい風が勢いよく胸元に飛び込んできた。汗ばんだ肌が冷えて気持ちよい。

「おつかれさまー」

そう言って中に入る。部活をしていた頃の習慣はいまだに抜けていない。部屋の中は冷房でキンキンに冷えていた。でも今はこれくらいがちょうどいい。7月は猛暑を極めていて、本当に人類が進化するしか生き残るすべはないんじゃないかというくらい暑いのだ。外にいるとくらくらして、景色が波打ったように歪んで見える。冗談抜きで死ぬかと思うほどだ。


「葵もおつかれさま、模試大変だったでしょ」

彼女は筆を置いて振り返った。


「ほんとよー。今日でようやく終わり」

大袈裟に溜息をついてみせる。だからといって、まったくやりきった感じはしなかった。ひとつ模試が終わってもまた来週何かしらの模試がある。休む暇もないし、終わったという爽快感も得られない。きっと受験が終わるまで、こんな生活が続くんだろう、そんなことを考えると嫌になってくる。取り敢えず今は、来週のことなど忘れてしまおう。そう思ってここに来たのだ。

 美術室は私が部員だった頃と比べて配置が変わっている。彼女たち受験生の作業スペースを確保するため、机は全部教室の端の方に寄せられていた。机は唯たちの荷物置きと化していて、画材が無秩序に並べられている。その一角にスクールバッグを下ろして、彼女のもとに近づいていった。


「あー結果が怖い怖い。返ってこなきゃいいのに」

愚痴を吐くと、彼女は呆れたように笑って言う。

「そういうわけにはいかないよ。それにそろそろでしょ、大学決めるの」

「そうそう、それもあっていい点取らないといけないんだけどさー。できた気がしないー」

「葵ならいけるってば。この前だってほら、いい線いってたじゃん」


いい線と言ったってD判定なんだけどね。3年のこの時期にDなんて望み薄だよ、なんてことは言わない。彼女に当たったって仕方ないから。仕方ない――仕方ないのは分かってるけど、やっぱり、少し意地悪なことを言いたくなった。


「私も唯みたいに才能があったらなぁ」


今も絵、描いてたのにね――そう言って、彼女の近くにあった机に腰掛ける。唯は申し訳無さそうな顔をして何も言わずに俯く。正直、この顔見たさに酷いことを言っている。彼女の歪んだ顔を見て、私は満たされている。最低だ。分かっている。でも、持っている人はそれ相応に苦しむべきだと思うから。持たざる人の呪いまで背負うべきだと思うから。


「いいなー、唯は。好きなことができて。羨ましいわ」


私は夜まで受験勉強に勤しんでいる、好きじゃないことも嫌々やっているっていうのに、とまでは言わない。そこまで悪意をむき出しにはしない。あくまで悪気なさそうに。からりとした風を装って。ごくごく普通の、無邪気な笑みを浮かべたままで、貴女を痛めつける。


【続】



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