月下の歌

瑠奈

第1話

 線路を走る電車に、赤い陽が射す。座席に座り、大きな黒いバッグを傍らに置いた少年――内田うちだゆうはそれをぼんやりと眺めていた。


 電車には悠以外誰も乗っていない。ここが寂れた町だからだろう。


 電車のアナウンスが、浜辺の駅に止まることを告げる。


 悠はバッグを背負い、電車を降りた。途端に耳をつんざくようなひぐらしの鳴き声と生暖かい空気が悠を包む。それに顔をしかめながらも、無人駅の改札口を通り、浜辺に向かう。


「日没まで三十分……」


 一人呟きながら浜辺に腰を下ろす。バッグを置き、ジッパーを開けた。


 中から出てきたのは――分解された望遠鏡だった。


 三脚を立て、レンズを取り付けた望遠鏡を固定する。


「……よし」


 しっかり固定されたことを確認した悠は砂浜に腰掛け、水平線に沈んでいく夕日を見つめた。真っ赤に染まった太陽が、水面を美しいオレンジ色に輝かせる。


「……きれいだな……」


 悠は思わず呟いた。


 世界には、こんなにも美しい景色がたくさんある。それを眺めている時は、現実を忘れられる。現実から逃れることができる。


 夕日はあっという間に沈んでいき、漆黒の夜空に星が瞬き始めた。数分前までオレンジ色に染まっていた空が、光り輝く星たちに埋め尽くされていく。


 悠は立ち上がり、望遠鏡を覗き込んだ。ネジを回しながら目当ての星を探す。


「……あった」


 視界に映るのは、純白に輝く美しい星。こと座のベガだ。


 悠は、何故かベガが好きだった。夏の夜空で一番明るく輝いている星、だからだろうか。


 再び座り込んだ悠は、ぼんやりと夜空を見つめた。寂れた街の浜辺ということもあって、息を呑むほど美しい星空が広がっている。その上、今日は新月だった。


 風が容赦なく吹き付け、髪を無造作にもてあそぶ。と、急に吹いた突風で三脚が傾く。


「うわっ!」


 慌てて立ち上がり、落ちそうになった望遠鏡を支える。もしこれが壊れてしまったら、自分は――


「危なかった……」


 三脚から外した望遠鏡をバッグの上にそっと置いたとき。


「――……♪」


 どこからか、歌声が聞こえてきた。透明に澄んだ、女の歌声。


「……どこから……」


 悠はあたりを見回した。ここは寂れた街の海辺だ。人なんてほとんど住んでいない。ましてや、こんな時間なのに――


 気になった悠は歌声の主を探すことにした。海岸線に沿って浜辺を歩くと、海風に乗った歌声がだんだん大きくなってくる。


 と、積み上がったテトラポッドが見えてきた。そしてその上に――少女が、座っていた。


 長い黒髪と白いワンピースを海風になびかせ、歌っていた。何もかも浄化されてしまいそうな澄んだ歌声と、白装束のせいか青白く光って見える身体も相まって、悠には、その少女が天から舞い降りた天使に見えた。


 悠に気づいたのか、少女が振り返る。そして器用にテトラポッドから降り、近づいてきた。


「――キミ、一人?」


 鈴が鳴るようなきれいな声と、泡のような儚い笑顔に、悠は釘付けになった。心臓が早鐘を打つ。涼しい海風が吹いているのに、体中の体温が上がるのを感じた。


「え、あ、うん」


 悠はどもりながら返事をした。


「こんなところに、何しに来たの?」


「天体、観測に……君は?」


 悠が訊き返すと、少女はフフッと笑った。


「天体観測かぁ。いいね。ここなら星もよく見えるし。――わたしは歌を歌いに来たの。ここは夜は誰も来ないし、声がキレイに響くんだ」


「そ、そうなんだ」


 声の上ずりが抑えられない。少女は更に微笑んだ。


「わたし、セナ。あなたは?」


「う、内田悠、です」


「もう、そんなに固まらなくていいのに。ユウね、よろしく」


 少女――セナは軽く手を振って踵を返した。そして歩き出す。


「あ、あの!」


 行ってしまう――


 そう思った瞬間。悠は一歩踏み出していた。


「……また、会えるかな?」


 振り返ったセナは目を見開いた。が、すぐに優しく微笑む。


「うん。わたし、毎日ここで歌ってるから」


 強い海風がセナの長い黒髪をもてあそぶ。それでもセナは、精霊のように美しかった。

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