第12話 江崎エリ

 教室の外から香ばしい匂いが漂ってきた。

 空腹で気絶していたエリは赤く腫れた目を擦り、身体を起こして廊下へ出る。

 エリは人が集まっている気配を感じ、気付かれないように接近した。

 薄い煙が廊下に入り込んで匂いを運んでいる。出所は中庭だ。しかし、引き戸のある昇降口側から近づくと姿が丸見えになってしまう。


 エリは背を丸め、鼻より上だけで窓から中庭を覗き込む。まずは2階まで届く大きな『異岩』が目に入った。その姿を目にしたエリはぞくりと背筋が寒くなる。相変わらず不気味だった。視線を落とすと、岩のすぐ側に人影があった。誰もエリには気付いていない。


 クリーム色の壁に四方を囲まれた空間では、どこかの教室から剥ぎ取ったカーテンが一斗缶の中で燃やされていた。その火を使い、フライパンで調理が行われている。

 中庭にいるのはニィナ、ミカ、クミの3人だ。机が持ち込まれ、鍋やら皿やらが置かれている。フォークやスプーンもあった。


 料理しているのはニィナで、白衣はあちこちがドス黒く変色している。

 ここにきてようやくエリの脳みそが動き始めた。フライパンの中には火の通っていないハンバーグが見える。そこから漂う匂いを鼻に吸い込むと、くっ付きそうだった腹と背中が狂おしそうに鳴く。


 エリは慌てて頭を引っ込め、手で口を塞いだ。

 激しい嫌悪感と、抗うように湧いてくる食欲。そのせめぎ合いで神経が焼き切れそうだった。

 教室に戻ったエリは空っぽの胃袋をひっくり返す。僅かな消化液が垂れ流れただけで何も出てこない。


「あいつら……」


 本当に食べた!

 あれは間違いなく肉だ!

 何の肉? 決まっている!

 エリの中で急激に現実が歪んでいく。とっくに歪んでいたと思っていたのに、そこからさらに捻れて全く別の形へと変わった。


 食人鬼たちの輪に入って肉を貪りたい。けれど、それは絶対にできなかった。

 よりにもよって真壁マリアの死体である。の血肉を口に入れるだなんて、とんでもない!!


(え…… 私、何を考えて……?)


 忌まわしい記憶がエリの中に湧き出てくる。排水溝から汚水が溢れ出るかのように、決して見たくもないような記憶だ。

 きっと空腹で頭がおかしくなったのだろう。そうだ、そうに違いない。

 ほんの僅かに残された冷静な部分は不都合な過去を塗り潰そうとした。けれどもなかなか拭えず、頭を振る。そのまま崩れるように床に手を突いたエリは肩で息をする。

 落ち着くまで深呼吸していると上着のポケットに妙な熱と重みを感じた。


「?」


 手を入れると中からは黒いポーチが出てくる。

 そのポーチには『2年B組 真壁マリア』と名前が書かれていた。


「ひぃっ……」


 ファスナーが開いたままのポーチが床に落ちると中から注射器が飛び出した。

 エリは理解を拒んで教室から逃げ出す。

 自分が真っ当な人間で正しいことをしてきたし、こんな訳の分からない状況でもヒトの道を踏み外していない。


「私は正しい、私は正しい、私は正しい……」


 おぼつかない足取りで校舎西側の行き止まりに当たる。右手には調理実習室があり、左手には機械室があった。辺りには血の臭いが立ち込めていて、また胃液が逆流してくる。酸の不快な味が喉を焼き、その場から走り去ろうとする。

 しかし、エリの足は意識とは真逆に調理実習室の中へ吸い込まれていった。


 ガスコンロの上には寸胴鍋が並び、調理台には包丁が置いてある。さらにノコギリやペンチ、メスまで揃っていた。それらの道具は全て、赤黒くコーティングされている。流し台にはべっとりと暗い色の液体がこびり付いていた。


『死んだら、あいつらに食われる』


 羽川ハルカの言葉を思い出し、心底震えた。

 ここで真壁マリアの遺体はバラバラにされたのである。そして人肉のハンバーグにされてしまった。


「死にたくない……」


 これも全部、マリアが悪い。

 あの女が死ぬといつもこうなる。

 私がロクな目に遭わない。

 いつしか恐怖は怒りに書き変わっていた。そうしないとエリの精神は崩壊していただろう。己を守るための歪曲や正当化を重ね、虚な目をして立ち上がる。


 中庭では人喰いのケダモノたちがパーティをしているのだ。放っておいたら、次は自分が食われてしまう。なんとかしなければならない。

 けれど校内に味方なんて一人も残っていなかった。ハルカは人肉食に手を付けていないが、初めから協力を拒むような態度ばかりとっている。アテにしてはいけない。


(どうすればいい? どうすればいい? どうすればいい? どうすれば……)


 人喰いどもをどうにかしなければ。

 そう決意したエリは調理実習室の中から何か使えるものがないかと探す。

 流し台やゴミ箱には近づかない。むせ返るほど血の臭いが強いからだ。


「そうだ、注射器……」


 なぜかポケットに入っていたポーチと注射器。あれは使える。健康な人間がインスリンを注射されるとどうなるのか、エリは知っていた。寝床の教室に戻ったら拾っておこうと心に決める。


 他にも何かあれば…… あいつらと戦える武器が……

 エリはギラギラとした目で、道具が仕舞ってありそうな両開きの扉を開けた。

 金色の鍋や大きなヤカンが入っていたがピンとこない。

 そうやって何ヶ所かチェックしていると、隙間から血が垂れている扉に釘付けになる。ちょうど調理台だ。

 エリは膝を突いて唾を呑み込む。

 意を決して扉を開けると…… そこには真壁マリアがいた。


「あ、あは。あはははは……」


 を手に取る。

 親指に力を入れてみると頬は柔らかかった。腐臭はせず、むしろ甘い香りが鼻腔をくすぐってくる。

 あの人喰いどもは、この部位だけは口に入れるつもりがないらしい。

 それで人間の尊厳が保てるとでも思っているのだろうか?

 まったくおかしな話だった。


 エリはそっと、マリアの瞼を指で押して開いてみる。

 眼球は濁り、瞳孔は開ききっていた。涙腺からは赤い水が滴り落ちる。マリアを回転させてみると朱色の切断面を見つけた。白いのは骨だろう。穴は喉かもしれない。

 耐えられなくなって悲鳴を上げたエリはマリアの生首を床に叩きつける。

 その衝撃で美しく切断されていた頭部は頭蓋が歪んでしまい、安らかな表情は永遠に失われた。

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