首塚たたりの吹きこぼし 2


「やっと着いた……」

 なんてことの無い、古びた門戸が妙に懐かしく感じられる。その奥に望む高い瓦屋根に、こんなにも喜びを感じたのも初めての体験パート3。

 市内中心に近い立地でありながら、周囲に他の建造物もなく、まきの樹林に囲われた古屋敷は、確かに愛しい我が家である。

 夜ごとに増える溜息が、今日は余計に増えた。向こう一か月分くらいは吐き尽くしたんじゃないだろうか。

 そんな風に思いつつ、ぼくは今宵最後になるだろう溜息を、遠慮なく盛大に吐き出した。

「お疲れさん」

「ほんとにね……」

 とかくこの世は不条理だ。理不尽だ。不平等だ。不公平だ。

 どうして、背負われていただけのぼくがこんなにも疲れていて、荒脛くんはケロッとしているんだろうか。

 答えは単純明快。この男は自分に出来る事をやりたいように、やりたい放題やっただけであり、それが偶々、人からの頼まれ事だったという話なのだ。

 対し、ぼくはどうだ。

 知らない間に薬を盛られ、知らない間に誘拐され、知らない間に助けられたかと思えばその帰路で、知った事ではない因縁で難癖を付けられたり、不慣れなフォローの役回りを押し付けられていたワケである。

 控えめに言っても、この夜イチバンに可哀想だったのはぼくだ。白樺? 知らねぇよ、どうせ木炭か建材になる運命だったでしょ。

「ま、風呂にでも入って身体を温め直せよ。そしたらきっと、良い夢見れるだろ」

 一仕事を終えて清々としたのか、そう言う荒脛くんの声も幾許いくばくか明るい。

 色々と言いたい事もあるけれど、まぁ。終わりよければ全て良し。わざわざ水を差す必要もない。

「どうだろうねぇ……心労が祟って、悪夢にうなされちゃうかも」

 でもちょっと意地悪をしたくなったので、言ってみる。

「夢でも荒脛くんに背負われてたりして。そしたらもうサイアク、まじありえない」

「よし決めた。もう降ろさねぇ。このまま全国行脚だ、まずは北海道」

「スンマセンした」

「許そう」

 くっ……負けた。

「……ふ」

「へっへっへ」

 どちらからともなく、陰険な笑みを交わす。門戸の前まで進み、一息、ぼくを担ぎ直した荒脛くんは、言いながらインターホンを鳴らした。

「悪夢でもいいだろ、別に」

「はぁー? 何さソレ」

 悪意を伴わない声色に、ぼくも冗談っぽく返す。

 遠くから次第に近くなる大人数の足音を、耳を澄ますでもなく聴き流していれば、荒脛くんは、独り言のように呟く。

「人間ってのは、夢を見るのが好きだろ」

「まぁ、そだね」

「それが悪夢であれ何であれ、夢を見ている間は、他に何も見ないでいられるからな」

「……あー」

 語るやん? 人でなしのくせに。

 されどもしかり、それはぼくも思うところであった。

 夢には二種類がある。

 良い夢と悪い夢、ではなく。

 一つは高い目標や憧れ、望み。そして二つ目は、睡眠時の幻覚だ。

 同じ言葉、同じ文字でありながら、異なる意味を内包する「夢」は大抵、愚かなほどに実直な人間が、前者の意味で口にする。もしくは詐欺師が使う。

 そうでなければ、嘲笑の為に使われる。つまり、夢物語だ、と。それは実現可能な目標ではなく、寝言である、と。 

 きっとその辺りの言葉遊びが、意味や解釈の混濁を招くのだろう。少し考えれば、空想ゆめ妄想ゆめ幻想ゆめ、そしてレムに走る電影ゆめの違いなんて、分かるはずなのに。

 わざと一緒くたにして、さも真理めいた煙幕を張る詭弁士たちも、ちらほら見かける。彼等も、彼等の言葉にしきりに頷いて感銘を受ける人々も、幸せそうで何よりだと思う。心から、そう思う。


 胡蝶の夢——


 ある男が夢を見た。

 夢の中で男は蝶であり、花の上に留まって休んでいる。そんな夢だ。

 蝶は眠りの中、夢を見ていた。

 自分が人間として、一人の男として生きている、そんな夢だ。

 やがて、夢から目を覚ました男は考えた。

 自分は人間として、蝶になる夢を見たのか?

 それとも、あの蝶が見ている夢が、私なのか?


——そんな説話もあるけれど。


 夢に夢中な人にとっては、自分が人間なのか、はたまた花弁にあしを降ろして微睡む胡蝶であるのかも、さして重要ではないのだろう。

 重要なのは今、自分が幸福であるかどうか。

 否、不幸ではないかどうか。

 人は不幸でありたくない生き物である。

 だからカタチは何であれ、幸福を求める。

 幸福であるという事は、不幸ではないという事だ、と。そのように錯覚し、己を騙す。其れは事実ではないのに。

 幸福である事と不幸である事は、両立して矛盾しない。

 ぼくからしてみれば、それはそういうものだ。

 ただあるがまま、そうである。ぼくに言わせれば、それだけの話だ。

 だから思うのである。「別に、いいんじゃない?」と。

「そう思うか?」

「うん」

 何度問い質されても、ぼくはそう思うと答えよう。

「荒脛くんからしたら、なんだかなーって感じなのかもしれないけどさ。でも、わざわざそんな、露悪的に語る必要もないでしょ」

 だって、それはそういうものだから。

 良しとか悪しとか、そういった観念は、後付けの評価に過ぎない。ぼくにとって、それはあまり価値のない採点だ。

「ほーう。そんじゃあ、お前さんにとって、価値のあるものってのは何なんだ?」

「あらやだアラちゃん」

 そんなのは、決まっている。

「楽かどうかに決まってるじゃありませんの」

「……それはどういう事かしら、タリちゃん」

 どういうも何も、そのままだ。

 楽かどうか。どういう考えが、どういう感じ方が、どういう見方をするのが、気楽で居られるか。

 与えられたものと、手に入れたものと、与えられず、手に入らないものを見比べて。

 どう生きるのが、自分にとって最も気楽か。

 気楽に生きる。

「それがぼくの夢だぜ」

 ぼくだって、夢を見る。だから他の人が、どんな夢を見ていようが、本人がそれでいいなら何も言わない。

「だって、人の夢にケチを付ける資格なんて、誰にもないんだから!」

 見上げた夜空に浮かぶ、北斗七星の横で小さく輝く星を指差しながら、ぼくはミュージカル調に唱えるのだった。

 ふ、決まったぜ。渾身の名台詞。一度言ってみたかったんだよね、コレ。

「お前の方がよほど露悪的じゃねぇか……?」

 そんな、荒脛くんの呆れ声なんて、全く聞こえないのだった。


——その代わり、といっては何なのですが。


「ほら、やっぱりだわ! ねぇしょーちゃん、聴こえたでしょう? たたりちゃんの声よ」

「分かってる。少し落ち着け、なずな」


 いよいよ身近に迫ってきた足音の中、門戸の向こうから、そんな声が聞こえてきたのでありました。




——————




「あぁっ……あぁっ、たたりちゃん!」

「ふぁふぉ、ふぁふふぁふぁん?」


※ぼくは「あの、なずなさん?」と言っています。


 荒脛くんの背中から降りて、よろよろとしながらなんとか体勢を整えたぼくを襲ったのは、幼馴染の熱い抱擁だった。

「よかった……無事でいてくれて。本当に心配してたんだから!」

 言って、強く抱き締められる。

 熱い。厚い。すごく分厚い。はい、バストの話です。

 着物越しでもその豊満さが分かるのだから、説明不要だ。この夜と同じくらい異常だ。本当に同い年か?

 どこで差が付いたんだろう……。

 そんなちょっぴりの哀しみと、シンプルに顔が圧し潰されて息が出来ない苦しさも、どうでもよくなるくらいのふかふか触感。これは着物の質の話です。

 決して彼女の体温とか、心臓の鼓動とか、頭を撫でてくる優しい手つきにもうこれ溺れちゃってもいいんじゃないかなとか思っている話ではない。えぇ、全然違いますねこれは。

「……なずな。そろそろ離してやれ。たたりが死ぬぞ」

「ふぉふぇいふぁふぉふぉおっ!!」


※ぼくは「余計なことをっ!!」なんて言ってません。


「本望に見えるが?」

 荒脛くんの声で、ぼくの中に僅かに残っていた理性がよみがえる。

 そうだ。ここはなかよし幼馴染三人組だけのプライベート空間じゃあないんだった。

 彼女、なっちゃんの背中に両手を回し、腰の辺りをぽんぽんと叩く。体感としては一瞬、けれど、恐らく五分くらいは続いていただろう至福の時間……もとい、拘束はそれでようやく解かれたのだった。

 結局呼んじゃったのね。

 まぁ、それはそうだ。冷静に考えて脊刀せと家と心堂しんどう家、当間市各地を管理する首塚四十八分家のツートップに、斯様な事態を隠し通せるわけもなし。

 よくよく見回してみれば、庭の中、ウチの使用人やしょーちゃんなっちゃんの付き人であろう黒服の人々がまぁまぁの人数でぼくらを囲んでいた。

 その内の幾人か、ぼくが内心で半分赤ん坊、半分スケベおやじと化していた事を察した連中が、呆れと気まずさを足して二で割らなかったような顔をしている。

 ふっふっふ、そこの片隅に立っている黒服の少年よ、ぼくは知っておるぞよ。キミがなっちゃんにホの字だという事を。羨ましかろう。流石にホの字は死語が過ぎるかな。

 さておき。

「「えーと、コホン」」

 姿勢を正し、向かい合ったぼくとなっちゃんの行動言動がシンクロした。なかよし。いぇーい。

「「……あー」」

 荒脛くんとしょーちゃんの倦怠感もついでにダブる。盛り上がってるねアリーナ。

「改めて……息災のご様子、胸を撫で下ろしましたわ、当代様」

 言って、幼馴染のなっちゃんこと心堂なずなは、完璧な微笑を浮かべる。

 栗色の長髪を耳にかけるたおやかな仕草、そのわざとらしさの無い佇まいはまさしく、真のお嬢様といった風である。

「今さら持ち直すのは無理だろ」

 そんな、なっちゃんの隣で「やれやれ」と言わんばかり、眉をしかめるしょーちゃん、脊刀せと将器しょうき

「もう、イジワル言わないでよ」

「事実を言ったまでだ」

 ふくれるなっちゃんに、当たりが強いしょーちゃん。鷹のような目つきを更に細め、単刀直入に意見を述べる姿は幼少から変わらない。

 うわ、久しぶりだなこの雰囲気。

 二人が並んでいると、絵面の高級感が凄まじい。良家の人間というものは、何気ない動作の中にもそこはかとなく気品をたたえているものなのだ。

 二人にとっては普段通りのやりとりでも、その間には、十把一絡じっぱひとからげの人間には立ち入れない絶妙な空気がある。事実、何か言いたげな黒服の皆さんも、いつどのように物申すべきか、まごついていた。

 その全体的な雰囲気が面白くて、ずっと見ていたい気分になる。ぼくはこの二人が、わりかしお気に入りなのだった。

「お帰り、たたり。疲れたろうな」

「うん。ただいま、しょーちゃん。ほんとに疲れたよー」

 ごくごく冷静なしょーちゃんの、けれど安堵と友愛を含んだ言葉にぼくも同様のニュアンスで応える。なっちゃんがぼくの顔を見てハッとした様子で、「ずるいずるい!」としょーちゃんの肩をばしばし叩く。うん。やっぱり威厳を持ち直すのは無理ですねアレ。

「事情は聞いてある。荒脛」

「あ?」

 なっちゃんの攻撃を完全スルーしつつ、話を進めるしょーちゃん。すげぇ、展開がスムーズだ。

 対し、呼ばれた荒脛くんはぼくから回収した上着に袖を通し、いつの間にやら煙草に火を付けている。そのザマの、返事のまぁガラの悪い事。ていうか、捨てたはずだろソレ。もう一箱あったのか。どこに隠していやがった。

「たたりを救ってくれて感謝する」

「それは」

 ふぅー、と一息ひといき。紫煙を吐き出して。

脊刀せとの当主のお言葉か?」

 そんなひねくれた質問を投げかける。

「いいや。ソイツの友人としての言葉だ」

 そつなく返すしょーちゃん。受けて、荒脛くんはじっと彼の顔を見据え、そして興味を失ったかの如く目線を外し、空を仰ぐ。

「なら、受け取っといてやる」

 口端くちはに咥えた煙草がじじ、と小さな音を立てて燻ぶる。

 空というよりは、その煙をぼんやりと眺めているらしい。あるいはその煙の中に、虚空に何か思案を巡らせているのだろうか。分からない。

 ぼくには荒脛くんの行動パターンが分からない。何を言い出すか、予想が出来ない。それはまぁ、ある程度は分かるのだけれども。それだけだ。

 しょーちゃんとなっちゃん。二人が何を考えて、何を言うのかは、大方のところで想像が付く。

 たとえば、なっちゃん。

「私からも、お礼を言わせてください。荒脛さん。私たちの大事な幼馴染を助けてくれて、有難う御座います」

 しょーちゃんに倣い、彼女が“幼馴染として”の前提を置いて謝意を述べるのは、心堂のお嬢様として隙の無い、彼女らしい台詞として予めの見当が付けられたし。

「本当に、たたりちゃんを誘拐だなんて。犯人が生きていたら私自ら手折って差し上げたのに……」

「こわいこわいこわい。なっちゃん、怖いの出てるよ」

 ぼくがこう言えば、どう返ってくるかも分かる。

「怖い!? 私、怖い!? でも、だって、しょうがないじゃない、ねぇ! 私のたたりちゃんが」

 しれっとぼくを所有物扱いしつつ。

「たたりちゃんがかどわかされただなんて聞いたら、冷静でいられるワケないじゃない! ずっと気が気じゃなかったんだもの!」

 感極まり、目に涙を浮かべる。

「確かに、冷静ではなかったな」

 それに対するしょーちゃんの台詞も予想が付く。

「報せを受けて屋敷に来てみたら、先んじて来ていたコイツが応対役の喉元に短刀を突き付けていてな。俺が来るのがもう少し遅れていたら、どうなってたか」

 うん。なっちゃんの行動も含めて、予想通りの言葉である。ていうか予想通り怖い事してるのが本当に怖いよ、なっちゃん。

「ちょっと、しょーちゃん? それはたたりちゃんの前では言わないって約束だったでしょう?」

「たたりにお前の“ソレ”を、今さら隠したところで何になるんだよ」

 しょーちゃんはそう思うだろうねぇ。

 でもねぇ、なんといいますか。なっちゃんは、贔屓目に見てあげると、シャイで照れ屋さんといいますか。

「ソレってなぁに? やだわ、しょーちゃん。何を言っているか私、全然分からないわ。ねぇ、たたりちゃん? たたりちゃんも分からないわよね? というか、何も聞いてないわよね?」

「ウン、ボク、ナニモワカラナイヨ」

「カタコト? どうしてカタコトなの? たたりちゃん?」

 好きな相手には、自分の良い部分、自信があるところだけを見て欲しいタイプなのである。

 要は見栄っ張りだ。そういう所が彼女のチャームポイントであり、いじり甲斐のあるところなのだよ。

 さておき。

「それで」

 しょーちゃんの、次なる言葉はきっとアレだ。

「週末に召集会議を開くぞ」

 ほらきた。

「前々から思っていたんだがな。この屋敷、警備がザル過ぎる。分家も全員呼んで、話し合う必要があるだろう」

「えー」

「えー、じゃない」

 堅物め。たかが一邸宅のセキュリティを、どうして四十八人も首を揃えて話し合う必要があるのか。

「問題はこの屋敷の中だけじゃないからだ。荒脛が居なければ……」

 言って、荒脛くんを横目に見つつ。

「下手人は首尾良く、この地を離れていただろう。蜘蛛の巣にほつれがある証拠だ」

 そんな大げさな事を言い出す。正しいから否定は出来ないのだけれど、それにしたって、招集まで掛ける事はないんじゃない?

「しょーちゃん」

 ぼくが言うより早く、諫めたのはなっちゃんだった。

「今はいいでしょう。そんな事より」

「そんな事、ではなくてだな」

「そんな事より!」

 語気を強めて言い直し、ぼくを指差す。

 訝しげに彼女の指先を追ったしょーちゃんは、まじまじとぼくを見つめ、やがてなっちゃんの言いたい事に気付く。

 ええ、そうなんですよ。ぼくまだ、汚れた浴衣姿なんですよ。

 門をくぐってすぐに、お世話係の子がくたびれたスーツよりも余程上等で温かい着物を羽織らせてくれたけれど、お粗末感は否めない。そういえばまだ荒脛くんに靴、返してないな。まぁいいか。

「……そうだな。この話はまた後日にしよう。とにかく、無事でよかった」

 しょーちゃんが言うと、なっちゃんが嘆息しながら頷く。

 それによってようやく、黒服さんやウチの子たちの緊張もほぐれた。とぎまぎとしていた空気も徐々に柔らかくなって、指揮役がそれぞれ、部下に撤収や後始末を促す目配せをする。

 予想通り、予想通り。

 なっちゃんとしょーちゃん。

 二人ならそう言うし、そうする。そしてこうなる。そんな想定と寸分違わない場面進行に、だからこそぼくは思案する。 

 二人の考えや行動が読めるのは、幼馴染が故という部分が大いにあるけれど、根元と筋道がはっきりとしているからだ。

 親しい人間が誘拐された時、無事に帰ってきた時の反応。改めて、自分に与えられているお役目を意識しての思考、言動、エトセトラ。其れらはあくまでも常識の範疇にあるし、各々の在り方として、理解が出来る。

 けれども、ぼくには分からない。

 どれだけ考えたって、分からない。

「話は済んだか」

 そう言ってつまらなそうに、煙草を吹かす男の思考が分からない。

「心配するものなんだな」

 なんでそんな事を言うのか。

「……どうかいたしましたか?」

「何か言いたげだな、荒脛」

「いや別に。考えてみれば、それもそうだと思っただけだ」

 訂正しよう。彼が、何を思っているのかはわかる。

 けれども。だからこそ。

「黒幕が被害者の身を案じるワケがない、なんて。決まってるワケじゃあないものな」

 どうして"わざわざ、それを言うのか"が分からない。

「顔を見て、確信した。本当に変わらんな、お前らは」

 人もまばら、暗がりの地面に落ちた槇の葉はいつか朽ちて、土と混ざり合う。

 其れは夜が夜明けになるように、ゆっくりと曖昧に融け合い、一つになっていく。最初から同じものだったのだと、同じところから生じ、表れを変えただけの事だと悟るのは、決して難しくない事だ。

 けれどもきっと、彼とぼくとでは。

 否、彼と彼以外の人間とでは、何かが根本的に違う。

「お前らだろ。首塚たたりの誘拐を企んだのは」

 だから決して、分かり合えないのだろう。




——————




 しん、と夜が静まり返る。

 居心地が悪い。何この剣呑ムード。

「何を仰有ってらっしゃるのですか、荒脛さん?」

 口火を切ったのは、なっちゃんだった。

「あ、もしかして」

「もしかして、嬢ちゃんがどうして実行犯が死んだことを知っているのか……てのを疑ったワケじゃねぇよ」

 後の先を取る荒脛くん。口を噤むなっちゃん。

「袖付と爪崎……使いを走らせて既に確認済みだろ。そうじゃなくたって、言葉の綾だとか、そう思い込んでいただけだとか。どうとでも誤魔化しが利く」

 荒脛くんは嵐だから、旋風つむじでは止められない。

 その程度の誤魔化しは、通用しないどころか、意に介さない。

「なら教えて貰いたいな、荒脛」

 続いたのはしょーちゃんだ。冷徹な眼差しは鋭く、荒脛くんを刺している。

 けれども、当の荒脛くんは何処吹く風。

「やめねぇか? そういうの。推理モノじゃあるまいし。俺、人情モノの刑事ドラマの方が好きなんだよ」

 まるで怯む様子がなく、つまらない冗談まで付け加える始末。「そうはいかない」と述べるしょーちゃんの口を、飽いた表情で眺めるばかりだった。

「疑惑の念を向けたんだ。それなりの証拠はあるんだろう。無いのなら」

「無けりゃ、なんだ?」

 受けて、ほんの少しだけ、荒脛くんの声色に威圧が宿る。

 愉しげで、挑発的なトーン。「お前なんかに何が出来る?」と言いたげな、ヒトを見下すバケモノの台詞。

 対し、しょーちゃんは沈黙で返す。言葉を封じられたのではなく、敢えて何も言わない事にした、そんな態度だ。その眼光に沸き立つ殺気を、荒脛くんはどんな風に思い、見ているのだろう。

 咥えていた煙草を摘まみ、ゆっくりと煙を吐いて。

「別に、明らかな証拠があるわけじゃねぇよ。なんとなくそう思っただけだ」

 そう言った。

「こんな大事だいじの真相を、根拠もなく妄想したと?」

「根拠はあるさ。証拠が無いってだけだ」

 物的証拠。或いは、状況証拠。

 あぁ、と漏らす荒脛くんは動じない。その声からまた、感情が抜け落ちていく。

「無いのさ、つまり。分からない事が一つしか無いのが、おかしいんだよ」

 抜け落ちた心の代わり、ロジックがその口から溢れ出す。

「何時、何処で、誰が、何を、何故、どのように其れを為したのか」

 物事の真実を暴こうとすれば、情報は六つに分けられる。

 その中で、最も曖昧な要素、どうとでも出来る要素。重要ではない要素を挙げるとすれば、それは『何故』である。

 引き金を引く理由は、放たれた弾丸の威力と影響を変えたりしない。

「今日、此処で、使用人の一人が、コイツを、睡眠薬で眠らせて攫った」

 故に重要とはいえない要素が、今宵は綺麗に欠けている。

「どうしてそんなことをした? それだけがまるで分からない」

 其れ以外のカードは、出来過ぎなくらい簡潔に揃っているのに。

「この屋敷の警備が元々なっちゃいなかったとはいえ、だ。一介の使用人のやる事にしちゃあ周到過ぎる、だとか。蜘蛛の巣のほつれ……分家どもの見張りの目を盗んで、この陸の孤島で、外に繋がる道の限られたこの街で、市外にまで辿り着ける抜け穴を、偶然知っていたとは考えづらい、とか」

 なっちゃんは黙り込んでいる。

「車がスリップしたら、普通は慌ててブレーキ踏むだろ。そうじゃないにしても、ハンドルを切る。少なくともその痕跡は残るはずだ。なのにあの車は、真正面から樹に激突していった。自分から突っ込んでいったと考える方が妥当じゃあないか? だとしたら、そういう、失敗したらさっさと死んで自ら口を封じる潔さとか」

 しょーちゃんも、黙って聞いている。

「そういうのも全部含めて。やっぱり分からないのは『何故?』だけだ」

 何故、出来た?

 何故、知っていた?

 何故、そうしなかった?

 何故、死を即決した?

「実行犯は黒幕の忠実な家来だったから。そう考えるのが妥当だ。なにせ」

 言って、荒脛くんは手に持つ煙草を、自らの眼前にひらひらと泳がせる。

「何処の誰でもなく、首塚たたりを攫おうって話なんだからな」

「其れが貴方の推理ですか?」

 なっちゃんが重い口を開いた。荒脛くんの視線が動く。

「私としょーちゃんが、部下を使ってたたりちゃんの誘拐を企てた。それが今晩の真相だ、と?」

「あぁ」

 呻くように肯定した荒脛くんに、今度はなっちゃんが返す。

「まるで子供だましですわ。証拠どころか、根拠というにも薄弱です」

 なっちゃんの言う通りだ。

 荒脛くんの論理は、一応の筋道こそ立てられているけれど、曖昧の一言に尽きる。

 『これは事実としておかしい』という推理はなく、『おかしいといえるんじゃないか?』という主観的な意見に基づいた仮説を並び立てて、それらしく述べたものに過ぎない。

 それに。仮に其れらが正しかったとしても。黒幕を崖の上に追い詰める事は出来ない、子供騙し。

「そもそもどうして、私たちがたたりちゃんを攫う必要があるんですか?」

 そう言われてしまえば、オシマイだ。

 毅然として相対するなっちゃんを見つめ、黙りこくった荒脛くんのミスはそこにある。

 『何故?』は曖昧な情報だ。

 どうとでも言えてしまう。

 どうとでも言えてしまうから、どうとでも否定出来てしまう。

「……もしも実行犯が失敗したとしても、ソイツが生きてさえいなければ、お前ら二人なら好きなように後始末が出来る」

「えぇ、そうでしょうね。ですから、何故?」

「……」

「私達が何故、たたりちゃんを攫わなければならないんでしょうか? そんな事をする理由が、私にも、しょーちゃんにもありませんわ」

 荒脛くんは嵐だ。

 探偵にはなれない。

「……ハァー」

 今宵イチバンの溜息には、自己嫌悪や倦怠が溢れんばかりに込められていた。

「だから言っただろ。推理モノは好きじゃねぇんだよ、俺」

「好き嫌い以前の問題でしょ」

 荒脛くんの隣で、ぼくも溜息を吐く。

 受けて、「そうかもな」と溢す荒脛くんは、おもむろにぼくの頭を撫でた。

「実際、見事なモンだ。俺さえ現れなきゃあ、目論見通りに行っていたんだろうし」

「ですから」

「まぁ聞けよ」

 今度は明確になっちゃんの返答を制する。

「これでも、素直に褒めてるつもりなんだぜ。お前らの手腕をよ。完璧とは言えねぇが、不測の事態を前提とした組み立てとして、悪くない」

 真実、悪意のない声音だ。けれど、相変わらずの倦怠感が語気を包んでいる。ぼくを撫でる手のひらにも力は無い。

「あぁ、見事だ。本当に。探偵ごっこなんかしている内は、とてもじゃないが口を割らせらんねぇよ」

 だから、と。

 荒脛くんが言った、その刹那。

 まるでトラックにでも轢かれたかのような衝撃が、ぼくの後頭部を襲った。

「情に訴えさせて貰う」

 急速に迫る地面。

 叩きつけられ、揺れる脳。

 ぐわん、と歪む意識。

 鼻の奥から、じわりと顔面に広がる痛み。たぶん、鼻骨が折れた。

 次いで、背中を押さえつける膂力がみしり、と。ぼくの身体を軋ませ、抵抗の意欲を奪う。

「動くな」

 きっとその言葉は、ぼくだけに向けたものじゃあない。

 なっちゃんに。しょーちゃんに。事態の緊迫に気付いた者たちに。その全てに向けて放たれたものだ。

「荒脛、貴様何を」

 しょーちゃんの言葉は、ぼくには最後まで聞こえなかった。其れを遮るように、重く鋭い痛みが右腕に走ったからだ。

 いっっっっっってぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ。

 首を動かせば、ぼくの右腕、丁度、肘関節に荒脛くんの足が乗っている。思い切り踏みつけられたらしい。爆発で吹き飛んでくるタイヤを、無造作に弾き返す異常の顕現が、今度はぼくの腕を潰した。

「問うのは俺だ。お前らは答える。簡単な話だろ」

 次は足だ、と付け加える荒脛くんの声は、それまでと一切変わらない倦怠のニュアンスで、夜の庭を支配する。誰かが唾を飲む音が、聞こえたような気がした。

 まるで身動きが取れない。押さえ付けられているのだから当然だけれど、それ以前に初めから、ぼくが何か宣う必要は全く無かったし、その気も無かった。だからこそ何故、ぼくがこんな目に遭わなければならないのか。

(嗚呼)

 いや、分かっている。分かっていますとも。

 夢から覚めた時から、彼の声が鼓膜に響いたその時から、分かっていたのだ。

 だから、辟易としていたのだから。

「もう一度、問おう」

 荒脛客人を怒らせてはいけない。

 そうでなくとも、ほんの少し関わっただけで、“こうなるのだから”。

「首塚たたりの誘拐を目論んだのは、お前らだな?」

 再度の沈黙が訪れる。逡巡の間だ。けれども、荒脛客人は其れを許さない。

 すぐ近くでじり、と砂利を混ぜる足音。今のぼくにとっては死神の鎌、その風切りに等しい。

「そうよ」

 観念したなっちゃんが、地面を擦って一歩前に出る。闇を震わす荒脛くんの声とは対照的に、震えた声だった。

 なずな、と、しょーちゃんの低い制止が続くけれど、弱い。なっちゃんの深呼吸が其れを掻き消す。

「たたりちゃんの命が最優先よ」

 弱々しい、痛切な声だった。

「私たちが目論みました。首塚……たたりちゃんの誘拐を」

「何故?」

 端的過ぎる問が無情に、矢継ぎ早に放たれる。それは、と言い淀む。

 当然、其れを許さない荒脛客人。

「っ」

「たたりちゃん……っ!」

 右足の脛に激痛。ぼくは唇を噛み、喘ぎを押し殺した。

 不思議だ。痛いのはぼくなのに、なっちゃんが悲鳴を上げている。そうでもないか。なっちゃんだもんね。

「次は腰を砕く」

 布告が訃告へと変わるのに、それほど回数は要らないだろう。あと三回か、四回か。もしかしたら気が変わって、次にはもう、首を折られるかもしれない。

 本当に厄日だ。

「周りの目が気になるか? 今さらだろ、そんなモン」

 荒脛くんの声だけがやたらと響く。

「お前らの関係性と役回り。ソレを考えりゃ、お前らが何を思ってるかなんて簡単に想像が付く」

「なら何故訊く?」

「その口から聞く事に意味があるからだ」

 しょ-ちゃんの問は尤もであり、荒脛くんの答えも尤もだ。

 そして、何度目かの沈黙が訪れる。

 今度はそれほど、長くは無かった。

「解放してあげたい、と思ったのです」

 まるで崖際に追い詰められた犯人みたいにぽつぽつと、なっちゃんが語り出す。

「私は首塚の務めを軽んじた事なんて、一度もありません」

 だからこそ、思ったのだという。

「その重責を、どうして私の幼馴染が一人で背負わなければならないのでしょうか?」

「……」

「どうして其れを為さなければならないのでしょう? どうしてその子だけが、負わなければならないのでしょうか? その一生を、怨みの連鎖に費やさなければならないのですか」

「お前らが支えればいいじゃねぇか」

 その指摘もまた、御尤ごもっともである。けれども、今度のなっちゃんは怯まない。

「支える? 縛るの間違いでしょう」

 そんな自嘲の笑みを浮かべて。

「大事な友達が人を殺め、罪を重ねる事を、指を咥えて見ているだけならまだしも。その隠匿に加担する事が、貴方の言う“支える”という事なんですか?」

「……」

「なぁ荒脛」

 行儀よく黙る荒脛くんに、しょーちゃんが問う。

「知っているなら教えてくれ。俺達はどうすればいい? 黙って見ている事も出来ない。だが、いざ行動に移してみても、結果はこれだ」

「……」

「首塚の恩讐が、四十八家のしがらみが、お前という異常分子が。赦してくれないのなら、どうすればいい?」

「……」

「俺たちはどうしたら、ソイツの手を掴んでやれる? どうしたらソイツを、悪夢から連れ出してやれるんだ」

 悪夢。

 人は夢を見る。

 夢を見るのが好きだから。

 夢を見ている間は、見たくないモノを見ずに済むから。

 たとえ其れが、他者に重荷を背負わせる結果になったとしても。

 人は、夢を見る。

「まぁ、そんなとこだろうな」

 暫しの間を置いて。荒脛くんは常の調子で呟いた。

「まったく、これだから人間ってやつは……いや、子供ってやつは可愛いよ。なぁ、お前もそう思うだろう、首塚?」

(ここでぼくに振るのかよ)

 唐突に振られ、ぼくは戸惑った。

 言葉を探している内に、拘束の手が緩む。

 身じろぎ一つ出来なかった身体が、少しだけ楽になった。とはいえ、起き上がる気力は無い。

「どうすればよかったか、なんて。決まってる」

 言いつつ、しゅぼ、とライターの発火音。いつの間にやら吸い終わっていて、また吸うらしい。大きな一息はフゥーっと音を立てて、凍土を少し温める。

 そうして。

「話し合えばよかったんだ」

 そうして。当たり前の事を言った。

「解放してやりたかった? 悪夢から連れ出す? お前らの動機は分かったよ。是非もない事だと俺も思う。それが真実なら、お前ら二人とも友達思いの良いヤツらだと、心からそう思う」

 其れは、ぼくもそう思う。

 なっちゃんもしょーちゃんも、良いヤツだ。だからぼくは、二人の事が好きなのだから。

 けれどもきっと、そこにぼくが思うのは、荒脛くんが「けどな」と付け加える指摘と同じだ。

「それならどうして、企てを事前にコイツに話さなかった?」

 ぼくもそう思う。

「お前を逃がしてやりてぇから、お前自身が協力してくれとどうして頼まなかった?」

 ぼくもそう思う。

「分かってたからだろ? 其れを事前にコイツに話したら、コイツは其れを断る、と。だから言わなかったんだろう?」

 思う。

「解放だなんだ、友達がなんだ悪夢がなんだと言いながら、結局は。お前らがお前らの見たいように見た悪夢に耐えられなかったってだけじゃねぇか」

「私たちがたたりちゃんを苦しめたかっただけだって言うんですか!?」

 ヒステリーに叫ぶなっちゃんは、実に愛らしい。その過保護に、ぼくも溺れてしまってもいいかな、と思う時がある。

 だけど、そうじゃないよ、なっちゃん。 

 荒脛くんが、否、ぼくが言いたい事はそうじゃない。

「だから、そうじゃないならそう言えば良かっただろ」

 俺じゃなくて、コイツに。と、そう言いながら、荒脛くんはぼくの頭を撫でる。

 嫌気が差すくらい、優しい手つきだった。

「お前らばっかりが思いの丈を爆発させて、勝手に色々と画策して、公平じゃないだろ。お前ら幼馴染なんだろ。だったら三人で、三人が納得行くまで、話し合えばよかっただろう」

 本当に、そう思う。

「首塚たたりがどう思っているのか。なんで誰も、其れを訊かねぇんだよ」

 それから、考える。

「誰も訊かないなら、俺が訊いてやる」

 ぐい、と頭髪を掴まれる。

 無理矢理に顔を上げさせられれば、しょーちゃんとなっちゃんの痛々しく歪んだ顔が、ぼくを見ていた。

 あーあ、なんて顔をしてるのさ。

「なぁ、小娘」

 今度は小娘呼ばわりときたか。全く以て、忌々しい。

 荒脛くんのくせに。荒脛客人のくせに。ぼくや、彼等の定められた宿痾しゅくあの外から、偉そうに物を語りやがって。単なるお客様のくせに。

 忌々しい。

 忌々しい。

 忌々しい。

 この怨み、晴らさでおくべきか。

「お前は、どう思ってるんだ」

「……ふぉ」

 喋りづらい。気道が一つ、塞がっている。

 けれども構わず、ぼくは言った。

「ふぉふあ」

 ぼくは。

「ふいづは、たはいあ」

 首塚たたりだ。




——————




 猫を埋めた帰り。

 こっそりと裏門をくぐったぼくらを待っていたのは、伏し目がちに佇むかあさまだった。

『愉しかったですか?』

 泥んこのぼくをまっすぐに見つめ、かあさまは言う。其れが質問ではない事は、考えるまでもない事だったので、ぼくは口を結んで俯いた。

 隣でしょーちゃんが、何かを言おうと目を泳がせていた。ぼくの着物の袖を掴む、なっちゃんの手は震えていた。

 嗚呼、うん。やはり、考えれば考えるほどに、考えるまでもなく。この先にまで二人を巻き込むべきではないだろう。

 思い、ぼくは静々しずしずと二人のそばを離れ、かあさまの前に立った。

 かあさまは『殊勝ね』と、ぼくを見下ろす。

 それから、ぼくの頬をはたいた。

『貴女が拾ったものを、貴女が何処に埋めようと構いませんが』

 じんじんと痺れる頬に、生理反応で溢れた涙が伝う。

わたくしの許し無く、外に出る事は許していませんね?』

 其れもまた質問ではなく、詰問だ。

 故にぼくの返事は決まり切っていた。

「申し訳御座いません」

 かあさまの返答も決まっていた。

『許さないわ。罰を与えます』

 そう言って、踵を返す。ついてきなさいとは、わざわざ言わない。おかえりなんて、言う筈も無し。

 だからぼくは当然に、かあさまの後に付いて歩いた。

 その三歩目で、裏門を振り返る。二人は其処そこで、茫然と立ち呆けている。

 こういう時には、何と云うべきか。

 其れは知っていたので、ぼくは声を発さないように、口だけを動かした——


 ——ばいばい。




——————




「起きてるか、首塚」

 ひどく暢気な声だった。

「ん」

 きゅきゅきゅっとつぐみさえずりが、中庭から雪見ゆきみ障子しょうじと鼓膜を貫いて、寝覚めの脳を揺さぶる。

スイッチの入れられた玩具の如く起き上がったぼくは取り敢えず、枕元に置いてあった氷嚢ひょうのうを投げつけた。

 馬鹿野郎。クソ野郎。

 何しにきやがったかなんて、もはや聞く気にもなれないけれど、最低でも三発は攻撃する権利がぼくにはあるはずだ。

 第一打こと氷嚢は、くたびれたスーツの肩にべしゃりと当たって力無く畳に落ちる。胡坐を掻いて無遠慮に腰を据える荒脛くんの横顔に、ぼくの抗議は微塵も届いていないらしい。相も変わらず煙草を咥え、ガサゴソとビニール袋を漁る姿は、推参にしたって無礼に尽きる。ぶぶ漬け喰らってさっさと帰れ。

「連日のお参り、御苦労さんどすなぁ」

「いえいえたたりはんこそ、お元気そうで何よりやわ」

 なんだァ、てめえ。

「お前から言ってきたんだろうが。睨まれる覚えは……」

「無いの?」

「……ありますね」

 よかった。「無い」て言ってたら本格的に戦争だったぜ。

 ともあれ、と。

 頭を掻こうと動かした右腕がずきと痛む。目をやれば、添木と共に包帯でぐるぐる巻きにされた我が腕の、なんとも痛ましき姿が其処にあった。ぐーぱーと握って開く動作にも、碌な力が入らない。

 仕方なく、左腕を上げる。がりがりと後頭部を掻いて、ぼくは溜息をいた。

 怒るのも馬鹿らしい。居るモノは居るのだから、見て見ぬふりも無意味だ。

「何しに来たのさ?」

 訊ねれば、ああ、と頷く荒脛くん。「見舞い」と簡潔に答え、ビニール袋から取り出した林檎をこちらに見せる。

「切るのと搾るのと、どっちがいい?」

 え、もしかして搾れるの。握り潰すやつですか? ちょっと見たい。

「……あー」

 でも、よくよく考えたら、荒脛くんの手から滴った果汁を飲むのはかなり嫌だ。

 精神的には勿論、衛生的にも褒められたものではないだろう。

「カットで」

「ん」

 受けて、荒脛くんは再びビニール袋に手を突っ込む。取り出したる小さな新聞紙のくるみを開き、小さな果物ナイフを右手に握った。そうして林檎の皮を剥き始める。意外にも器用だ。赤い衣がするすると剥がされ、その柔肌を露わにしていく。

 それほど待たず、ぼくの膝元にはお皿に乗った林檎のカットが並べられる。

 うさぎさんだ。

「うさぎさんじゃん」

 林檎のうさぎさんだ。

「うさぎさんです」

 ……いや、まぁ可愛いけれども。なんかキモイな。

(まぁいーや)

 爪楊枝の刺さった一尾を摘まみ、口に運ぶ。酸味は殆ど感じない。しっとりとした果肉を舌に乗せると、桃に似た甘味と芳香が口内に広がる。

 実はそんなに好きじゃないんだけどね、林檎。けれども空腹には染みる。二匹目のお尻に爪楊枝を刺したところで、荒脛くんが切り出した。

「夢でも見てたのか」

「あん?」

 意図が分からず、荒脛くんを見やる。すると彼は、気だるげな眼でぼくを見つめながら、自分の目元を指差す。

 爪楊枝から手を離し、片目に手を添えると、渇いた涙痕にれる。

 えー、まじかよ。ぼく、泣いてたの? そんな繊細な心なんてまだ余ってたっけかな。

「忘れた」

 言えば、荒脛くんは「そうか」と返し、また黙る。言葉を探しているという感じではなく、何も言う気が無い様子だ。それは別に構わないのだが、まじまじと見つめられると居心地が悪い。

 そのままにしておくのも何だし、何か喋ってみようかな。

「あの後さ」

「ん」

 昨夜の話。

 誘拐されて、助けられ。背負われて、骨を折って気を遣わされ、骨を折られて思いを告げられ、そんなこんなで目を閉じた、その後。

「しょーちゃんとなっちゃんは?」

「あ? 気になるのか?」

 実はそれほど気になってはいるわけではない。けれどもなんとなく、頭の中に最初に浮かんできたのが其れだった。経験として共有できるタイムリーな話題だし。

 知っておいて損はない、なんて思考が幾許か、あるにはある。

「ドロップキック」

「は?」

 何?

「だから、ドロップキックしてきたぞ。いや、ミサイルキックか」

 明日の天気を問われたくらいの面持ちでいる荒脛くんの口から、予想外の言葉が飛び出した。

「二人同時に突っ込んできたが、体感的にはなずなの嬢ちゃんの方がエグイ角度だったな。ほぼ水平に飛んできてた」

 何ソレ。超見たかったんだけど!!

「一応、謝ったんだけどな。やり過ぎたから、ごめんって」

 そういう問題じゃねーだろ。

 ていうか、だからミサイルが飛んでいったんだろ。

「俺が門を出るまで踏んだり蹴ったり、だ。パンチ、チョップもされたっけか。流石は脊刀、流石は心堂……て感じだったぞ。ナチュラルに急所や関節を狙ってきた」

 林檎を丸かじりしながら、しみじみと語る荒脛くん。ぼこぼこにされた割には、全くの無傷に見えるのだけれど。荒脛くんだし、あらゆる傷が一晩で治っていたとしても不思議じゃあない。

「最後はもう、黒服の連中が止めに入ったりなんだり揉みくちゃだよ。面白かった」

「その感想はどうなのさ」

 確かに面白そうだけれども。

「ワガママな奴だな」

「はぁ? なんすかそのコメント」

 今のは正しいツッコミだったじゃろがい。何処にぼくの身勝手な要素が含まれてたんだよ。

「二人とも、堰を切ったみたいに泣きじゃくってたって言ったらお前、気楽に聞けたか?」

「……あー」

 成程。

「色々言ってたぞ」

 そう言って「たとえば」と天井を仰ぐ荒脛くん。

 ごめんで済むか、とか。馬鹿じゃないの、とか。

 偉そうに御託を並べないで、とか。

 だったらお前がやってみろ、とか。

 アンタなら、アナタなら。

「出来るはずだろう、とか」

「いや無理でしょ」

 思わず突っ込んでしまった。

 荒脛くんには無理だ。

 荒脛客人はいうなれば、演劇の舞台に迷い込んだライオンのようなものなのだから。対応を求められるのは役者の方である。中断も再演も許されない、演じ切る事を強いられた状況で、彼の牙や爪に怯えながらアドリブでやり過ごすしかない。

「俺もそう思うけどな」

 もしも荒脛くんが鶴だったら、はたを織れたかもしれない。

 雪女だったら、其処に居るだけで良かったかも知れないし、或いは純粋で狡猾な兎であれば、悲劇ごと狸を沼に沈められたかもしれない。

「俺にゃあ、無理だろう」

 彼は荒脛くんだから。

「だが、まぁ。奴らが言いたくなる気持ちは分かる」

「そういうとこだよ、荒脛くん」

 そんなのは、荒脛くんの心持ち一つで幾らでも変えられるのに。

「分かってる」

 答える荒脛くんは、少しだけ気まずそうだった。

 約束と裏切りと愛情に揺らぐ心も無ければ、誰かの痛みや苦しみを我が事のように感じる事も無い。

 ただ見たままに見たものを知り、「彼等はそのように思ったらしい」と感じるだけのお客様。

 「これでも今回は反省してるんだ。悪い事したなって」

 だから軽いなオイ。そういうとこだって言ってんでしょうが。やっぱり一回、強く言った方がいいかな、これ。

「だからってワケなんだが」

「?」

 そうして、荒脛くんは改まる。

 それまで常に纏っていた倦怠や苛立ちを収め、虚ろな瞳に点を差す。

 眉間の皺も無ければ、への字口も無い。

 いっそ穏やかささえ感じる様相に、むしろぼくは恐怖を抱く。

「約束を一つ、しようと思う」

「は? 約束?」

 あぁと頷き、告げる。

「もしも、お前さんがこの先、首塚の使命から逃げたいと思ったら」

「呼ばないよ」

「呼べ」

 命令形だった。けれども。

「手伝ってやるよ」

 手伝う。

 その表現はまぁ、悪くない。

「気が向いたらそうしてあげよう」

 ぼくがそう言うと、荒脛くんはわずかに笑みを浮かべ、立ち上がった。

「じゃ、そういう事で」

 彼は吐き捨て、背を向ける。ふすまを開けば、陽射しがその背の輪郭を包み、影を落とす。

 ぼくは其れをぼんやりと眺めながら、遠く、遠くの方から近付く、どたどたと慌ただしい二つの足音に耳を澄ました。

「行くの?」

「おう」

 坊ちゃん嬢ちゃんによろしくな。

 そう言って、嵐はようやく過ぎ去っていく。

 開けっ放しの襖の影、誰かが小さく「さよなら」と呟いた。

「元気でね」

 今までありがとう。そんな思いを込めつつ返すも、次の返事は無い。

 彼女の作る肉じゃがが食べられなくなるのは、些か以上に残念だけれど。悪い気分ではない。中庭に目を移すと、相も変わらずいかつい顔で佇む土蔵がこちらを覗いていた。

「……ふぅ、やれやれ」

 膝元のお皿を脇に置いて、ぼくは布団の中の右足に意識を傾ける。右腕と同じく、添木で固定された其れは動かそうにも動かないけれど、指先はぬくんでいる。ぐにぐにと動かせば、ほんの少し脛が痛んだ。

 全治二カ月といったところか。やはり荒脛くんは器用だ。あの鉄火場で、治りやすいように骨を折るなどという芸当も、当然の如くやってのける。見事なものだ、と言ってあげない事も無い。

 怪力乱神かいりきらんしん

 何事をも力ずくで捻じ伏せる、圧倒的な暴力を持ちながら、なんかキモイ配慮と、なんかムカつく器用さをも併せ持つ男。

 そんな彼だから、急速に蛇行する車から小娘を救い出し、ついでに自殺しようとする運転手も引っ張り出して飛び降りるくらいの事は造作も無いだろう。加えて、彼女を死んだ事にして、何処かにかくまってあげる事も。

 ぼくには荒脛くんが分からない。

 考えても無駄だから、考えないようにしている。けれどもいざ考えてみれば、考えるまでも無かった。あの派手なキャンプファイヤーからは人間の焼ける臭いはしなかったし、そもそも、黒焦げの運転席に人影が無かった事など、ぼくは見るでもなく見ていたのだから。

 ぼくには出来ない芸当だ。出来る必要も無いのだけれど。逃がさないし。

 けれども、どうだろう。

「たたり!」

「たたりちゃん!」

「やー。元気だねぃ、お二人さん」

 息を切らしてやってきたしょーちゃんとなっちゃんの顔を眺めれば尚更。

 感謝する気にはなれないけれど、骨の一本や二本、安静の二カ月や三カ月くらいは安いようにも思えてくる。

 故にぼくは思案した。

「その。また荒脛が現れたと聞いて、飛んできたんだが……」

「……大丈夫? たたりちゃん、何かされてない?」

 そんな問いかけに、何と答えたものか。

 何と答えれば、あの臆病で陰気な獅子に嫌がらせが出来るだろうか。

 いつかまたやって来るだろう嵐を、せせら笑いながら迎え撃ってやる為に。

「ぷろぽーずされた」

「え、ぷろっっ!?」

「な……に?」

 ひとまずはこんな感じで。しばらく遊んでみるとしよう。

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