首塚たたりの吹きこぼし

 昔々のお話だ。

 拾ってきた猫が死んだので、ぼくは日暮れの裏山に、彼を埋めに行く事にした。

 彼の入った革袋はずしりと重く、大きくて引き摺ってしまう。加えて土木作業用の剣先スコップまで抱えたぼくは、ふらふらとした足取りで屋敷の裏門まで歩いていた。

 そこで「たたり」と、背中から声を掛けられる。

 どうにかこうにか振り向けば、同い年くらいの男の子と女の子が、並んでこちらへと駆け寄ってきた。

 男の子はしょーちゃん、女の子はなっちゃん。

 ぼくの幼馴染である。

 ぼくの前まで辿り着いた二人は、一緒に行くと言い出した。

 しょーちゃんが言った。

父様とうさまが言ってたんだ。俺の使命はお前を守る事なんだって」

 大げさな話だと思った。

「俺がお前を守るよ。たたり」

 けれども、彼がそうしたいのであれば、取り立てて拒む理由もぼくにはない。

 無言でいるぼくと、誇らしげなしょーちゃんとを交互に眺め、なっちゃんが言った。

「えぇ、しょーちゃん? 守ってくれるのは、たたりちゃんだけ?」

 可愛らしい、けれども狡猾な言い回しだった。少し膨らませた頬が、林檎のように赤らんでいる。

 しょーちゃんは一瞬だけ驚いたような、痛い所を突かれたような顔をして、黙り込んだ。そして恥ずかしそうに、毅然としたフリをして宣言する。

「なずなも俺が守ってやる」

 ぼくはなっちゃんの顔を見た。彼女は少しも動揺した様子なく、愉しげに微笑んでいた。

「まるで、ついでみたいな言い方ね」

「う……」

「ふふ、冗談よ。ありがとう、しょーちゃん」

 それじゃあ、と言って、なっちゃんはぼくの手からスコップを優しく取った。其れをしょーちゃんの胸に渡し、次いで革袋を優しく抱き、ぼくの隣に立つ。肩の触れる距離で、「けっこう重いのね」なんて言いながら、こちらに微笑を向ける。

 こういう時は、なんて言えばいいんだっけ。

 そんな事を考えている内に、革袋を抱えたしょーちゃんが並んでいた。

「行こう、たたり」

「行きましょ、たたりちゃん」

 昔日の二人に挟まれた、幼きぼくは考えていた。

 二人はきっと、いつかぼくを怨むのだろう。



———―――




 どかぁん、と最悪の寝覚めだった。

 爆音である。というか、爆発音である。

 閉じたままのまぶたが熱い。視野が赤く染まっている。生温い風が頬を撫で、焦げた臭いが嗅覚に張り付く。ぱちぱちと何かが燃える音がするので、何かが起きているのは文字通り“火を見るよりも明らか”だ。うわ、起きたくねー。

 それだけでも気力が失せるのに、次いで聞こえてきた声が、聞き覚えのあるものだったので、ぼくは神をのろった。

「おい、起きろ。首塚」

 低い、物憂さげな声だ。頭上の間近くから降る其れは、勘違いでなければ、ぼくが世界で一番死んでほしい男の声である。したがって、目を開ければそやつの顔を見る羽目になる。

 ……嫌だなぁ。

 視界は赤いのに、気持ちは超が付くほどウルトラブルー。青褪めた花嫁も、所詮は自分の憂いなど藍色に過ぎなかったのだ、と思い知って真っ青になるより他ない、藍より青しぼくの憂鬱。この倦怠はいかにして拭うべきか。このまま眠り姫を演じていれば、何とかやり過ごせないかしら。

「起きろ。つーか、起きてるだろ、お前」

 ぼくの身体を小さく揺する声。

 狸寝入りを決め込むぼく。

 そもそも目を開きさえしなければ、声の正体も不確定。真実あの野郎であるかは謎のまま、此処で再会した事実も有耶無耶に出来るやもしれぬ。

 森羅万象、事実は実際に確かめるまで断定出来ず、有る無しの相反する二つの状態は、理論の上で両立するのだ。と、何処かの猫殺しがそんな感じの事を言っていたので、今回はそのパラドクスを採用しようじゃあないか。

 つまり、確認さえしなければ『どちらでもあるし、どちらでもない』なんていう曖昧な形を保てるワケなので、後で綺麗さっぱり無かった事にしたって問題ない。

 うんうん、よし、そうしよう!

「起きねぇなら、ちゅーするぞ」

 きっっっっっっっっっっしょ。

「うぉえ」

「よし起きたな」

 思わず嘔吐えずいてしまった。くそが。

 仕方なく、本当に仕方なく、心底から嫌々ではありつつも、目を開く。

 するとやはり、くたびれたスーツの男が、紫煙を燻らせながら、想像通りの不愛想でこちらを見下ろしているのだった。

「……あのさぁ荒脛あらばきくん」

 荒脛あらばき客人まろうどくんやい。

「もう少し手心というかさ。普通に起こせないもんかいね」

「乳母の真似事は専門外だ」

 そういう問題じゃあない。

 ぼくだって、首塚四十八分家の物見役に、わざわざお世話を頼むつもりはないし、そうでなくとも荒脛くんはノーサンキュー。ワイシャツの襟も正せない、ネクタイもマトモに結べない男に、然様な高望みをするほどぼくは鬼ではないし、落ちぶれてもいない。

 ただ単に、とりあえず。その無精ひげにまみれた口で、キスの事をちゅーとか呼ばないで欲しいだけなのだ。吐き気と眩暈と寒気の嵐で身体が千切れる。

「ああ言えば絶対起きると思ったもんで、つい」

 寝ぼけまなこを誠心誠意に歪ませながら、無言の抗議に訴え出ても、荒脛くんは何処吹く風。知らん顔で手を差し伸べてきやがる。ぼくは敢えてそれを無視し、やれやれどっこいしょと上体を起こした。

 欠伸を一つ。遠くを見渡す。

 滲んだ視界に映るのは、両脇を林に囲まれた、薄暗いアスファルトの一本道である。ツギハギの舗装が凍った夜露に濡れており、月光を乱反射して実に目映く、鬱陶しい。

 ついでに言えばお尻が物凄く寒い。浴衣で路脇に直座りしているのだから当然だけれど、それなのに何故か、左半身は妙に暖かかった。

 いや、まぁ、はい。

 何故なのかはまぁ、なんとなく分かってるんですけれども。

 青空を隠滅する夜の帳を、更に覆い隠すように巻き上がった黒煙。その火元を追って目を動かせば、其れは次第にこちらへと近付いて、道路を挟んだ向こう側へと辿り着く。

 ぱちぱちと逆巻く真っ赤な炎。

 路肩の林、白樺の大樹に突っ込んだステーションワゴンが、キャンプファイヤーと化していた。

 アレはもうなんというか、ぼろぼろで、ぷすぷすで、めらめらもくもくだ。オノマトペで茶化してあげるしかないくらいに、悲惨な事になっている。

 幹にめり込んだフロントから湧き上がった炎が、車体を完全に包んでおり、ついでに白樺も燃やしている。かわいそう。何も悪い事はしてないだろうに、ちょっと路側帯に近い所に生えていただけなのに、一本だけあんなになっちゃって。

 いっそ山火事になる勢いで燃えていれば、白樺一族は郎党撫で斬り、清々したろうに。冬の冷気は残酷だ。圧倒的な湿度で以て火勢をなだめ、犠牲は彼のみにて済む事が、素人目にも分かる。こんな事なら、彼は生まれてくるべきではなかったのかもしれない。

「……さてはお前、今すっごいどうでもいいコト考えてるな?」

「失敬な」

 人外にも及ぶ壮大な博愛心を、どうでもいいコト扱いとは、なんて野郎だ。

 いちゃもんを付け返してやろうと身を乗り出したところで——再びの爆発音。どかぁん、といやに景気が良い。そちらを見直せば、直径約二十インチの溶けたタイヤが、放たれた砲弾の如くぼくらを目掛けせまっていた。

 え。やばくないですか、あれ。

 爆風によって押し出された鉄と硬質ゴムの塊、二十キロ超の物体に激突されたら、普通の人ならそれで人生終了だ。

 だというのに。

「よいしょ」

 などと、間の抜けた掛け声一つ、のそりとぼくの前に出た荒脛くんは、黒き楕円の死神に向けて片足を上げる。薄汚れた革靴の底に衝突したデスサイズ、もといタイヤは呆気なく弾かれ、逃げるように明後日の方向へと飛び跳ねていくのだった。ぴょいんぴょいん。

「……」

「……」

 ……。

「じゃあ、帰るか」

「いや、死ねよ」

 その意図の発言に対して、この意図の発言を返すのは初めての体験だ。これでも生半なまなかならぬアンビリーバブルな身の上をしているぼくだから、大抵の理解不能常識外れな経験は、踏んできたという自負があったのだけれど。その自負は本日ただ今を以て粉々に打ち砕かれた。

「あの程度で死ねるかよ」

「あの程度なら死ぬべきでしょ」

 なんというか、人として。

 漫画じゃあるまいし。仮に漫画だとしても、キミが出てくるとジャンルが変わるんだよ、ジャンルが。ああもう、頭が痛くなってきた。これだから嫌いなんだよ、彼。

「……まぁいいや。てか、もういいや」

 突っ込むのも面倒になったので、毎度の如くな嘆息をこぼす。それから、荒脛くんへと片手を突き出す。

 「あん?」と首を傾げるあほ面が、どうにも察しが悪かったので、ぼくは声を荒げた。

「起こせっつってんのっ。腰が抜けたんですっ。さっきのタイヤでっ」

 



———―――




「それで?」

「報告しておく話があったんで、ちょいと首塚家に顔を出したら使用人さん方が騒いでた。何事か聞いてみたら、お前さんの姿は無いが、靴はある、と。これは誘拐されたに違いない、てな」

 荒脛くんの背中の乗り心地が、案外と悪くなかったので不愉快だった。

 厚さなく、筋骨隆々とした感じはしないのに、何故だか広くて安心感がある。安心感を、覚えてしまっているのが、不愉快なのである。

 なれども、然様な事は口にしないのが、ぼくの優しい所だ。寝間着姿を見兼ね、ジャケットを貸してくれた分くらいは気遣ってやってもよい。凍てつく吐息を吸い込むたび、ワイシャツに染み付いた煙草の臭いが漂うのがなんとも不愉快だ。加齢臭とか思わないだけ有難く思って欲しい。

 ともあれ。道すがらに、状況整理の触りとして、経緯を訊ねたぼくに荒脛くんは語るのだった。

「犯人は食事係の女だろう、とさ。同機は分からんが、どうやら夕餉ゆうげに睡眠薬を盛ってたらしい。あの屋敷、警備はザルだし、連れ出すのは簡単だしな」

 ぼくの脳裏に、一年前にウチに入ったばかりの、割烹着を着たお姉さんの顔が浮かぶ。

 美味しい肉じゃがを作れる人に、悪い人はいない筈なんだけどな。

「それで、お前さんの」

 荒脛くんは、言いつつ。

「耳の裏に埋め込まれたGPSを追跡してみたら、どうやら車で街の外に向かっているようだから、なんとかしなけりゃならねぇな、と。乗りかかった舟で、俺が行く事にした。行き先さえ分かれば先回りは簡単だ」

「……うん」

「そんで。道の真ん中で待ってたら、例のワゴンが突っ込んできたんで、ルーフに飛び乗った。振り落とそうとしたんだろうな、猛スピードで蛇行運転し始めたから急いでドアを壊してお前さんを抱えて飛び降りた。後は、お前さんも見た通りだ。凍結した夜道で無茶な運転したらどうなるか、なんて。推して知れる」

「……」

「今はお前さんを送り届ける道中」

 ……。

「はァーぁ」

「ご注文通り、知ってる事を話してやったってのに、なんだその溜息は」

 いやまぁ、うん。

 行き先が分かっていたとしても、徒歩で先行く車の先回りなんて出来るワケねーだろとか。後半に怒涛のハリウッドが展開された辺りとか、そういう所のツッコミはもう、投げ捨ててしまう事にして。

 イチバンに言いたいのは、こうだ。

「キミ達はぼくをなんだと思ってるのかね?」

「あん?」

 よくもまぁ、人の寝込みに好き勝手をしてくれたもんである。

 誘拐犯は勿論なのだけれど、その他大勢も然り。なにをやっているんでしょうか、うちの者達は。

「主がかどわかされてるんだよ? 先ずもって、然るべき所に連絡するべきそうすべきじゃね? そうじゃない?」

 偶々、居合わせたとはいえ、真っ先に頼るのが荒脛くんだなんて。判断ミスにもほどがある。

 この男を誰だと思っているんだ。“荒事あらごと荒脛あらばき”なんていう、ろくでもないあだ名を付けられているようなヤツだぞ。

 先代のたたりが、曇った瞳で「荒脛だけは怒らせないようにしなさい」なんて、わざわざ娘に教えるような相手ですよ?

 ぼくは祟りだけど、この野郎は厄災。何かを間違えて人の身に生まれただけの嵐だ。其れを裏付けるように、今日も今日とて車を一台スクラップにしているのだから、おいそれと頼っていい相手ではないのは明白なのだ。

「まぁそんな事よりもだな」

 そして、いちいちムカつく物言いをするヤツなのだ。

「そんな事とはなんじゃい」

 返し、ぼくは荒脛くんの後頭部に頭突きをかます。おでこいたい。不意打ちの一撃にも関わらず、石頭は揺らぎもしない。くそが。

「なんだよ?」

 それでも、何かをお見舞いされた感覚はあったようで、淡々と訊ねてくる。癇に障る野郎だぜ。他人事だと思って流そうったって、そうはいかねぇからな。おでこまだいたい。

「なんだよじゃねぇよぅ!」

 こちとら寒いのである。上着一枚増えたところで、其れは変わらないのである。

 おかげ様で震えは止まったけれど、それだけでどうにかなるほど冬の夜は甘くないし、ぼくは強くない。お気に入りの浴衣だって汚れちゃったし。怒りで再震動しそう。

 まぁ要するに、八つ当たりでもなんでもいいから、喋っていなければ死にそうなのだ。

「分かった分かった。聞いてやるからまずは俺の頼みを聞け」

「頼み?」

 其れが、荒脛くんの口からはあまり聞かない言葉だったので、ぼくは思わず聞き返した。

 すると荒脛くんは、疲れた声で応える。

「煙草吸わせてくれ。上着の内ポケットに入ってるから」

「……へぇ」

 成程。つまりこのヤニカスは、荒ぶる御霊の意志を浴びせられながら、時代遅れの嗜好品に囚われてマトモなコミュニケーションも出来ないワケか。

「おーけぃおーけぃ」

 言われた通り、羽織っていたスーツの内ポケットを探る。

 ぼくは紺色の小さなボックスを取り出して。

「ふんっ」

 そのまま、林の方に放り投げた。

「……あの、首塚さん? 煙草のポイ捨てはよくないですよ?」

「うるせぇ」

 これが怨霊の怒りだ。

 ついでにこの安物のライターでお前の髪を一本ずつ燃やしていってやろうか。

「なんだその陰湿な嫌がらせ」

「嫌がらせなんてぜんぶ陰湿なもんでしょ」

「あぁ……確かに」

 むしろ相手に身体を委ねた状態で、正面切って「やります」と宣言しているぼくは、騎士もかくやといった正々堂々ぶりではないか。

 ぼくが小学生の頃に遭遇した、クラスのトップカースト五人組、そのやり口に比べれば可愛いものだと言えるだろう。因みにその五人の内、三人は首塚祟命くびづかすうめいノ人柱碑に悪戯書きをして神隠しに遭った。現在も行方不明である。あと二人。

「然るべき相手、ねぇ……」

 ぼくの殺気に観念したのか、溜息一つ、話題を戻す荒脛くん。星空を見上げて「うーん」と唸り声を溢した彼は、やがて呟くように疑問符を浮かべる。

「例えば?」

 問われ、ぼくは考えた。

「しょーちゃんとか」

「……脊刀せとの坊ちゃんか?」

 脊刀せと将器しょうき

 しょーちゃん。幼馴染であり、ぼくの数少ない友人である。

 武術、剣術の有段者で、学業の方も優秀だと聞いている。学校では彼の横顔を追う黄色い歓声が鳴り止まないとかなんとか。文武両道、眉目秀麗、加えて国内トップ企業の跡取りともなれば、将来を約束された完璧超人といって差し支えない。

 四十八家の顔合わせでは、右手上座の最奥に座して、自分よりもずっと年上の分家当主たちを相手に尻込みする事なく、誰よりも冷静で厳粛な意見を放つ超然ぶりである。

「いつだったっけ。ほら、ぼくが碑石の検め中に迷子になっちゃった時さ」

「あぁ、山小屋でサボって寝過ごしてたんだったか?」

 やめろ。アレは迷子だ。表向きそうなっているからそうなのだ。大事なお役目をサボったりなんかしません。本当です。

 ……こほん。

「その時もさ、しょーちゃんが真っ先にぼくを見つけてくれたじゃない」

 幼き頃の思い出故に、どうやってぼくのサポタージュポイントを見つけ出したのか、今となっては分からないけれども。その捜査力は折り紙付きだ。

 彼なら、大抵の問題は難なく解決してしまうだろう。恐らく金で。

 ぼくの頭上で、しょーちゃんの精悍な顔立ちがきらきらと輝く。

「つまり、四十八家を巻き込む一大事にしたいわけか。俺は構わんが……今からでも呼ぶか?」

「やめろください」

 即断否決するぼく。そうだった。あの馬鹿、途轍もなく頭が固いんだった。

 しょーちゃんの手にかかれば、既に解決済みの本件であっても「潜在的・慢性的に抱えていた問題の発露」となり、緊急招集会議が開かれるだろう。サボ……迷子の時も、こってりと絞られた。

 今呼んだら、あの時のリフレインになる。間違いない。まして問題発生の折に連絡なんてしようものなら、ぼくの身柄はともかく、馴染みの使用人たちの首が危うい。

 なんだかんだで気心知れた使用人かれらを、判断ミスくらいで祟って路頭に迷わすのは忍びない。何より、ぼくは環境の変化が嫌いだ。面倒くさいから。

 ナシ。しょーちゃんはナシ。役に立たねぇ幼馴染だぜ。何が完璧超人だ、ふざけやがって。

「じゃあ、なっちゃんだ」

 気を取り直し、もう一人の幼馴染の名前を挙げる。

「……心堂しんどうの嬢ちゃんかぁ」

 なんですかその苦々しい含みは。

 なっちゃん。心堂しんどうなずなもまた、古武道の師範代クラスの腕前を持ち、且つ茶道、華道、日舞と多芸において有識者を唸らせる才媛である。しょーちゃんと違って思考が柔軟だし、ぼくに甘い。死ぬほど甘い。デレデレだ。たまに怖い。

 彼女なら、誘拐されたぼくが助け出された後に何を望むかも分かる筈だ。

 そして何より、なっちゃんは財閥令嬢だ。金。金の力は偉大。

「そうだな。あの嬢ちゃんはお前さんに甘い。死ぬほど甘い」

「ふふん」

「その代わり、他の奴には冷酷で、脊刀の坊ちゃんと違って秘密主義」

「……」

 想像してみた。

 ぼくの事が大好きな深窓のご令嬢が、まるでお気に入りの花に纏わりつく羽虫を叩き落すように誘拐犯の思惑を挫く姿を。

 そして職務怠慢の庭師たちを、花の芽が気付かぬ内に伐採していく様を。

 なんならこれを機に花を手折って栞にしようとか、彼女なら考えるかもしれない。肌身離さず持ち歩き、恍惚と頬を染めながら、栞に接吻かますかもしれない。

 あー……うん。

「迎えに寄越すか?」

「死にたくない」

 その意図の発言に対して、この意図の発言を返す初体験パート2。

 ナシ。なっちゃんもナシ。何処に迎えられるか分かったもんじゃあない。

 かぶりを振って、他に誰かいないか考えてみる。

 金髪グラサンと角刈り……無理。異常を解決する能力があの二人には無い。

 ぼくとそっくりの女の子……そもそも助けにきてくれない。

 アイツは? 駄目。

 コイツは? 無理。

 ソイツは? いやちょっと。

「……」

 あれ、もしかして、ぼくの周りって丁度良いヤツがいない?

 そういえばそうだ。ぼくの知り合いは、祟り神信仰なんていう古臭い因習に囚われた、クレイジーサイコカルト集団で構成されているのでありました。

「背中で泣かないでくださる?」

「まだ泣いてねーしっ」

 目頭を押さえたぼくは胸中で独り言つ。

 もしかして、もしかするんですけれども、荒脛くんが一番マシ? マジ? 

 なんだか惨めな気持ちになってきた。

「やっぱ荒脛くんでいいや。我慢する……」

「さいで」

 込み上げる涙は堪えつつ、気を取り直して前方に目を向ける。

 やかましい鬼火から離れれば、夜の郊外は冷え冷えと寂しい。その寂しさがやけに目尻を突き刺した。ぽつぽつと佇む錆びた看板や道路標識が、我が家への道程が未だ長い事を示している。

 首をもたげれば、荒脛くんの腕に挟まれた腿の先、華奢な裸足がぷらぷらと揺れていた。冷気が骨まで染みて、感覚が無い。

 人体というのは不思議なもので、何事においても度を越すと『何も感じなくなる』。痛覚は勿論、眠気や精神的苦痛といった代物まで、万事そのようなものだから、実際よく出来ている。パーフェクトには程遠いけれど、エラーを前提とした構造として、悪くない。

 と、いうのは現実逃避に思いついた世迷言でありまして。

 寒いものは寒いし、痛いものは痛いし、眠いものは眠い。少なくとも今、この身が感覚麻痺を起こしているのは、生命の危機や不快感、いきどおりやらで脳がバグっているだけだろう。アドレナリンがどっぱどぱなのだ。

 その自覚があるのは、果たして良い事なのか、悪い事なのか。理性が保てていると言えば聞こえは良いけれども。何の気なしに親指を上下に動かしてみたけれど、まるで自分のものとは思えない。やだな、この感じ。

「あ、わりぃ」

 ふと、立ち止まる。

 「なにが?」とぼくが問うより早く、荒脛くんは屈んでぼくを下ろし、こちらへと向き直る。

 そうして、おもむろに靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ、妙に慣れた手つきでそれらをぼくに履かせた。うわ、生暖かくて気持ち悪い。

「他に寒いとこあるか?」

「……あー」

 ここでもしも、「ももが寒い」と言ったらズボンを脱ぐのだろうか。

 好奇心がざわつく。けれども、もしも本当にそうなったら、荒脛くんの姿は裸ワイシャツ同然である。傍から見たら、余裕で通報案件だ。

 単なる荒脛くんならまだしも、真性変態と化した荒脛客人あらばきまろうどに背負われるのは、かなりキツい。誰かに見られた暁には、彼の尊厳のみならず、ぼくのブランドイメージまで崩れてしまう。それはちょっと、いただけない。

 それに、まぁ、暖かいし。ちょっと色々気持ち悪いけど。

「走ると余計に寒いだろうからな。お粗末でわりィけど、もう少し我慢してくだせぇ、たたりサマよ」

 なんだコイツ。急に気遣いやがって。これじゃあまるで、ぼくが馬鹿だ。

 「キモイ」と「親切」を同時にこなす彼の行動言動は、ぼくには読みづらいものである。

 だから苦手なのだ。次に何をしでかすか分からない、予測不能な変化を齎すものが、ぼくは好きじゃない。

「だいじょぶ」

 だから、ぼくはそれだけ返した。荒脛くんは一瞬沈黙して「そうか」と呟く。

 それから再び、屈んだまま背を向ける。ぼくも黙って、その背におぶさる。もう一度、足先を動かしてみると、かぱかぱと揺れる革靴が、その感触が親指に伝わった。

(あーあ)

 厄日だな。

 思いながら、ぼくはぼくよりも一回り大きい足をぼんやり眺める。

 ひたひたと地面を踏みしめる其れは、畳の上を歩くのと変わらない気丈さで、規則的な歩行を続けている。右、左と交互に前へと繰り出される度、背中が揺れて、ぼくも揺れる。

 少し眠たくなってきた。

 どうなんだろう。寝ても、大丈夫だろうか。

 永遠に目を覚まさない……といった事態にはならないと思うけれど、実はそうなってくれた方が好都合ではあるのだけれど、とにかく。それはそれとして、眠らない方がいい気も、頭のどこかでしている。

 なのでぼくは、わざとらしく荒脛くんの耳元へ顔を近付けた。

「それでさ、荒脛くん」

「ん、なんだ? やっぱ寒いのか?」

 そうじゃなくてさ。

「加齢臭するよ。シャンプー変えたら?」

「やめろ。危うく傷付くところだったろうが」

 傷付けや。

 そんな冗談はさておき。

「一体全体、何を隠してるの?」

「……なーいしょっ」

 きっっっっっっしょっ。




————――




 昔話の続きをしよう。

 猫を埋めた数日後の話である。

 夕焼け小焼けの縁側で、茜色に染まった中庭の土蔵を眺めながら、ぼくはしょーちゃんとなっちゃんに訊ねた。

「当代様をどう思うか、か……」

 神妙な顔つきで俯くしょーちゃん。なんとなく訊いてみただけなのに、いかにも難題かの如く唸るので、ぼくは首を傾げた。

「綺麗な方よね。当然だわ、たたりちゃんのお母さまなんですもの」

 相変わらずの近い距離で、なっちゃんはすぐに答える。

「目元なんか、たたりちゃんとそっくりよね」

 其れは、普通は逆に言うんじゃあなかろうか。

 かあさまがぼくに似ているのではなく、ぼくがかあさまに似ているのだ。

 親子なのだから当然、とは思うのだけれど。実のところぼく自身は、かあさまと自分が似ているとは思っていない。

 かあさまの目は切れ長で、常に鋭い。桜色の唇は凛と結ばれているし、たおやかな長髪を翻し、奉納の舞を踊る姿などはまるで天女のようだった。アレに比べれば、ぼくは似せ物の小鬼。良くて座敷わらしといったところだろう。

 さておき、なっちゃんの答えを聞いて尚、しょーちゃんは難しい顔をし続ける。

「……たしかに、当代様はお綺麗な方だと思う」

 やがて口を開くも、その言は煮え切らない。何かあるのか。今度はなっちゃんが首を傾げ、続く言葉を待った。

 ぼくら二人から見つめられ、しょーちゃんはばつが悪そうに「誰にも言うなよ」と釘を刺す。

 うなずくぼくと、なっちゃん。

「怖いんだ」

 と、しょーちゃんは言った。

「あの人を見ていると、何かこう……底知れない何かを感じるんだよ」

 それでしょーちゃんも、なっちゃんも閉口した。

 恐ろしい、底知れない何か。

 なっちゃんも其れは感じているのだろう。だから否定出来ないのだ。

 ぼくはといえば、内心で嗚呼と頷いていた。

 当代様。

 首塚たたり。

 かあさまは、他の人間からはそう見えているのか。

 しょーちゃんは真面目な子だ。そんなしょーちゃんが、問われて思わず溢してしまうほどに、あの人は恐ろしい存在なのだろう。

 なっちゃんだって、お家の役割に関しては真摯な子である。そのなっちゃんが、崇拝すべき首塚当代への無礼とも取れるしょーちゃんの発言を咎める事も、いつものように微笑んで茶化す事も出来ない。

 みんな、首塚たたりが怖いのだ。

「なぁ、たたり。むしろこっちが訊きたいよ」

 言われ、ぼくは考える。

「当代様は、どういうお方なんだ?」

「私も聞きたいわ」

「そうだねぇ」

 こういう場合は、娘の視点で答えるべきか。それとも後継者の立場として、言うべきか。

 されど此処はぼくにとって、あくまでも雑談の場でしかない。考えるのが面倒だったので、端的に意見を述べる。

「優しい人だよ。たぶん、この世の誰よりも」

 其れは、思ってもみなかった答えだったらしい。

 押し黙るしょーちゃんとなっちゃん。

 なんとも言えないような、複雑そうな二人の表情は、ほんの少しだけ面白かった。




———―――




 ずばり冬とは、眠りの季節。

 “春眠、暁を覚えず”なんて言うけれど、あれはいうなれば、冬の睡魔のウィニングランみたいなものである。

 太陽だってすぐ寝るし、一部の畜生共にいたっては、全人類の悲願ともいうべき夢の二十四時間睡眠に移行する。実に羨ましい。

 特に地上へと這い出る虫の類は、この時期になると完全に世界から姿を消す……というのは、お外の世界の常識でありまして、ところがどっこい、当間市にその常識は通じない。

 居るのだ、この街には。冬でも関係なく湧き出る虫が。

「あれ、たたりちゃん? と……荒脛さんじゃないっすか」

 人語を解し、人に擬態する、偶に役に立つけどあんまり役に立たない、ギリギリで益虫。そんなやつ。

「……」

 名を、キンパツグラサンコメツキムシと云ふ。

夕也ゆうや。一発、はたいてもいいぞコイツ」

「えっ」

「たぶん、心の中でお前を罵った。そういう気配がした」

 だからなんで読めるの? サトリなの? そういう妖怪なの? 

「ごめーんね! はい謝った。謝ったからダメ。叩いたら祟るかんね」

 なけなしの笑顔で愛らしく謝罪するぼく。

 ただでさえかじかんでいるのに、足はロックされていて、手には得物も無い。ぼくはか弱いのだ。野郎に叩かれでもしようものなら、死ぬ。潰れて死ぬ。中身だって出ちゃう。むしろ出す。虫はぼくの方だったのかもしれない。こうなれば、ぼくに残されたのは女の武器だ。

「あー、馬鹿にしたのは否定しないのね? いや、いいけどさ。ははは」

 荒脛くんの背中で、とびきりの愛嬌を振り撒くぼく。へっへっへ、殿方を惑わす小悪魔スマイルは、なっちゃんから継承済みだぜ。

 効き目が薄そうなのは、決してぼくが可愛くないからだとかではない。いくらオスでも相手は虫けら。ぼくの美少女っぷりも、流石に異種族の壁は越え難いというだけの話だ。そうに決まっている。

 そんなワケといえばそんなワケで。

 乙女の可憐さに恐れをなした、金髪グラサンこと袖付そでつき夕也ゆうやくんは、街燈の下にたじろぐのだった。

 うんうん。細かい事を気にしない、そういう所は好きだぞぅ。嘘だけど。

 ともあれ、四十八家を統括する脊刀家の配下、市内を嗅ぎ回る密偵ことしょーちゃんとこのパシリと遭遇したのだから、そういう事だ。思えば林中を抜けて、背景は寝静まった住宅街へと移っている。

 何ならその辺の民家へお邪魔して、客間に陣取り、衣類を強請ねだるのもやぶさかではない。背の高いブロック塀も、名馬アラバキバカヂカラの脚力を以てすれば雑草の如く。何の障害にもなるまいて。

 あ、ていうか。

「夕也が全部脱げば問題解決するじゃん」

「何が? 何が解決するの? むしろ事件じゃないそれ? 端から見たら誰が下手人か分かんないよ?」

 成程。寒いから服を寄越しやがれという意図だったのだけれど、そういう解釈ないしツッコミになるのか。過程を省いて断片的な結論を述べても、人には伝わらないという好例だ。それにしても冗長なリアクションだなぁ。

「つか、二人とも何なんその恰好。誰か襲ったんすか?」

 だからさ? 皆さん、ぼくを何だと思ってるんですか?

 荒脛くんだけならともかく、恰好から判断するなら、むしろ襲われた側の姿をしている筈なんですけどね?

「誘拐された」

 一から説明するのが面倒だったので、それだけ伝えるぼく。

「助けた」

 同様に、一言呟く荒脛くん。

「成程」

 分かってない顔で頷く夕也くん。たぶん、何かを諦めたのだろう。これぞ怠け者たち特有、『なんとなくでとりあえず』なコミュニケーションである。利点は話が早い事。短所はお話にならない事。

 普通ならここで「夕也はこんな所で何してるの?」なんて尋ねるのが正道なのだろう。そう思う。

 でも訊かない。面倒だし、興味ないし、大方の予想は付くし。

「中枢のお歴々は大変だねぇ。俺、末端で良かった」

 そんな事を言いながら、頭を掻き、はっはと笑う夕也くん。

 受けて、荒脛くんは「そうだな」と嘆息する。

「コイツや、中枢の坊ちゃん嬢ちゃんの憂慮に比べれば……お家のしがらみを丸々全部、姉貴に放り投げてた末端のガキが、その姉を失って家督を継いだ話なんて大した事じゃないもんな」

「……」

 うわお。

「思っても無い事を口にするな、夕也。からになるぞ」

「……スンマセン」

 ええと。もしかしてこれもなんとなくでとりあえずのヤツ? それとも男同士の魂で通じるナニカでしょうか? ぼくおんなのこだからわかんない。

 わかんないけど、ええと、まぁ。

「夕也はこんな所で何してるの?」

 荒脛くんの背中から発せられる苛立ちをひしひしと感じつつ、全力で知らないフリを決め込むぼく。努めて平常を装い訊ねれば、夕也くんはサングラスを片手で押し上げつつ、「ああ……」と呻く。

 おい、さっさと持ち直さんかい。このぼくがフォローに回ってやってるんだぞ。ああもうめんどくさいな。

「誰か怪しいヤツでも見つけたとか? よいよい、申してみるがよい。不届きものはすべからく、このぼくが祟ってくれよう」

「ははっ、今日はそういうんじゃねーって」

 ノンデリカシーモンスター荒脛くんの脳天をばしばしと叩きながら口ずさめば、夕也くんはやっとのこさ、常の声音を取り戻す。いいぞ、その調子だ。

「じゃあ何? えー、まさか誰かとデートとか?」

「うん、そう」

「まじかよ」

 テキトーに言っただけなのに。

 いやまぁ、それはまぁ、人生を謳歌するものとして、それはそれは大変よろしゅう御座いますけれども。

 ぼくが命か何かの危機に瀕していた傍らで、愛の逢瀬に勤しもうとはふてぇ野郎だ。ていうか、それにしたって、こんな時間に? 否、こんな時間こそ男と女、袖を擦り合うものかもしれない。そういうものか。どうなんだろう。おいら、色恋はからっきし分かんねぇよぅ。

 そもそもの話、そうであるならば、お前はこんな所で油を売っている場合じゃないだろう。

 ぼくらもそうだ。馬に蹴られて地獄に堕ちる前に、さっさと立ち去るべきじゃありませんか。だというのに、この駄馬はまるで足から根でも伸ばしたみたいに動こうとしない。これだから男は駄目なんだよな。

 仕方なく、溜息を吐きながら、ぼくが再び気を利かせようとした——


——その時だった。


「末端が、恋をしちゃいけませんか」

「……んん?」

 そのけわしい声は、聞き覚えのある少女の声は、ぼくらの背後からやってきた。

 「おーう」と暢気な様子で、口端に笑みを浮かべながら、片手を挙げる夕也くん。

 無言で振り返る荒脛くんの動きで、自動的にスライドした視界に、今朝も鏡で見たような顔が映る。

「お前さんは……」

「爪崎故子です。初めまして、客人まろうど様」

「……」

 まじかよ。

「こんばんは、夕也さん。月が綺麗ですね」

「え、月? あー、うん。故子ちゃんの方が綺麗だけどね」

「……」

 まじかよ。

「……はぁ。こんばんは、当代様」

「まじかよ」

 まじかよ。

 思わず口に出してしまった。

 背を僅かに揺らし、顔を俯かせる荒脛くん。さては笑っていやがるな? 露骨に嫌そうな顔で、露骨に社交辞令で挨拶されたぼくの哀れをわらっていやがるな? 昔からそうだったよね、キミ。ぼくがぞんざいに扱われていると、何故か嬉しそうにしやがるよね? 性格悪いよ?

「えと、うん。こんばんは、故子ちゃん」

 ともあれぼくは爪崎つまさき故子ゆえこ、故子ちゃんに苦笑と挨拶を返した。

 ぼくによく似たその顔は、けれど鏡と違って笑い返してくれる事も無い。冷ややかな目付きで、まるで可哀想な物でも見るかのようだ。まぁ、事実として今のぼくは、なかなか可哀想な状態なのだけれど。それにしたって、そんなに見下します?

「こんな時間に、こんな所で、そんな恰好で何をしてらっしゃるんですか? はしたない」

 悪意がすごい。そりゃあ夕也くんも困惑のトーンで「故子ちゃん?」と名前を呼ぶワケである。

「なんですか、夕也さん」

「いや、何っていうか。いつもと雰囲気違うくない?」

 嗚呼、やはり。

 やっぱり、ぼくの前でだけなのかコレ。

 信じられますか? この子、ちょっと前まではこんなじゃなかったんですよ?

「そんな事ないです、これで通常運転です」

「だとしたら荒々しすぎない? え? オフロード走ってる?」

「……夕也さんは、口が悪くて表裏がある女の子はお嫌い、ですか?」

 わざとらしく眉尻を下げて、恥じらうような素振りをみせる故子ちゃん。その顔でそういう事するのやめてくれないかな。あと、言ってる事が暴力的ですぜ? 流石にそれで丸め込めるほど、世の中もグラサンも甘くないと思うよ?

「好きです」

 お前は馬鹿か。

 馬鹿だわ。そうだったわ。人の頭越しに真顔で告白してんじゃねーよ。キリっとしてるのが腹立たしいわ。

「……なかなか面白い娘さんだな?」

 無表情を装う荒脛くん。けれどもその声は震えていて、笑いを噛み殺しているのが明け透けだ。「恐縮です」と頭を下げる故子ちゃんの恭しい仕草は、貴族令嬢のようだった。

「ですが、面白いというのなら、今のお二人の姿の方が面白いですよ」

 うーん、これが罵倒に聞こえるのは、ぼくだけなのだろうか?

「原始人の親子にでも見えるか?」

「お涙頂戴系感動ポルノの主人公とヒロインに見えます」

「故子ちゃん? やっぱりいつもと違うよね? いや! 俺はそれもアリだと思うけど!!」

 騒々しくなってきやがったぜ。

 けれども、もっともな指摘ではある。夕也くんもそうだったけれど、こんな服装で出歩く連中がいたら、まずはそこに目が向くだろう。

 致し方のない事情があるとはいえ、その事情も実に厄介で、込み入った話になってしまうから如何いかんともしがたい。

 いったい何がどうしたら、前世でどんな悪さを働いたら、斯様な罰を受ける羽目になるのか。ぼくも気になるところである。

「まさか本当に愛の逃避行の真っ最中とか?」

「それは無い」

 コンマ1秒で否定するぼく。すると故子ちゃんはぼくを睥睨へいげいして一拍、明らかに音程の下がった冷たい声色で「そうですか」と呟く。

「そうですね、そうでしょうね。他人ひとの一生を踏み躙っておきながら、自分はお役目に耐えられず、女の幸せに逃げ込もうなんて、そんな虫の良い話が通るわけがありませんものね」

「いや、あの」

 即答したよしに、全く以てそういう意図は無い。

 仮に愛の逃避行とやらに勤しむのだとしても、荒脛くんとだけはあり得ないという意図なのだけれど。

「あぁ、それとも本家だけは別なのでしょうか? そっか、そうでしょうとも、首塚当代様と、私のような末端も末端を同列に並べて語るなんて。非礼をお詫び致します」

 その真意を説いたところで、あまり意味はないだろう。むしろ悪態に拍車を掛けるだけだ。

 それにこれ以上、会話を重ねると荒脛くんが不安だ。何かの拍子にまた、他人のパーソナルな部分に土足で踏み込みかねない。

「故子ちゃん? それはちょっと、言いすぎじゃね?」

 諫める夕也くん。お前もさっき似たようなコト言ってたじゃねーか、と普段なら突っ込むところなのだけれど、今は止そう。ここは会話を切り上げるのがベターな選択だ。

 よって、ぼくは故子ちゃんと夕也くん、二人が口を開きかけたのを遮り、息を吐き出した。

「まぁそんな事より!!」

「……そんな事?」

 眉をひそめ、口を引き攣らせる故子ちゃん。

 あ、やべ。語彙をミスった。

「デートなんでしょ! 何処に行くか知らないけど、気を付けてね! それじゃあぼく達はここいらでおいとましようか、アラバキクン!!」

 いや、ここはごり押しで行こう。

 多少強引でも、乗り切ってしまえばこちらの勝ちだ。

 滅多と出さない大きい声を出して、荒脛くんの横腹に鞭代わりの蹴りを入れる。すると荒脛くんは、渋々といった感じでようやく足を動かし始める。

「じゃあね、故子ちゃん! 夕也も! またいつか何処かでアイマショウソウシマショウ」

 貼り付けた笑顔で手を振るぼく。無言の荒脛くんが、故子ちゃんの方からきびすを返し、呆気に取られて間抜け面を晒している夕也くんの隣を横切る。

 そうだ、いいぞ荒脛くん。歩ける。行こう。キミにはぼくを無事に家まで送り届ける義務がある。義務遂行の希望があるのだ。わが身を殺して、ぼくを守る希望である。

 夜明けまでに帰れば、一夜の夢。それほど大事にはならないはずだ。恐らくはそうでありますようにと、ぼくと同じように願い、待っている人があるのだ。

 でもどうせあとでしょーちゃんや偉い人たちに怒られるんだろうなと思いつつ、荒脛くんが絡んだとあれば意外と穏便に済むんじゃないかと、静かに期待してくれている人があるのだ。キミは、信じられている。キミは、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ! アラバキ。

 蛇の睨みを背中に感じつつ、このままこの場から脱せられますようにと心の中で念じつつ。些細な事で誰かの琴線に触れないよう、一挙手一投足たりとも不自然のないように、力を込めて何事もないフリを演じる。

 正直、なんでぼくがこんなに焦らなくちゃいけないんだと、それこそ恨み言の一つでも零したいところだけれど。ぼくは大人なので、言わなくてもいい事は言わずにおける。我慢が出来るのだ。

「……あぁ、一応言っておくんだが」

「え」

 唐突に立ち止まる。

 ぼくの内心を知ってか知らずか、荒脛くんは振り返る。

 そして、つまらなそうに言うのだった。

「お前さんはたたりにはなれんよ、爪崎」

「……は?」

 ……。

「またな、夕也」

「あ? え? あー、うぃっす」

 再度、踵を返す荒脛くん。

 今度は振り返らない。

(……ほんとにさぁ)

 もう一度でも振り返ろうとしたら、その時はぼくが殺してやる。殺してでも、その口を閉じさせてやる。

 しばらく歩き、二人の気配が完全に消え失せたところで、ぼくは荒脛くんの首を絞めた。

「オマエほんとにやめろよ、ああいうの」

「……うん、アレは俺が悪かったな。すまん」

 そこは素直に謝るんかい。

 想定外に謝られてしまうと、こちらも許してやらざるを得ない。だからこそ、余計に苛立ってくるので、ぼくは思考を逸らし、祈る事にした。

 お願いします、神様。どうか、謝って済む問題であってください。

 どうか故子ちゃんが、あの言葉の意味を理解出来ないくらいの、お馬鹿さんでありますように。




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