第10話 「それは考えてなかった」

「――参ったねぇ、ここまで本気だったとは。俺も覚悟を決めるとしますか」


 槇本まきもとはそう言うと手元の珈琲を手に取り、飲みながら遠くを見つめていた。

 その表情はどこか哀愁に満ちていて、決して開けてはいけない扉を開けてしまったような後ろめたささえ感じる程だった。


「すみません、ご無理を言ってしまったようで……」


「いや、いつかこんな日が来るだろうとは思ってたから大丈夫だよ。ただ、少しだけ時間を貰えないかな……こちらもすぐにどうこう出来る話じゃないからさ」


「はい、それは分かってます。宜しくお願いします!」


 睦美みつみはすぐに連絡が取れない事情に疑問を抱きつつも、プライベートなことなので仕方ないのだと割り切り、それでも何とかしてくれる槇本に感謝した。

 こうなると問題なのは自分自身のことだ。変わると断言した手前、何もせずに待つわけにもいかない……結果を出さなくてはいけないのだ。


「それにしても、やっぱり似てるよなぁ……あゆみと話してるかと思っちゃうよ」


「あぁ、声ですか? 当時もよく言ってましたよね」


「初めて聞いた時は本当にびっくりしたもんだよ」


 槇本の言うように睦美とあゆみの声はよく似ていた。だが、当時を知る人でも配信などで睦美の声を知る人は居ても、あゆみの声を知っているのはこの二人ぐらいだ。


「話変わるけどさ、呼び方どうすればいい? 俺の方は変えてもらったからさ……」


「あぁ、そうでしたね。おまかせしますよ? 私は今のままでも気にならないので」


 本音を言えば、愛称や苗字ではなく〝睦美〟と名前で呼んで貰いたいと思っていたが、そんなことは口が裂けても言えるはずもなかった。


(――!! 思ってない! そんなこと思ってないから!)


「そっか。んー、どう呼べばいいかなぁ……」


(……どうしよ、君が変なこと言うからドキドキしてきた……)


「七瀬さん……じゃあ、なんか余所余所しいよなぁ。七瀬って呼び捨てもなぁ……。睦美さんってのもなんかなぁ……。睦美――」


(――!! えっ、嘘っ! それで呼ぶの⁉)


「――って呼び捨てはまずいよねぇ。睦美ちゃん……うん、これがいいか」


(……なんだろ、このモヤモヤした気持ち)


「はい、全然大丈夫ですよ。ちょっと恥ずかしいですけどね」


「そうかなぁ、俺からすれば妹みたいな存在だからねぇ」


「ふふっ、有難うございます」

(――あぁ、やっぱりそうだよね。何を期待してたんだろ……馬鹿みたい……)


 呼び方を決めてもらう流れからの思いもよらない妹扱い発言。それだけ自分のことを親身に思ってくれていることへの有難さは計り知れない。しかし、それとは別の何かを感じた睦美は、愛想笑いを作ることでその場を誤魔化すことにした。


「――さてと、それじゃそろそろ出ますか。車で家まで送るよ」


「いえいえ、そんなに気を使って貰わなくても電車で帰りますから……」


「またあの人込みの中に入っていくの? 大丈夫?」


「うぅ……、それを言われると……」


「でしょ! 気にしなくていいから、家が嫌なら最寄りの駅まで送るよ」


「……はい、では駅まで宜しくお願いします」


 こうして店を出た二人は駅の駐車場に止めている槇本の車へと歩きだした。

 少し傾きだした日の光は、変わらず新緑のトンネルに向けて注がれ、先程よりも角度のある木漏れ日を落としていた。その光に照らされた二人の影は仲良く横に並んでいて、まるで睦美達のあったであろうもう一つの未来を映し出しているようだった。


(――本当にそんな未来あったのかなぁ……そもそも求めていたのかなぁ、私……)


「そうだ、岸永きしなが君は元気にしてる? ちゃんと面倒見てくれてる?」


「はい、いつも気にかけてくれていて頭が上がりません。所長が居なかったら今の職場も続いたかどうか……」


「さすがは岸永君だねぇ、やっぱり頼んでみて正解だったよ」 


 槇本は頷きながら、満足そうに答えた。

 睦美に今の職場を紹介し、仲介してくれたのは他でもない槇本だったのだ。所長の岸永とは学生時代の同級生らしく、今も連絡は取りあっている仲のようだ。


「その節は本当にお世話になりました」


「いいよいいよ、あの時は岸永君からも求人の相談受けてたからねぇ。お互いの利害の一致ってやつだから気にしないでね」


「そうだったんですね、でも本当に助かりました」


「それから、職場で何かあったら遠慮なく言ってきなよ? 相談に乗るからさ」


「はい、有難うございます!」


 木漏れ日の下を歩きながら睦美は、その斜め前を歩く槇本の後姿を見て今更ながら感謝の気持ちで一杯だった。あの人が背中を見せたことがあっただろうか……常に向き合い、自分の進む道を示し続けてくれていた。

 何も信じれなくて引きこもったあの時も、社会復帰させる為に尽力してくれてたあの時も、そして今もあゆみのことで向き合ってくれている。

 考えれば考えるほど、特別な感情が湧き出てきて抑えることが出来ない。


――やっぱり、この人は自分にとって特別なんだ! それだけは間違いない!――


(うわぁぁぁ! さも私が言ったような語り方しないでぇぇぇ!)


 そんな感情を抱きながら、今から駅まで送ってもらう車の中が二人きりの密室になるということに、この時の睦美はまだ気付いていなかった……。


(――!! 今気付かされたよ! そうだよ、どうしよ……それは考えてなかった)



 結局、車内での睦美は外の景色を見るに留まり、槇本の顔を一切見ることが出来なかった。会話も一つ返事を返すのが精一杯で、気を使った槇本が静かに運転する姿がそこにあっただけだった。


(君が変な事言うからでしょぉぉぉ! 意識するに決まってるじゃない!)


 二人を乗せた車は、建物の影に覆われた車道をひたすら走りすぎていく……光の射すことのないその影に今日あった出来事の陰の部分を同化させながら。

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