第18話
ペトラのデミグラス牛乳は瞬く間に広まった。
契約したその日に、クライスがデミグラス牛乳を使った料理を考案。
それを機に、ペトラのもとには大量の人が押し寄せることになった。
製法を知りたがる酪農家、自分にも売って欲しいと言う料理人、等々。
だが、ペトラには対処するだけの余裕がなかった。
牧場の運営だけで精一杯なのだ。
そこで彼女は、馴染みの卸売業者に仲介を頼んだ。
かつてデミグラス牛乳に渋い反応を示したあの業者である。
名をトムワーカー・ジョンソンエンドソンと言い、通称はトム。
当然、トムは快諾した。
トムからすれば、降って湧いた儲け話だ。
断る理由がなかった。
「いやぁ、まさかあのクライス・アレサンドロの店に使ってもらうことで箔を付けるとはなぁ。その発想だけでも大したものだが、普通は閃いても実行できないよ。クライス・アレサンドロの料理に対する情熱は本物だ。たとえ相手が王族や貴族であっても、気にくわないものは気にくわないと言う。そんな人間にあろうことか食材を売り込むなんて肝っ玉には恐れ入るよ」
「あはは、そのセリフ、もう何度も言われました」
デミグラス牛乳の完成によって、ペトラの牧場は一気に栄えた。
作っても作っても、デミグラス牛乳は飛ぶように売れるのだ。
まさに破竹の勢いで捌けていく。
いつしかトムの店の前には、他の卸売業者が集まるようになっていた。
ペトラがトムに卸した次の瞬間、卸値の数割増しでそれを買っていく。
需要と供給のバランスが明らかに均衡していなかった。
圧倒的な需要過多であり、供給がまるで追いついていない。
その為、デミグラス牛乳は連日にわたって値上げされた。
それでも需給のシーソーに変化はなく、常に需要が重い状況だ。
「トムを介さず売れば今の数倍は稼げる」
多くの業者がペトラにそうアドバイスした。
ペトラ自身もそのほうが儲かるだろうと思っていた。
それでも彼女はトムとの契約を貫いた。
その理由はいくつかある。
1つは、養父のポンドがトムと懇意にしていたから。
商品を卸すならトムを頼るといい、とポンドの紙にも書いていた。
最たる理由がこれだ。
その他には、ペトラの性格が関係している。
彼女は牧場を発展させたいと願うけれど、野心家ではなかった。
この牧場を末永く続けていければそれでいい、としか考えていない。
世界一の経営者にのし上がろうなどという思いは頭の片隅にもなかった。
大した野心がないからこそ、ペトラは他の業者と契約しない。
大した野心がないからこそ、今を絶好の商機とも捉えていない。
ペトラの胸中は、どうにか経営難を逃れたという安堵だけであった。
普通の牧場経営者なら浮かれてしまうのがペトラの現状だ。
だが、当のペトラ本人は、浮かれるどころか危機感を抱いていた。
デミグラス牛乳は料理界を中心に空前のブームを起こしている。
その発端でもあるペトラが、誰よりも控え目に見積もっていた。
(この状況が続いている内に、もう少し収益の幅を広げたいわね……)
彼女の性格はポジティブだが、思考としては完全なネガティブである。
それ故に、彼女はデミグラス牛乳の勢いがじきに弱まると考えていた。
今は物珍しさでウケているが、それも最初の間だけだろう、と。
その考えは間違っていた。
デミグラス牛乳は今後も発展するし、いずれ他国にも普及する。
常識的に考えて普及しない方がおかしい。
誰でも手軽に〈アレサンドロ〉のデミグラスソースを味わえるのだから。
だからこそ、多くの卸売業者がペトラやトムに群がっている。
トムをはじめとする多くの卸売業者がペトラにそう言った。
しかし、ペトラは「だといいですねぇ」と聞き流すだけだった。
信じていないわけではないが、信用しきってもいなかった。
ペトラが危機感を抱く理由はこれだけではない。
遠くない内にデミグラス牛乳の製法が流出すると確信しているからだ。
製法というのは、つまり、魔牛に食べさせている餌のことだ。
大手の酪農家と違い、ペトラの餌はシンプルである。
牧草にデミグラスソースをかけて食べさせるだけなのだ。
あまりにもシンプルなので、作業工程を隠す術がなかった。
ペトラは気づいていないが、デミグラス牛乳の製法は既に流出している。
ニーナの他にも多くの人間が盗んでいた。
しかし、誰一人として同じ物を作ることが出来なかった。
何十、何百、何千と試しても、デミグラス牛乳には至らなかった。
もしもそのことをペトラが知っていたら、彼女は努力を放棄しただろう。
ただひたすらに、デミグラス牛乳だけを量産していたに違いない。
だが、ペトラは知らないのだ。
大手の酪農家がデミグラス牛乳を模倣しようとして失敗していることを。
故にペトラは危機感を抱き、次の一手を考えていた。
デミグラス牛乳に続く、新たな目玉を――。
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