二人二脚

氷雨ハレ

上 話は始まり、既に終わり

 映画の上映はとうの昔に終わっていた。一時間半の現実逃避は意味をなさなかった。

 最近流行りの「新感覚☆退廃的胸キュンラブストーリー」なんてチープな言葉に救いを求めた私が馬鹿だったとしか言いようがなかった。

 もっとも、私は分かっていたはずだ。空想を追い求めて、焼けて墜ちてゆく。知っていたはずだった。

 だのに、私はこうも転がり落ちている。それは私の罪のためである。


 諦めて立ち上がる。上映終了から十分、レイトショーの閑散とした雰囲気は、それでもなお残っていた。

 箱の外へ繋がる廊下を歩く。それはとても長く、東京駅での京葉線乗り換えを彷彿とさせた。

 長い廊下を歩くと、旧友の面影を思い出す。私の目の前を燥ぐ旧友が、たとえ幻覚だったとしても、その背中を追いかけてしまう。今頃元気でやっているだろうか。私が塾に通い始めてからというもの、その友人とは疎遠になってしまった。

 あとちょっとで届きそうで届かない。走って先回りし、彼女達の顔を覗く。————顔無しだった。

 驚く私を、彼女達は透過していった。振り返ると彼女達は居なかった。出口だけがあった。


 何となくで家を出たので、特にするべきこともなく、ただ放浪するだけ。走光性の蛾のように、光るネオン街に引き寄せられていく。

 時計は必要無かった。何時なんじだってよかった。もう気にする必要は無かった。

 街を彷徨う。この街には片道切符で来た。帰る理由は無かった。もしも、私が塵となって消えることが出来るのならば、そのまま、この夜に溶解するのも悪くないかな、なんて思った。

 夜を吸い込む。口で、鼻で、大きく息をする。冷たい、乾燥した冷たい空気に混じって、いい匂いがした。それに釣られて、匂いの元を目指す。それは甘い蜜に引き寄せられるカブトムシのように。反射的な生存欲求に基づく行動。

 着いたのはハンバーガーショップだった。閑散とした店内には人の気配が全く無かった。

 正面に見えるのは券売機だった。成程なるほど、完全自動化か、と納得する。ハンバーガーとポテト、アップルジュースのコンボを注文する。お値段六八〇円。券売機に千円札を入れ、食券とお釣りを貰う。

 待ち時間にスマホを眺める。SNSの煌びやかな嘘が眼に入る。それは光害、失明の危険がある行為だ。そもそもこのブルーライトしか輝かない世界で、他に何が光るのかいささか疑問であったが、考えないようにした。

 すぐにハンバーガーが出来上がった。カップ麺も驚きの早さである。食券をかざし、紙袋を受け取る。そして、店を出た。

 少しネオン街から離れた所に公園があった。そこはとても暗く、明かりといえば、今にも消えてしまいそうな儚い街灯が二、三個ある程度だった。

 公園隅のベンチに腰掛け、紙袋を開く。ハンバーガーを取り出し、包みを解き、口に入れる。可もなく不可もなく、そんな味だった。

 半分程食べた頃、公園に他の客が来たのが分かった。それは若い男女で、女の方は男の服を掴んでいて、男の方は女の腰に手を回していた。そして、彼らは多目的トイレへ入っていった。

 それを見て、私は強い嫌悪感に襲われた。思い出される「あの日」、そうだ、あの獣は私を穢した。私のはじめてを奪って、そして居なくなった。

 その時、私は、今までハンバーガーをどこに運んでいたかを思い出した。それは「口」、私が彼に穢された場所。私はハンバーガーを、彼越しに摂取していた。つまり、私の体内をまた彼が穢すことになる。

 その瞬間、非常に強い吐き気を感じ、嘔吐。まだ消化されていないハンバーガーがその原型を少し残したまま戻ってきた。地面に飛び散る。足元に少しかかる。呼吸が荒くなる。

 私は少しの間、吐瀉物としゃぶつを眺めた。それに意味は無かったし、見ても気持ち悪くなるだけだったが、それを続けた。

 その間、私は思考を回した。皆そうだ。私と関わる皆、誰もが私に全てを押し付けた。本来、ヒトは二人三脚のように他者と関わるものであろう。一方の足は強固な結束を、もう一方の足は強固な支えを与えてくれるものである筈だ。しかし、実際はそうでなかった。形容するなら「二人二脚」————私の人生を両の足で縛り付け、自分自身を支えることはせず、無責任にのうのうと生きている————それが私と私以外の人間関係だ。言うなれば悪である。吐き気を催すような邪悪である。ただ、その悪にお世話になっていたり、救われたりしているのも事実であった。それは善ではないか、オカシイのは私ではないのか。そうとも思えてきた。

 次第に、今自分の中で渦巻く吐き気を、誰が引き起こしているのか分からなくなってきた。生きるべきか、死ぬべきか。それは他者であるか、私であるか。私の質的幸福を取るか、他者の量的幸福を取るか。終わることのない二者択一が始まる。いつもこうだ。そして分かっていた。いつだって前者は選べないことを。

 いつしか思考に整理がつき、私はベンチから立ち上がり歩き始めた。千鳥足でその場を離れた。それが思考の酔いによるものか、嘔吐の余韻かは分からなかったが、とにかく気分が悪かった。少し歩いて、近くにゴミ箱があることに気が付いた。私はそこに食べかけのハンバーガーを捨てた。ポテトも捨てた。アップルジュースは捨てなかった。後で口をゆすごうと思ったからだ。

 公園から出て、駅前の繁華街へ向かう。道中のシャッター街で、乱雑に群生する立ちんぼの華を見た。男を捕まえホテルに流れていく姿は虫媒花のようで、なんとも気味が悪かった。

 腹の底で何かがくすぶるのが分かる。あの卑しく、醜悪な花園から逃げ出そうと、自然に足が速くなる。

 繁華街に着いた。煌びやかなネオンが興味を惹こうとする。しかし、そこに私の興味を惹くものは無かった。

 ああ、眠い。そんなことを思いながら欠伸あくびをする。繁華街から少し離れた場所にカプセルホテルがあった。値段も程よく、今の所持金なら一、二泊は出来そうであった。

 機械に金を入れ、一泊のプランを選択するとカードが出てきた。このカードを指定の部屋の横にある機械にかざすと、部屋の扉が開くらしい。

 廊下を進み、部屋を目指す。チープな造りの廊下に、似合わない絵画が飾られている。それは『ゲルニカ』、ピカソの絵画、暴力と抑圧の象徴。それが狭い廊下にあった。ここのオーナーの趣味なのだろうか。ひどい悪趣味だ。どうやって置いたのだろうか、と疑問に思った。

 部屋は奥から三番目の下の段にあった。ほかに宿泊者は存在せず、部屋は静かだった。カードを機械にかざし、シャッターのような扉が開く。この火葬炉のような場所が、私の寝床だった。

 四つん這いで中に入る。扉を閉め、横になり、疲れていたのでそのまま寝てしまった。

 せめて、夢の中くらいは幸せでありますように。そう願いながら。

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