ネコマタ逃亡

1

 石畳の上を、カタカタとリズミカルな音を響かせながら馬車が走っていく。その馬車を引くのは、額に白い星を持つ赤茶色のペガサスだ。きっと、しばらく進んだ所にある飛行幻獣の離着陸するステーションで馬車を外し、空に飛び立つのだろう。

 空を見上げれば、羽を広げた小形のドラゴンが優雅に舞う。ドラゴン便は酷く高価で、一般の人間は中々乗る事が出来ない。ドラゴンの背に備え付けられたふかふかの座席に乗って、稀少で滋養強壮の効果があると言われるユニコーンやマーメイド料理を食べながら、林檎のツリーフォークから取れた果実を使った果実酒を飲む。こんな一握りの上流階級しか出来ない贅沢は、多くの庶民の憧れ、とされている。

 メルシア・ブラウンはあたりを見渡し、はぁ、と感嘆の声を漏らした。メルシアのいま住んでいる大学寮は、ここからさほどは離れていないが辺鄙な森と山に囲まれた所に建っているし、実家もかなりの田舎だったから、こんなふうに街中を闊歩する幻獣達が沢山いるのはずいぶん新鮮に感じられる。

 すれ違った高価な身なりの夫人の足元に、リードと首輪をつけた子犬みたいな生き物が座り込んでいた。思わず首を曲げて見つめると、その生き物もメルシアを澄んだ青色の瞳で見つめ返してくる。全身赤と黒の鱗に覆われていて、背中に小さな翼の様なものが付いている。きっと愛玩用に小型化されたワイバーンの一種だろう。小形とはいえ、こんな所でワイバーンに遭遇できるなんて、滅多にない事だ。夫人が歩き出すと、小さなワイバーンは慌てたようにちょこまかと夫人の後を追いかけて行った。そのあまりの可愛らしさに、メルシアは思わず満面の笑みを浮かべた。

 それにしても、待ち合わせの相手がまだ来ない。メルシアは時計塔に目をやった。昔、今より人間と妖精族が近しい関係だった頃にドワーフに作ってもらったというもので、数百年からずっと動き続けているが未だ一分一秒の狂いも無いらしい。その精密な時計によれば、すでに十五分、メルシアのしている時計によれば十三分も約束の時間は過ぎてしまっている。

 メルシアの通っている大学は、幻獣についての専門知識を学ぶ大学である。現在三年生であるメルシアは今日から一年間、学校に通って授業を受けながら実際の幻獣に関わる職場でインターン兼実習を行うになっているのだ。

 例えば幻獣医を目指している人は幻獣病院に行くし、幻獣の繁殖や飼育に関わりたい人は研究センター、あるいは幻獣園などに行く事が出来る。成績上位で、尚且つ幾度もの試験や面接をクリアしてようやっと享受できるこの制度、勿論本格的に就職する際には相当なアドバンテージで、その希少さや扱いの難しさゆえ、授業ですら中々実際に接する事の出来ない幻獣と直接触れ合えるというのは、とても貴重な経験なのだ。

 メルシアがガリ勉だなんだと言われようと、付き合いが悪いと言われようと、寝る間も惜しんで勉学に励んできたのはこの実習に参加するためだったのだ。その甲斐あって、幼いころから憧れてやまない、絶対に此処に就職するんだと決めていた仕事への希望も通り、期待と希望に胸を膨らませて意気揚々と出かけてきたのである。

 その出だしが、相手の遅刻である。集合場所、集合時間を間違えていないのは視線で紙がすり切れそうな程念入りに書類を確認したから確実だ。なんだか、出鼻をくじかれた気分だ。メルシアは困り顔で空を仰いだ。ペガサスが、頭上を羽ばたいて飛んで行った。もしかしたらさっきのペガサスかもしれない。そんなとりとめのない事を考えた。

「えーーっと、メルシアさん? で、あってる?」

「うわっ!」

 唐突に背後から声をかけられて、メルシアは思わず悲鳴をあげて飛び上がった。一拍置いて、なんて可愛げない悲鳴を上げてしまったんだろう、と恥ずかしさが込み上げる。

「び、びっくりした……!」

「あはは、お待たせしてすいません。急に急ぎの仕事が舞い込んじゃって」

 クスクスと笑う茶色の癖っ毛で眼鏡をかけた男に、メルシアは仏頂面をしながらも会釈をする。

「メルシア・ブラウン、です」

「驚かせたのは悪かったですって、そんな顔しないでください。僕はライアン・バートです。気軽にライとでも呼んでください。よろしく」

「ライ、さん。よろしくお願いします!」

 差し出されたライの手を慌てて握り返し、頭を下げる。話の通りなら、彼は今日からメルシアの上司になる人だ。……第一印象はあまりよろしくないが。

「固くならなくていいですよ。ほら、僕こんな緩いし。それじゃ、さっさと仕事場に向かいますか。そんな遠くないので安心してください」

「はい!」

 メルシアは言われた通りライの後を着いていく。背の高いライは一歩が大きくて、小柄なメルシアは早歩きをして何とかついていく形になってしまう。

「メルシアちゃん……メルちゃんでいい? それにしても、こんな所に来たいなんて物好きですね。あなた、学校から送られた成績書類見るに随分と優秀だったんでしょ? ここ以外にももっといい職場選べたでしょうに。……ああ、歩くの早かったですね。ごめんなさい」

「メ、メルちゃ……? あ、まあ、はい……。この仕事、子供のころから、ずっと憧れてたんです。だからどうしても入りたくて」

「そうですかー。ここ、きついし休み取れないし重労働だしで結構大変ですよ?」

「覚悟の上です!」

「これまた随分と頼もしい。期待してますよ。あ、あれですあの建物。大きいでしょ」

 ライの指さす先に目をやると、周りの建物から頭一つ抜けた赤レンガ造りの建物が目に飛び込んできた。

 どっしりとしたその佇まいにメルシアはしばし圧倒された。雑誌や新聞で見る度にここに就職するんだと夢見ていた建物が、今、まさに目の前にそびえ立っている。本当にこれは夢じゃなかろうか、と頬を両手で叩いた。ジン、と頬に広がるほのかな熱が、これは夢じゃない事を雄弁に物語っている。

「本当に、私ここで働けるんだ……!」

「そうですよ。さ、中に入りましょ」

 ライが笑いながら扉を開け、メルシアはほとんど駆けこむように建物に足を踏み入れた。ホールの様な開けた空間の先に受付スペースがあって、張りだしたニ階ロビーを見上げると、揃いの制服をかっこよく着こなした人達が何人も忙しそうに何事かを話しながら行き交っている。

 私も、これからこの中の一員になれるんだ。

 喜びに胸がはちきれそうになってメルシアは目を潤ませながら唇を噛み締めた。そうでもしないと、感情が口から溢れ出てしまいそうだった。

「僕達の仕事場はニ階です。ちゃんとついてきてくださいね」

 ライの後に続いて階段を上る。本当なら駆けあがりたいくらいなのに、ゆっくりと登るライの足取りが酷く焦れったい。そんな思いが顔に出ていたのか、振り向いたライが苦笑を漏らした。

「ニ階には色々な部署があるんですけど、紹介しながら行きますか? それともとりあえず私達の仕事場に直行――」

「直行で!」

「そういうと思いました」

 部屋がいくつか並ぶ中を、ライはぐんぐん奥へと進んでいく。一番奥の突きあたりまで来て、ようやくライは歩みを止めた。

「この扉の先が、私達の仕事場ですよ」

 どうぞ、という様にライが身を引いて、メルシアに扉の前に立つように促した。この先に、私の憧れてやまなかった職場が。メルシアはチョコレート色の扉の前に一歩、踏み出した。

 ドキドキと心臓の鼓動が速くなるのが分かる。唾を飲み込んで、顔を上げた。

「……よし!」

 深呼吸をして、メルシアはノブを握って一気に扉を押しあけた。

 本の匂いと、微かに甘いチョコレートの匂いが同時に広がった。部屋の手前側には、中央やや右寄りに書類に覆われたデスクと、きちんと整理されたデスクが向かい合う様にして置いてあり、左側の出っ張った小部屋はどうやら簡易キッチンの様だった。そして曇りガラスで三分の一程仕切られた奥の部屋は、壁一面、本で覆われていた。雑誌から古文書レベルに古そうなものから図鑑に画集まで、膨大な量と種類の本が雑多に本棚に納められ、入りきらない本は床に積み上がっている。

 文字どおりの本の山に一瞬呆気にとられたメルシアだったが、すぐにその目線はその奥にいた女性に釘づけになった。

 本棚の隙間に捻じ込んだようなソファに座りながら本を読んでいた彼女は、長い脚を優雅に組んで、黒い革手袋越しでも分かるほっそりとした長い指でページを規則的にめくっている。スッと通った鼻筋に切れ長の目。その整った顔立ちは、男の子みたいなショートカットのプラチナブロンドの髪と相まって中性的な美しさを作り出している。その長いまつげの下の金色の瞳が一瞬、チラッとメルシアを見上げ、またすぐに本に戻った。

 メルシアはしばし言葉を失った。まるで、絵画に描かれた人間がそのまま飛び出してきたかのような、そんな風にすら思えた。それほど、彼女は美しかったのだ。

「彼女の名前はロカミテル・ワードナー。通称ロキ、僕の同僚です。……おーい、メルちゃん?」

「っ! すっ、すみません! ほ、本日付で実習させていただく事になりました、メルシア・ブラウンです! よろしくお願いしますワードナーさん!」

「ロキで構わない。よろしく」

 その女性は本から目もあげずに短く言った。繊細なガラス細工の様な美しさのイメージとは違い、落ち着きのある声だった。

「……まったく、無愛想なんだからホントにもう。ごめんね、あの人は誰に対してもああだから、気にしないでくださいね。」

 なんて綺麗な人なんだろう。同性のメルシアでも、彼女の美しさにはつい視線がすいよせられてしまう。メルシアは茫然と彼女に見惚れた。

「えーっと、確かこの辺に……ああ、あったあった! はい、これがメルちゃんの仮職員証です。無くしたらダメですよ」

 差し出された掌ほどの大きさのカードを恐る恐る受け取るった。滑らかな木の感触。裏には責任者のサインと捺印、表には金色の飾り文字が目にも鮮やかに躍っていて。

「さて、改めてメルシアさん、『幻獣事案総合統括部』にようこそ! これからどうぞよろしくお願いしますね」

 幻獣事案総合統括部仮職員 メルシア・ブラウン。その文字が刻まれた職員証を、メルシアは心底嬉しそうな笑みを浮かべて握りしめた。

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