くすぐる炎

宝飯霞

第1話 出会い

 図書館の近くに家を建てましょ、と言ったのは、青井夫婦の妻、由美子である。由美子は明るい茶色に染めた、艶のある美しい髪を編んで後ろに束ねている。小顔で目が大きく、色が白く、華奢で、妖精のような儚さと可憐さを持っていた。また、性格もこの容姿に騙されることなく心優しかった。


「将来子供が生まれるでしょ。そしたら、私、子供たちにはロマンチックな性格になってほしいの。感動したら泣いて、嬉しかったら笑って、素直で優しくて、思いやりがあって、それから色んな言葉を知っていると、話しがいがあって面白いわ。本を沢山読ませて、深い人間になってほしいの。そうね、思春期には詩なんて書いたりして、将来小説家になってくれるといいわ。そしたら、子供たちが死んでも小説は残るから、魂は永遠でしょ。万が一よ。私たちより早く子供たちが死なないとも限らないのだから、そうしたら、手元に子供たちの言葉が、考えが、魂が、清らかな心が残っていると寂しくないでしょ。ねえ、毎日通うのよ。図書館の近くに家を建てましょうよ。そうしましょうよ、明さん」


 明と呼ばれたのは、由美子の夫である。背が高く、熊のようにがっしりしていて、濃い口ひげを生やし、その目は美しく澄んでいて、愛情に満ちた優しさが浮かんでいた。

 彼は穏やかにほほ笑んだ。すると、春の花の香をのせた暖かい微風が夫婦の頬をそっと撫でて、首筋に抜けた。

 明は自然の柔らかさに勇気づけられた。そして、由美子の言ったことも良い案に思われ、胸がわくわくした。

 彼らが立っていたのは街中である。喫茶店に行く途中だった。辺りは人々が雑踏していた。

 空は青く晴れていたが、明は物足らなかった。


「ねえ、公園に行かないかい? あそこには水仙が沢山咲いているだろう。きっと良い香りだよ。綺麗だろうし。桜ももう咲き始めていると思う。そこで、そこでね、君の提案をもう一度聞かせて欲しいんだ」


 期待に輝いた夫の瞳を見て、何がしたいのか、由美子はぴんときた。


「素敵。言うわ。行きましょ。ついでにコンビニでサンドイッチを買って、公園のベンチに座って二人で食べるの。そこで言うわ。なんて素敵なの。あなた」


 二人はくすくすと笑いながら歩いて行った。


 公園に着くと、桜は五分咲きである。黄色い水仙が咲き、芝生は青々として、パンジーが花壇に咲いている。その上を小さなミツバチが戯れている。

 春の甘酸っぱい香りが鼻孔をくすぐる。


 二人はベンチに座り、うっとりとした。

 由美子は未来の計画を優しくはっきりとした声で語った。花々の鮮やかな色を見ながら、その香りを楽しみ、暖かい風に撫でられ、彼らのロマンスが美しく心にしみ広がっていく。


「きっとそうしよう。時々ピクニックにも行こうね。キャンピングカーを借りて、川や海や山に行くんだ」

「ええ。いいわね」


 二人は手を取り合った。そして、お互いの顔を長いこと見つめ合った。二人は笑った。くすくすと鈴のような笑い声が唇の隙間からもれた。お互いの顔に浮かぶ表情が期待と興奮で輝いた。その色彩が、彼らの気分を高め、満足させた。


「由美子、その白いスカートを広げてちょっとくるっと回ってみてよ」


 明は指をもぞもぞと胸元で動かし、白い歯を見せて笑って頼んだ。


「やだわ。恥ずかしいわ。人がみているじゃないの」


 由美子はきょろきょろとあたりを見渡した。そこにいくらかの人がいるのを発見すると、赤くなり、苦く笑った。


 しょんぼりと明は残念そうに顔をゆがめた。

 それを見ると、由美子は胸が痛み、彼を幸福にしてあげたい、そのためなら自分の恥ずかしさなどどうでもいいことだと気づいた。


「いいわよ、いいわよ。ちゃんと見ておくのよ。一回しかやらないわ」


 由美子は白い長めのスカートをひろげ、くるくると回って見せた。

 スカートは花開くように広がった。柔らかく、軽やかに、バレリーナのような細い足首がちらちらと見えた。


 明は感動し、赤面して、この幸せがあまりにも自分にとって身に余る光栄に思えて、両目に涙をためた。


「泣きそうよ?」

「嬉しくて」


  由美子もつられて泣きそうになった。二人は手を握り、ベンチに腰を下ろした。


「サンドイッチ食べない?」


 由美子は買い物袋をさぐり、少しつぶれたサンドイッチをだした。


「やだ、潰れているわ。ペットボトルのお茶が傾いて、重しになったのね。でも、味は変わらないわ」


 由美子は、こつんと自分の頭を叩き、赤い舌を見せて、首をすくめた。


 彼らは食べた。そして、落ちたパンくずに群がってきた鳩を静かに眺めた。


 夕方になって空が赤くなるころまで、彼らは手をつなぎ、飽きることなく未来の計画について語り合った。彼らの口から出る声は音楽の響きのようにテンポよく飛び交った。


 セピア色の影が差し、人気がまばらになると、誰も見ていないことを確認して、由美子は明の肩に寄り掛かった。その豊かな胸が明の腕に押し付けられる。明は胸がどきどきした。そして、幸福にうっとりとした。


「いつまでも末永く幸せに……」

 由美子は明の首に流れる血の熱さに若干のぼせながら、まどろむようにつぶやいた。


「そうだね」

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