雨空に差すものは

葭生

僕の恋人は

ぽつぽつと、単調な雨音が今朝からずっと続いている。じっと湿った空気はこの生徒会室にも充満し、肌に纏わりつくようで少し不愉快だ。僕は室内の椅子に浅く腰掛けると、何かを考えるでもなく、ただ腕を組んで天井を見上げていた。七月はもう中旬に差し掛かったにも関わらず、梅雨のような埃の匂いが度々鼻につく。


この教室には僕以外にも一人、目の前の簡素な長机を隔てて向かいに女子生徒が座って小説を読み耽っている。彼女は鵜久森蕭うぐもりしゅう、生徒会長であり僕の恋人でもある。そして、これは驚くべき事実だが、蕭の方が僕に告白してきた。蕭について説明すべきところは多いが、何と言っても目立つのはその容姿だ。肩にかからない長さに切りそろえられた艶のある髪は、幼い頃から若干茶色がかっている。身長は僕より数センチ低い一六〇前半。楚々とした雰囲気で目鼻立ちが大変整っており、これは恋人の贔屓目なしに、街中ですれ違った一〇〇人中九九人が蕭を美人だと言うだろう。そして残りの一人は、蕭に一目惚れしたおませで天邪鬼な男の子だ。


それに対してパートナーの僕は、何とも言い難い、ある種何とでも言える平々凡々な高校生である。容姿が優れているわけでもなく、スポーツで好成績を残したわけでもない。学業も、確かにこの学校は地元で有名な進学校だが、その中でいつも平均より少し下をマークし続けている。蕭とは小学校からの仲で、一緒に遊んだりすることも多かったが、ここまでの説明で分かる通り、蕭が僕と付き合う理由が全く見つからないのだ。


いやしかし、人柄に惚れ込んだのだろうと思うかもしれない。ただ、その人柄も、僕の一七年間の自己分析の結果から見て、特段大したものではない。正義感も度胸も、自らの能力に相応する程度のちっぽけなものしか持ち合わせておらず、大多数の人間と同じく善性よりも悪性で構成されている。結局、告白されてから一週間が経った今でも、やはり蕭が僕を好く訳は謎に包まれていた。


理由なんて意味はなく、損得勘定を超えた仲こそが友情だったり愛情と呼ばれるのだろうか。それなら友情や愛情は、理性的、合理的に考えると無価値であり、狂乱や誤謬の産物なのかもしれない。


今日は僕と蕭以外の誰も来ない。だからふと、直接尋ねてみることを思いついた。正直なところ、この気疎い空気を紛らわすためにも話がしたかった。


「蕭、何で僕に告白してくれたの?」


蕭は顔を上げて、僕を正面から捉えた。そして、少し考える素振りをした後、こう答えた。


「んー……私が好きで、私が必要だから」

「確かに、間違いなく僕は蕭のことが好きだし、僕の人生に必要だよ。でも蕭はそうじゃないでしょ?」

「違うよ。私が君を好きで、君が必要なの」


蕭はまた小説に目線を落としてしまった。なぜ好きで必要なのか答えてくれなかった。けれど、口で言っても仕方ないというのを、蕭は示唆しているように感じられたので、僕はそれ以上追求しなかった。


教室の時計は六時半を示している。今日は先生が来て次の体育祭の話をするとのことだったが、何の連絡もないままだった。諦めた僕が荷物をバックにしまうと、それに気付いた蕭も帰る用意をし出す。何も会話をせずとも、僕たちは一緒に帰宅を始めた。



下足室まで着くと、不思議なものを見た。地面をひたすら眺めながら下足室前を歩き回るポニーテールの子。それが蕭の友達である明坂瑠維あきさかるいさんだと分かったのは、少し後のことだ。


瑠維るいぃ、どうしたの?」


蕭が訊くと明坂さんもこちらに気がついて近づいてきた。何故だか縋るような目で見つめてくる。


「お二人さん助けてえ、部室の鍵失くしちゃった……」


今にも泣き出しそうな声を出して、顔を両手で抑えている。その際水色の傘を手放したので、傘は半開きのまま倒れた。この人はいつも過剰なリアクションをとるが、今回のそれはいつもと違う緊急事態なのだと理解できるほど。蕭が優しい口調でこう返した。


「どこまで持っていたかわかる?」


明坂さんは徐々に落ち着きを取り戻したようで、一つずつ話していく。


「最後に見たのはバレー部の部室を閉めたときだと思う…多分。この傘と、鍵を左手に持って部室は体育館と直接つながってるの。鍵を体育教官室に返さないといけないから、そこから体育館を出て、剣道場前の廊下を通って、体育館昇降口から校舎を出て、丁度ここにいた友達に呼ばれたから、行って二言三言話して離れたの。それでまた体育教官室に行こうと思って鍵を確認したら、手にもポケットにもバッグにもない!どうすればいいんだろ、どうすればいいんだろうあたし……」

「誰か一緒にいなかった?」

「友理ちゃんと一緒だったよ。その子、音とかに敏感だから、あたしがなにか落としたりしたら地面の音ですぐわかるの。今体育館の方を探してくれてる」


そう何度も落とし物があったのかと思うと、友理という友人の心労は計り知れないな。


「あるとすればどこで落としたと思う?」

「………多分ここと体育館昇降口の間だと思う。その間は友理ちゃんいなかったし」


蕭はなるほどと呟いて考え込んでいる。僕たちは一度その通りを確かめることにした。


「あそこが体育館昇降口でしょ」


蕭の指差す方向には、確かに玄関がある。そこまでほんの十数メートルで、特筆すべきものはない。


「んー、コンクリートだけで、嵌ったりする排水溝もないし、わかりやすく落ちてるはずなんだけど……」

「何度も探したよ、バッグも中身ひっくり返して調べてもホントにないの!」

「誰かに拾われた、とかはないですか?」


僕が口を挟むと、明坂さんは顎に手を当てて「うーん」と唸ったあと答えた。


「この時間殆ど人いないし、友達と話したのほんの数秒だったから、拾ったら教えてくれるはずなのになあ……」


明坂さんのまるで明日世界が終わるかの如き表情。何とかしてやりたいという気持ちはあるが、そこまで探して無いのならどうしようもない気もする。僕に知的労働は向いていない。それは蕭の領分だ。僕はきっぱり諦めて二人から目線を外し、真上に広がる空を眺めた。すると、ふと気づくことがあって呟いた。


「いつの間にか晴れてるな」


特段意味のない呟きだった。しかし、蕭はそれを聞いた後暫く硬直し、「ふふふ…」と不気味にも感じる笑いをこぼす。その笑顔のまま、明坂さんに向き直って言った。


「鍵の在り処が分かった」

「え?!どこ?どこ?!」


明坂さんが表情を一変させて蕭に迫るので、蕭はそれを収めつつ続ける。


「瑠維はあの昇降口から一度出た訳だね」

「うん、そう!」

「その時、雨は止んでた?」

「止んでた。だから傘差さなくて済んでラッキーって思ったんだよ」

「じゃあその傘は持ってたんだ」


蕭の目線の先には下足室の地面に転がる傘がある。水玉模様で、若干骨組みが錆びついている傘。子供向けという印象のデザインだから、小さい頃から長く使っているに違いない。


「そうだけど……じゃあっ」

「その傘、完全に開いてみて」


明坂さんは傘を拾い上げて開くと、「あっ」という声を放ち、綺麗な笑顔を浮かべた。


「あった!!」


傘の内側から赤いストラップのようなものが覗いた。おそらくそれが鍵なのだろう。


明坂さんは、何故かこちらまで嬉しくなるほどはしゃいで、何度も蕭に感謝していた。そして関係ない僕にも礼を言い、急ぎ足で「友理ちゃんに伝えておきます!」と話して体育館に向かった。


僕は暫く手を振ると蕭の方を向いて言う。


「さすがだね蕭。明坂さんすっごく喜んでる」

「別に大したことじゃない。友理ちゃんって子が音に鋭いのなら、何か地面以外の柔らかいところに落ちたんだろうって思っただけ。盗まれていたら為す術もなかったわ」


蕭は間をおいて、僕の目を見た。


「それに、君が雨ぽけーっと『いつの間にか晴れてるな』なんて呟いてくれなきゃ気づかなかった。言ったでしょ、私には君が必要。私は色々できるけど完璧じゃないから、補ってくれる人がいて欲しい」

「こんなの偶々だよ」

「偶然か偶然じゃないかは問題じゃない。君はいつも、君自身の知らぬ間に私の隙間を埋めてくれてるの。今回だけじゃない」


くすくす笑いながら蕭は僕に問いかける。


「明日も、私の毎日に寄り添ってくれる?」


僕は、蕭の言うことを全部飲み込めておらず、僕自身の判断を信用していない。ただの答えの保留かもしれない。けれど、蕭のこの笑顔は信頼して良いと確信できた。


僕はぎこちなく、けれど確かに頷いた。



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雨空に差すものは 葭生 @geregere0809

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