1-8

 女は少しばかり憂鬱な気分だった。

 別段大きな不幸に見舞われたわけではない。ただ、いつもより奮発した昼食の弁当がいまいちだったり、密かに推していた俳優が結婚したり、そんな小さな泥撥ねのようなものでも蓄積されれば精神的に萎えてしまう。


 こんな心持では仕事だって身に入らない。だからこうしてジャスミンティーを啜りながら時間を無碍に過ごしているのも仕方のない事なのだ、と女は言い訳していた。

 そんな中彼女の研究室のドアを叩く者がいた。


 恐らく研究結果の催促に来た上役だろう、と彼女は踏み、敢えて無視してみることにした。留守だと思って帰ってもらえれば万々歳だ。どうせ報告できる事柄などありはしないのだから。


 ところが、ドアは開けられた。女はげんなりする。こうなってしまえば嫌でも応対しなければならない。


「はいはい、何の用でしょうか。論文なら書けてないし、S2型用兵装もまだ開発中。良い知らせも悪い知らせもありませんよ――」

「聡美さん、俺だよ」

「んん~? その声は……」


 椅子をくるりと半回転させ、背後にいる来訪者の顔を確認すると、女の心は僅かに弾む。

 声の主は、恭弥だった。


「なんだ、君か」

「仕事中だったらまずいかと思ってましたけど、要らない心配でしたね」

「人聞きの悪い。今丁度取り掛かろうとしていた所さ。でもねえ、そんな風に言われてしまったらやる気も失せてしまうものだね。あーあ、せっかくいいアイデアが閃いていたのになァ」

「はいはい」


 聡美の戯言を流しつつ、恭弥は近くに置いてある椅子に無遠慮に座った。

 そんな彼に、聡美は慣れた様子で茶を出す。


 ここは庁舎内にある科捜研の研究室。恭弥は彼女とは旧知の中であり、時折こうして顔を見せに訪れる。


「聞いてくれよ。天野隆行が結婚したそうだ」

「誰ですか、それ」

「知らないのか? やれやれ、私よりも芸能人に疎い者がいるとはね。もっとテレビを見たまえ」

「忙しいんすよ」

「ふゥん。私から言わせてもらえば、テレビを楽しむ時間すら無くなるような仕事など辞めるべきだと思うけどね。ああ、そうだ。晴高屋という弁当屋があるだろう? あそこは使わない方がいい。値段と味がまるで釣り合っていなくてね、今日なんか……」


 などと、ほとんど意味の無い雑談が続いていく。

 恭弥は適度に相槌を打ちながら、胸中に燻っている想いを吐露する機会を窺っていた。だが、できない。


 聡美の話が途切れない訳ではない。実際、何度か打ち明けられそうなチャンスはあった。憎むべきは素直になれない己の未熟さか。

 そんな彼の心境を知ってか知らずか、構わずに聡美は喋り続けている。


「そういえばこの間、面白い事があってね。ふふっ……すまない、思い出し笑いだ。うちでは研究助手としてEvoを使っているんだが、それがまあ可愛い女の子でね。なんとその娘がうちの男性職員と不貞行為を働いたそうなんだ。ははははっ」

「笑い事じゃないだろ、それ……」

「しかも複数人の間で使い回されていたらしい。傑作だろう?」


 引いている恭弥とは対照的に、聡美はケラケラ笑っている。彼女がこういう下世話な話題を好むのは昔からだったが。

 結果、その事案によって職員は更迭、Evoは廃棄処分とされたそうだ。


「Evoの方は拒否しなかったんですか? そういうことに使われるのに対して」

「しなかった、と当事者達は言っている。そしてそれは嘘ではないだろう。助手という役割に置かれている以上、彼女は職員に奉仕する。たとえそれがどんな形であろうとも、ね」


 そう言われても、いまいち恭弥は腑に落ちなかった。


「慰み者になることは仕事じゃないだろ」

「Evoの仕事を決めるのは所有者である人間さ」

「じゃあ、Evoは! 与えられた命令の為なら、どんな倫理観も無視するっていうのか……!」


 つい声を荒げて問いかけてしまった。

 恭弥の頭の中で、その助手のEvoとユディトの姿が重なっていたのだ。

 聡美は彼の顔をしばらくの間黙って見つめていたが、やがてふっと吹き出す。


「なるほど。それが君の疑問か」

「……え?」

「君がここに来るのは何か問題に直面している時と決まっているからね。悩んでいるならさっさと相談すればいいものを、いつまで経っても話そうとしないからこうして話題を誘導してあげたんじゃないか」

「誘導って、なんで俺の悩みが分かったんだ……?」

「君の近況は事前に耳に入っていた。「武道館の英雄」がEvoと組んで事件を捜査している、とね。しかし今日君は一人だ。となれば、君がそのEvoについてトラブルに陥っていると推測するのは容易な事さ」


 彼女の方が警察官に向いているのではないだろうか。恭弥は度々そう思わされることがあった。


「そして先程君がした質問への答えだが、それはイエスだ。当然だろう」

「っ……、やっぱりか」


 ユディトは、あの優しい彼女は、どこまでいっても機械なのだ。たとえどれだけ慈愛に満ちた笑みを浮かべていようと、そこに心などありはしない。与えられた役割をこなすだけのシステムなのだ。


 現実を突きつけられ項垂れる恭弥を眺めながら、聡美はクスクス笑っている。


「こんな事で落ち込むとはねェ、君はよほどEvoに慣れていないようだ。理解していない、と言い換えてもいい」


 空になった自分のカップにおかわりを注ぎながら、聡美は続ける。


「変な期待はよすんだ。Evoは道具だよ。与えられた命令を実行するだけの、ね。自我を持っているように見えても、その本質は変わらない。変えられるのは道具の使い方さ」


 恭弥ははっとして上を向く。

 それを見て、聡美はにやりと笑った。


「さて、はっきりと解答を示すのは趣味じゃない。ここからは自分で考えるといい」

「道具の、使い方……あいつの」


 慈母のように微笑むユディト。冷酷に任務を遂行するユディト。どちらの彼女も、きっと嘘ではない。与えられた使命に沿って動いている、Evoだ。

「……………そうか」


 答えを見つけ出したかのように、恭弥は立ち上がった。


「礼を言うぜ、聡美さん」

「どういたしまして。もう会いに行くのかい? 彼女に」

「ああ!」


 感謝の言葉もそこそこに、恭弥は研究室を飛び出していく。それを見送りながら、聡美は複雑そうな笑みを浮かべるのだった。


「やれやれ、単純な男だ。そこが良くもあるのだが。何にせよ、いよいよ仕事に取り掛からなくてはならなくなったな」

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マシーナゲッシュ 春井ダビデ @david3210

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