第2話 友人:林くんの災難②


目を開けたとき、俺は畳の上に寝かされていた。

「林さん、大丈夫?」

かたわらには俺を見おろす心配そうな表情。月次郎と黒い犬がいた。

そうだ、俺、とつぜん犬がしゃべったことに驚いて……。


「そんなわけないよな」

「目覚めて良かった」


夢じゃなかった。

安堵したように言ってのけたのは犬だった。

ふたたび卒倒しそうになった俺とは対照的に目を細め、ふさふさの尻尾をパタパタ動かしている。


「起きたんなら、とりあえず水飲めよ」

障子が開くと共に聞き慣れた声がして、朔乃がお盆を片手に入ってきた。

手渡された水をありがたく頂戴し、俺が一気に飲みほしたところを見計らって朔乃が言った。

「ちょっと変わった姿してるけど、これが一番上の兄貴。名前はさっき聞いたよな」

「改めまして。葉羅です」

丁寧な口調としぐさで犬が頭を垂れる。

思わずつられて俺もおじぎする。


「どうも林です……って、これは一体どういう」

「まあ五人も兄弟いれば一人ぐらい犬なんじゃね」


回答が雑すぎる。

どう処理したものか、俺が口をつぐんで黙っていると。

「でも葉兄、今日はどうしたの。いつもは人前に出てこないじゃない」

末っ子の言葉に、犬……もとい、葉羅さんが俺を上目遣いにちらりと見上げる。

それからスンと鼻を動かしたと思うとこう言った。


「林くん。腕をどうした」

「え?」


思わず自身の腕を見下ろす。

袖をまくったところでがく然とした。

ひじに近い部分、腕の内側に何か黒い跡のようなものがうっすら付いている。

指のような。まるで誰かに掴まれた跡みたいな。


「なんだこれ」


背すじがひやりとした。

普段ろくに自分の身体なんて確認しないが、少なくとも昨晩、風呂に入った時はなかった。

「身に覚えがないんだな」

葉羅さんの落ち着いた声に俺は頷く。


「最近林さんの周りで、何か変わったことってある?」

「変わったことって言ってもなあ」


月次郎の問いかけに、なんだこの展開はと思いつつ、うーんと考えたのち「そういえば」と俺は思い立って口にした。

「たまに夜、寝てるとき足音みたいなのが聞こえる」

「足音?」

「そう。天井で小さい何かが駆け回ってるみたいな」


俺の部屋は二階で、アパート自体が二階建てだから上に部屋は存在しない。

「まあネズミかなんかだと思ってるんだけど」

その言葉に、今度は朔乃が訊ねてきた。

「ちなみにその足音っていつから」

「アパートに引っ越してから……だから割と最近だな」


大学に上がったタイミングで独り暮らしを始めた。築年数が経っていて見た目からして古い物件だがそのぶん家賃は安い。近頃は片付けなんかも落ち着いてきて、そしたら気にならなかったことが気になるようになってきた。足音も前からあったかもしれないが、いつからなのか正確には思い出せない。


「どうした、月」

いつの間にか俺よりも月次郎が沈んだ表情になっていた。

そんな弟に気付いた朔乃が声をかける。

「林さん、いい人だから。変な目に遭って欲しくない……」

ぽつりと零すような呟きだった。


俺は月次郎の頭に手を伸ばし、ぐりぐりと撫でながら苦笑した。

「ありがとな。でもいい人ってちょっとその、あんまり言わないでくれ」

「コイツそれを理由に女の子にフラれたことあるんだよ」

俺の手をはたき落としながら朔乃が勝手に俺の過去を暴露する。


こ、このブラコン……!確かに俺は「林くんはいい人だけど、だからそういう対象として見れない」と告白を断られたことがあるけども!


「個人のプライベートをべらべら喋るな、朔乃」

呆れたように葉羅さんがたしなめる。


奇妙なことを立て続けに目の当たりにしてどこか麻痺してしまったのかもしれない。

俺はいつの間にかこの状況を受け入れ始めていた。


「それにしても、なんだろうなその黒い跡」


朔乃が視線を寄こしながら首を傾げる。

試しにこすってみたが消えやしない。どこかにぶつけたり、ペンキみたいなものが気付かないうちに付いたとしても、あんまり気分の良いものじゃない。


「だから葉兄、人前に出てきたの?」

風夜ふうやがいれば何か視えるかもしれないけどな」


兄弟たちは俺にわからない会話を何やら交わしている。

「林くん、もしこの先も何かあったら教えてくれ」

長い鼻先がこちらを振り向いて、澄んだ眼差しをまっすぐに向けられる。気付けば俺は素直に頷いていた。



アパートに戻って色々と考える余裕が出てきたのは夜のことだった。

あいつの家には何度か遊びに行ったことはあるけど、兄貴を見るのはそういや初めてだったなとか、

理性的な話し方と振る舞いにすっかり人間同士で会話している気持ちになっていたが、やっぱりあれは犬だろとか。


仰向けになりながらそんなことを思っていると暗闇に目が慣れてきて、おやと俺は気がついた。


天井に染みのようなものが、ぽつんと小さく付いている。

あんなもの、前からあったか?

暗がりで目を凝らす。なんだか手形のようにも見える。

そう思い立った瞬間ゾッとした。

その時だった。


ピンポン。


夜更けに、玄関のチャイム音が短く鳴った。

 


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