有毒の期待

栞子

有毒の期待

 春が過ぎて、夏が来た。

 これからの季節必要となる洗い立ての夏衣が何枚も庭に干されている。舞台の幕のようにひらめく真っ白な薄衣の向こう、いまだ雪をかぶる山が見えた。

 首都に聳える「天の川の背骨」はこの国で一番標高が高いため、イシャナの村からでも十分視認できる。

「おねぇちゃん、見てー」

 部屋の奥から、ハルシャがとことこ小さな歩幅で現れた。同じ年頃の比べてひと回りもふた回りも小さな体は、貧しい家には不釣り合いに高価な礼装に包まれている。

「ダメでしょうハルシャ、勝手に出してきちゃ。汚しでもしたらどうするの」

「ねぇねぇ、きれい? ハルシャ、きれい?」

 はいはい、きれいよともう何度目かも分からないやりとりにぞんざいになりつつ、羽織っただけの純白の礼装を脱がす。同じ色だが、さっき自分が洗濯をした夏衣とは価値がうんと違うことが触っただけで分かる。

 貧乏屋台からなけなしの金を集め、それでも足りない分は近所に頭を下げ借りて買った礼装は文字通り一張羅だった。滑らかでまっさらな生地には金糸の刺繍がほどこされ、昼でも薄暗い室内で光り輝くようだった。

 近々、あの山の麓に住まう王の嫁探しが行われる。王室の重大な行事の一つで、国の隅から隅まで若く美しい女を差し出すよう御触れが出た。娶られる女のため莫大な支度金が用意された旨を添えて。

 イシャナはその候補に、妹のハルシャを送り込むつもりだった。

 発育も悪く知恵遅れのハルシャは畑仕事もロクにできない厄介者で、村でも煙たがられていた。イシャナはそんなハルシャに向けられる白い眼を、驚きで塗り替えたかった。

 勝算はあった。ハルシャの肌は透き通るように白かった。まともに外に出られず、日がな一日家の中で過ごしてきたからだ。聞けば、高貴な身分の人らは白い肌を働かずとも食っている証拠だとし、白粉で自分の顔を覆い見栄を張るらしかった。それはもう、おぞましいほどに。極端な者では自ら血を抜き青白い肌をつくるそうだ。

 直射日光をほとんど浴びずに育った色白の肌。そんな輩には、ハルシャの生粋の肌はさぞかし眩しく映るだろう。

 泥で汚れずたこ一つない柔らかな指先に、黒目の寄った目。年の割にはいとけない喋りも、見方を変えれば純粋無垢そのもので喜ばれるはずだ。少なくともこの村の代表には選ばれるとイシャナは確信していた。

「ハルシャ、王様に会うための練習をしよう」

「するー」

 ハルシャはしたくないことは絶対にやらず、反対にしたいことはいつまでもやりたがる極端な性質だったが、王に会うための儀礼練習は率先して繰り返していた。

「じゃあ、お守りつけようね」

 イシャナはそう言って引き出しから六角柱の飾りが細い鎖に通されたペンダントを取り出した。こちらも実際当日身に着けるアクセサリーだ。

 姉に綺麗な装身具をかけてもらったハルシャはご機嫌でいつものスタート位置に移る。

「本日は、おひがらもよく、このような日、に、お会いでき、こうえいです」

 定型的なあいさつからまずは始める。たどたどしさは抜けないが、正しい角度でお辞儀までこなす立派な態度で、イシャナは何もできないでいた妹の変化が喜ばしかった。

 イシャナには、ハルシャを嫁がせたいもう一つの理由があった。いや、目的があった。

 王の位置に立つイシャナの元にハルシャがゆっくりとした足取りで近付く。顔をしっかりと見せるためだ。

 にこにこと笑みを忘れないように、けれど歯を見せないようにというイシャナの言い付けをしっかり守りながら、ハルシャは一歩一歩距離を縮める。

 そうして想定した玉座の前に跪く。

「顔を上げなさい」

 王のふりをしたイシャナの言葉に従い、伏せた面を見せる。

「立ち、一周回ってみせなさい」

 従順な敬意を見せたところで次の命令が下される。

 緊張したように胸元を両手で押さえたハルシャが細く頼りない体をくるりと一回転させ王に体つきを見てもらったなら、次は后に必要な素養の一つ、踊りの披露だ。

 前後左右にハルシャは体を動かすが、その足取りは覚束ない。最後は王の正面でターンだが、よろけてしまう。

 けれどイシャナは、前のめりに床に崩れていく妹を支える素振りすら見せない。動じずジッと目で追うだけ。

 バシャッ。

 倒れるハルシャから視線を外さなかったイシャナの顔面に冷たい液体がかかるが、それでも落ち着いたまま。液体の正体がただの水だと知っているからだ。

 濡れたイシャナと、床に膝をついたハルシャの間に、家族らしからぬ沈黙が横たわる。やがてハルシャが快活な響きで静寂を破った。

「おねぇちゃん、ハルシャ、じょおず?」

 問われたイシャナは、おもむろに口を開いた。

「とっても上手だった。いい子だね、ハルシャ」

 王の仮面を捨て、顔を手で拭ったイシャナは妹を正面から抱きしめ褒めた。ハルシャの小さな手には、ペンダントが握られている。

 体を回すタイミングでペンダントトップをこっそりと鎖から取り外す。トップは二分割できる構造で、内側は空洞だ。液体を仕込むにはちょうどいい。そうして踊りの最中よろけたふりをして、中身を王にぶちまける。

 これまでの「練習」で中身は水だったが、本番は毒にする。もちろんハルシャはそんなこと露も知らない。

 王殺しの実行犯としてハルシャは即座にその場で捕らえられるだろう。けれど一瞥して知恵遅れと分かる少女が、一から大罪を企てたはずがないのは火を見るよりも明らかだ。画策したのが傍に控える姉であると誰にでも見当はつくだろう。

 やがて処刑されるのは自分のみ。ハルシャも投獄されるだろうが、今と違って飯の心配をしないで済むだけマシだ。釈放され村へ戻れば、七十を超えて未だに若い女に執心で漁色にふける王に一矢報いた英雄として、これまでと扱いは変わると信じている。

 仮に王宮の者がこちらの想像よりもずっと粗暴だとしても……死ぬときは姉妹一緒だ。何の問題があろう。

 学の無いイシャナにはすなわち思想も無い。必ずしも王を殺したいわけではなかった。

 イシャナは何もかもが嫌だった。食うに困る暮らしも、貧乏人を顧みない王も、口さがない村人も、何もできない妹も可愛い妹を疎んじる己も。この計画だけが、それら全てを解決してくれる最善策だと信じて疑わない。

 初夏の日差しが降り注ぐ明るい庭では夏衣が薄水色の風にはためく。まるで開幕の合図のように。

 もう、幕は切って落とされてしまったのだ。他ならぬ自分の手によって。

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有毒の期待 栞子 @sizuka0716

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