十界
津木乃詩奇
第1話
わたしは、忍びの者だ。決して引き篭もりというわけではない…ないと思う。ここしばらく部屋にこもっているのは間違いないが、決して引き篭もりではない。と、思う。
しばらくではあるのだが、なにしろわたしには時の概念というものがなく、わたしにとってのしばらくと、他の者にとってのしばらくには差異があるのかもしれないが、それはあまり気にしない。
今のところ主に半径1メートル内がわたしの行動範囲であるのだが、それは目の前のPCモニターのお陰で何処へでも行けるからだ。だからこの場所ではただ椅子に座っているだけで、結構楽しい。いや、これは執着とかいうものではない。
時々、わたしの部屋へやって来る女がいる。あれは妻君でもなく、好きな女というわけでもない。だとしたら家族ということになると思うのだが、なにぶんわたしには家族という概念がない。だから結局、ただ女としか言いようがない。
女は部屋に入るなり、一方的に喋り出す。ただ喋りまくる。わたしに話しているのか?ただ、聞いてもらいたいだけなのか?
後者だとは思う。何故なら、わたしが一言でも割って入ろうとすると、それを遮って、再び喋りまくるのだ。女の口から無数の言葉が順不同で勢い良く並んでしまうので、わたしはほぼ同時に女の言葉を整理しなくては、伝えようとしているものが、さっぱり分からなくなってしまう。
いや…もうすでに分からない。しかし、わたしは諦めない。
女は必ず意味を求めくる。
さて、言葉を拾ってみよう…。
「高齢化が進み」「いきなりたくさん」「爺さんと婆さん…」「数字」「関わりたくない」
「あぁ、もううざい…。何なん、何でまたいきなりあんなにたくさんの爺さん、婆さん入れなきゃなんないの?それ必要ある?高齢化が進みだと。で、しわ寄せが、全部こっち。面倒見てくれだって、わざわざ席を隣りにして、もう仕事どころじゃないって言うのに。それでも数字数字ってうるさく言ってくるし」
ふーぅ。ここで一言助言入れようと「…まぁ、ちょっと落ち着こう…」と、言うつもりが、「まぁ、ちょっ…」で遮ってきた。
「電話が終わるたびにお客さんがこんなこと言ってきた。とか、方言すごっとか、いちいち感想言わなきゃいけないのかなぁ。で、構ってやるまで、ずっと言っているんだよなぁ。子供かって…」
女は、コールセンターというところで働いているらしい。
「口悪いし、結局、愚痴しか言わない。で、作りたくもない笑顔作って、ちょっと静かにしましょうね。集中ですよ。って言ったら忽ちブスッとした顔をして、『独り言なので気にしないで』と。いやいや、
一気にそう言うと、女は長いため息をついた。
「まぁ、それは仕事だから仕方ないよな…」と、言ってる途中から。ほぼ、まあ、それは…で遮られたが、まだ話しは続く。もういい加減疲れたぜ。まだ終わらないのか?
「でもね。会社では下手なこと言えないのよね。私はただ、ぐっと堪えて、平和に過ごしたいから、注意する時は言葉に気をつけて、優しく。『今の説明の仕方、すごく良かったです。でも−すっきりきれいになります−はちょっとまずいです。きれいになりますではなく、期待できます。みたいな言い方がいいかと』『あぁ、なるほど。でもねぇ。お客様にはまず興味を持ってもらうことが大事でしょう。そんなぼんやりとした言い方ではなく、もっといい言い方ないの?』それが分かっていれば誰も苦労はしません。でもそんな私はあの人に付け込まれて、お昼休憩も十分休憩の時もずっとくっついてきて愚痴と、いかに自分が優秀かということを延々聞かされる。上から目線で。ほとんどあの人が気持ち良く喋っているだけで、私が口を挟もうとしたら必ず遮ってくる。もう吐き気がする。聞く振りをしているだけでもげっそりよ」
ああ、それわたしもです。げっそりを通り越して、はい。吐き気がします。結局、あなたと、あなたが愚痴っている、その人と同じ世界の住人というわけですね。
分かりましたよ。こういうことですね。
わたしは、また遮られるのが分かっていましたので、パソコンに入力した。
地獄界
無限地獄
と。
すると、突然、女は黙りました。
「えぇぇぇぇ…」
女は部屋を去った。
ふぅっ、やっと開放された。
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