第3話 契約精霊

 ――これから、どうすればいいのか……


 不確実なことに疑問符をつけるのが人情。

 そんな疑問が湧くのは、朝から魔法への憧れが刻々と薄れている。

 不思議な、言語に絶するエネルギーが体中を流れていくのを感じただけで、それ以上の変化は体験しなかった。


 既に三時間が経過した。昼休み時間。

 風海ふうかい高校一年三組、窓際の席。澪音は頬杖をつきながら『雛』の文字が彫刻されたバッジを弄る。


「魔法……って概念、まさか実在するなんて……とんでもない時代に住んでるなぁ……はぁぁぁ……」


 小さく独語し、澪音は欠伸をした。


「でもよかったあぁぁ! 異世界に行かなくても魔法を使える。竜殺しとか魔王討伐とか、危険性高い約束はマジ、ノーサンキューだ! スマホやネットがいなきゃ、困るぜ」


 『ベルソウ』と『シルファス』の間で、澪音はどちらかというと、子供の頃から住んでいる後者の方に偏る。

 現代社会から離れて魔法世界に行くのは、テクノロジーに甘やかされた青少年にとっては大変なことだ。


「僕には無縁だね、ギルドと冒険者などの。でもまあ、転移したら民間人だとすれば、なんかいける! 異世界のスローライフも魅力的だけどねぇ」


 と、澪音は目を細め、口角を僅かに上げた。


「魔法使いはベルソウに。じゃ僕はルシファス唯一の魔法使い! やっべぇ、どんどん期待になったぜ! 魔法を受けたって、やはり――」

「なーにを言ってるの、澪・音・くん」


 不意に、左頬を誰かの指で突かれた。

 けど、見なくても見当はつく。

 優しい肌触りに、安心感のある可愛らしい声。そして毎晩お風呂で使うあるブランドのシャンプーでゆらゆらと香る髪。

 三つの条件を同時に満たす人物、澪音の印象でただ一人しかいない。


「ゲ、ゲームの話だ! 変なことを言ってないよ、有栖さん!」


 慌てて弁解し、振り向いた。

 視線の先、甘い微笑みを作った少女が立っている。肩に触れるくらい桜色の髪に、大きな瞳が特徴的な少女だ。

 白を基調としたブラウスに紺色のスカート。制服でも彼女の美麗と細身は隠せない。


 そんな彼女――有栖ありす月渚るなは、澪音自慢の幼馴染で、付き合いたいと思う相手とも言える。

 唯一、彼の告白したくなる衝動を阻止したのは、成績優秀で『付き合いたい女子ランキング』トップを長年独占した月渚にふさわしくないと思ったから。


「緊張過ぎの様子は、一番怪しよ。それに、何度も言ったけど……」


 腰に手を当てた月渚は唇を尖らせ、澪音の額を指先で軽く弾い、


「――月渚と呼んで。ル・ナ」

「恥ずかしいよ……有栖さんと別に、そんな関系じゃないし……」

「ぐひゃっ! がっかりぃ! 十年以上の幼馴染が、こんな細やかな願いでも叶えてくれないなんて……悲しいー!」


 涙が出そうになる幼馴染に、澪音は軽く微笑んで「ごめんね」と囁いた。彼女の小細工――時折見せる作り泣きは、少女の小さなわがままだとわかる。

 悪戯がバレた月渚は澪音の手を取り、優しく見つめ、


「高校生になっても、性格は相変わらずだね」

「有栖さんだって、あまり弄らないでよ……」

「ふふふ、じゃ今日はもうやーめた~それより、早く来て。彼は待ってるよ」


 澪音が『彼』を知るのは、月渚と同然で十一年くらいだ。

 彼の特長、性格、しかし最も厄介なのは彼の箇人的な趣味。回想する度に、その人物の機転ではなく、ニヤニヤした顔が真っ先に思浮かんでくる。


「あっ、もうその時間か」


 澪音は困り顔をする。

 理由は、横目で見たところ、彼――幼馴染二号・山木やまき秋風あきふうは、教室の入口に靠れる。栗色髪をかき、二人を興味深そうに観察していた。


「本当、万年進展してないのやつらね……両想いなのに……」


 彼の感想が何気なく口から漏れた。

 まるで、長期連載のラブコメ。惜しいシーンを何度も見た。同様な感慨を何回も口にした。

 けど、依然享受する。

 月渚と澪音の前に来ると、秋風は真剣な表情を作り、両手で二人の距離を縮め、


「いいか、よく聞け……二人とも……今すぐ結婚すべきだぁ! 教室は結婚式場、俺は司会! さあ、風海高校最強カップルの誕生をその目で見届けろぉ!」

「なななな、何言ってるのよ、山木さん!」

「いやあぁぁ――! ラッキーなやつだなぁ――! 『付き合いたい女子ランキング』トップに好かれて、羨ましいぜ!」

「ない! ないないない! 有栖さんは僕みたいな人と……あ、ありえない! と、とにかく、ぼっ、僕は、そんな事を全然……まったく……」


 澪音が平常心を失って口籠る様子に、秋風は憫笑する。


「……なんちゃって……恋物語がこんな風に終わってしまうと、流石に物足りないよ。それより、食堂に行かない? どうせ暇なんだろ」

「……」


 ランチの誘いに、澪音は首を横に振り、鞄でゼリーを取り出した。


「悪い、せっかく誘ってくれたのに。今日はパス」

「あぁ――! また栄養のないの! 澪音くんったら、言ってくれれば弁当を作り上げるのに~」

「そ、それは恥ずかしいよ、有栖さん……」


 本音は――『食べてみたい』。

 月渚は料理が得意だと、前から聞いた。

 しかし、これは間違いなくクラスで大騒動になる。彼女に迷惑をかけるくらいなら、澪音はその機会を逃したいと思う。


「と、ストレートに表現する月渚ちゃん、勇気あるね。でも、快諾したら澪音らしくない」


 照れる二人の短い沈黙に、秋風はやれやれと肩を竦めて嘆息する。


「さて、そろそろ行くか、月渚ちゃん。昼飯に」

「でも、澪音君は……」

「薄情のやつは置けばいい。こいつ、俺たちよりゼリーを選んだってさ」


 そう言って月渚を抱き寄せると、秋風は紳士的にその手を取り、


「では、美しいレディーを食堂までお送る」

「う、うん……」


 淑女扱いされた月渚は、ポッと頬を染めて、首肯する。

 無論、秋風の巧言に胸躍らせたわけではない――単純に、澪音の反応を見てみたかった。


「そ、それがよぉぉかったねぇ……山木さんなら、こ、こっちも安心で、できる……ああああまり、イチャイチャしないでほほほほしいいいけどぉぉ……」


 声が、震えた。心が、動揺する。

 ここまでの展開は、月渚の予想中だった。

 ただ、澪音の死んだ魚っぽいな目に、ちょっとやり過ぎだと気がし、「そうじゃないから! 誤解しないで!」と焦って手を振る。


「じゃあ、また後で。そろそろ行かないと、満席になっちゃうよ」

「お、おう……」


 澪音の嫉妬に満ちた霊圧を浴びながら、秋風は月渚を廊下へと引っ張っていく。


「なぁ、澪音。偶に顔出して。昼飯はやはり、三人一緒の方が美味しい」

「……わかった」


「あと、そろそろ食生活を改善したら? あっ、ごめんごめん! それは無理っすね! おまえの程度ちゃ、ゲームの聖精霊も救えないからね、ハハハ!」


 二人を見送ると、澪音の無表情が一瞬、はっとした顔に変化した。

 アデルの気遣いが微かに耳に蘇っていく。


 ――精霊召喚、だったっけ?


 そんなことがあったような気がする。

 窓の前に立ち、澪音は春景を眺めて考え込む。

 頼れるパートナーがいれば、初期の情報源や魔法に関する問題も解決できる。

 ただ、一つの妨害があった。それは『どう』の部分――召喚方法。


「召喚って、儀式とかするんだろう……」


 ゲームの召喚手順は熟知するが、理論的知識を現実に転用するのは難しいもの。

 考えれば、これは魔法使いになって初めての挑戦だ。

 しかし今、その象徴的な第一歩でさえ踏み出せない。袋小路に迷い込む初心者と同じであることを自覚し、湧き上がってきた亢奮はもう無くした。


「説明書くらいくれよ……ふぅ……」


 アデルの説明不足に文句を言いつつも、澪音は不確かなまま続ける打算だった。

 深呼吸をしてから背筋を伸ばし、『ちょっとやってみようか』という気持ちで、右手を空に向ける。


「……………………………………………………………………ダメだ! 魔力なんか全然感じていない!」


 人生全体を見渡して、時間の流れをこんなに遅く感じるのは初めてだ。

 硬直した動きが一分間続き、気まずい空気が流れた。

 不満極まりない結果に、澪音は眉を顰める。


「ん……やっぱ、精霊召喚は吟唱がないといけないか……」


 と、溜息を吐い、確かめるように周囲を見回す。

 現在、大部分の生徒が教室にいない。だが、残った数人前の吟唱は、澪音も簡単にはできない。

 普段、クラスでのポジションは陰気なオタク。その上で『変な人』『キモイやつ』にされるのも、避けたいことの範疇である。


「教室でしたらアウト……じゃ、あそこしかないな」


 ゼリーを口に入れると、澪音は教室を飛び出した。


 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 風海高校の校舎、全部で八階。階層ごとに対応した施設や特別教室があり、常に学生や教師が出没する。

 故に、注目を避けようとしても、この建物では無駄だ。


 ――しかし、一人だけそう思わない人がいる。


 その自信は、誰もが見過ごした空間を偶然見つけたことからだった。


「ここなら絶対に邪魔されない。やっと集中できる!」


 四階廊下の奥、入口が雑物に覆われた物置。

 澪音は部屋の真ん中に立ち、皺だらけの制服を整えた。そして儀式的に再び掌を上空に向ける。

 吟唱内容は来る途中で考え抜い、先ほどまでの緊張感も激減した。

 ならば今やるべきことは――、


「伝説の聖精霊! スカーレット一族との因縁に従い、我に力を与え――」


 最初の魔法を使った感覚は、実際に体験した澪音にしか形容できない――血の中を駆け巡る一筋の暖流は全身に拡散した後、右腕に流れ込む。

 そして最後一音が口から出ると、四辺からの不協和音と共に、異変が訪れる。


「うわあぁぁ!」


 突然、深紅魔法陣が掌に顕現し、緋色の魔力を放つ。

 猛烈な衝撃で床が揺れる。気流が堆積していたダンボールを巻き上げ、物置を乱雑にした。

 アデルと出会い、魔法の存在を確認していなければ、この超自然的な現象を信じられなかった。


 二十秒ほどで魔法陣が消え、静寂に戻った。

 ただ、かすかな息遣いだけが響いている。


「……げ、限界だ……僕、そんなに魔力少ないのか……」


 要領を得ない魔法使用は、体力と魔力の過剰な消費につながる。

 だが、疲労感は彼の注意を事実から引き離しなかった。

 この時、たった一瞬で澪音は悟った――召喚成功。


「や、やったぁ……」


 頭のすぐ上、三十センチのところ、緋色炎が漂う。中で何かが眠っているようだ。そっと近寄ると、全然熱くはなかった。温かいとも言えない、まるで無温度だった。


 触れた瞬間、炎が散った。中にいる人間の姿がはっきりと見える。

 実際、この言い分が完全に正しいわけではない。外見は確かに似ているが、人間には備わっていない部位がある。

 その精霊は――緋色翼を持ち、人形ほどしかない、超小柄な女の子である。


「へえぇ……これが、本物の精霊……」


 想像中のと合致して、女の子は長耳だ。

 赤紫のポニーテールは、薄暗い環境で一際鮮やかに見える。身は蝶模様のワンピースと薄緑の草履。華奢ではなく、地味な服装が一層彼女の可愛さを際立たせた。


「ふぁあ〜」


 どうやら他人の存在を感じて覚醒したらしい。

 女の子は欠伸しながら、背伸びをする。小豆くらい大小の瞳で、眼前の巨人を眺める――澪音の体が彼女の十倍くらい大きいのだ。


 通常、巨大生物と遭遇すれば、驚き呆れてもおかしくない。

 相対的に、女の子はかなり冷静で、『彼が新しい相棒なんだ』と自覚して、興味深く観察していた。


「……」

「……ッ」


 しばらく沈黙が続く。

 視線を交わす居心地の悪さを追い払うように、目を逸らした。


「初めまして、マスター」


 羽を動かし、先に気まずい雰囲気を破ったのは女の子の声だった。

 彼女の微妙な言葉遣いに、澪音は少し照れる。


「禁……」

「キン?」


 首を傾げる女の子は、困ったように瞬きする。


「禁止。こう呼ばないで。誤解されやすいから」

「では、マスターは何と呼んでほしいのですか? ご主人様とかですか?」

「さっきよりもやばい……」


 言って、澪音は頬を掻いた。


 ――いや、何かが目覚めている……ダメダメダメ! しっかりしなくちゃ!


 と、心中で絶叫した澪音は思い切って頬を打った。


「とにかく、澪音と呼んでいい。あと、そのう……できれば敬語なしで……」

「うん、わかった、澪音」

「じゃ君は? どう呼んで欲しいの?」


 その質問に、女の子は祈るように手を合わせた。


「私は今日から、澪音専属の契約精霊になる。記憶も、名前もない。だから、名前をつけていただきたい」

「どんな名前でいい?」

「そう……だね。もちろん、可愛くしてほしい! いや、大人っぽくして、いやいや、やっぱり可愛いの方が! 外国人の名前みたいに聞こえて、あとは……」


 テンション上がると早口になってしまう女の子の癖に、澪音は苦笑した。


「れ、澪奈れいなって名前、どう思う……?」

「レイナ……? 私の名前はレイナ……」

「あっ、いえ、嫌いなら考え直すよ」


 その名前への好悪を言葉にする前に、仕草が素直に彼女の思いを伝えてくれた。

 薄く微笑んで、羽の動きがさっきよりも速くなる。たぶん、気に入るの表現だろう。


「うん……レイナとは、どう書くの?」

「えっ?  ここ書く所がないけど……んじゃ、僕指の動きを真似してみて」


 澪音は空書きで『澪奈れいな』を見せた。

 女の子は「うん」と頷いて指を出す。しかし同じ動作に、澪音は目が離せなかった。

 彼女の指先には魔力が付着して、書かれた一筆一筆が可視化された——赤く光る『澪奈れいな』の二文字が宙に浮かんでいる。


「えっと、どうでしょうか……」

「素敵な名前と思うよ。おしゃれに聞こえるし。それに、マスターの名前と似てるね。おや? ひょっとしてマスター、わざとこの名前を~」

「さあ、どうかなぁ……とにかく、よろしくな、澪奈れいな


 澪音がその名を呼ぶと、精霊女の子――澪奈れいなは嬉しそうに口元が緩んだ。

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