白紙へ浮かぶ
明松 夏
まっさらな1ページ
じわじわと垂れてくる汗を拭いながら、立ち寄ったカフェで通されたのは隅の隅の席。
その丸いテーブルの上に「それ」はあった。
見覚えのある、スタイリュッシュなフォルムをしたノートパソコン。
気づいているのか居ないのか、何食わぬ顔で去っていった店員の後ろ姿を、私はただぼーっと見つめることしかできなかった。
──って、いやいや、これどう見ても忘れ物か席外してるだけだよね!?
ぽつんと置かれたパソコンと、カウンターで接客をしている先ほどの店員へ、交互に目線を向ける。
なぜ明らかにものが置いてある席に私を通したのか。そして忘れものだとしたら、なぜこんな大きなものを置き忘れて行ってしまったのか。
一つのものに複数の謎が存在して、私の頭の中ははてなでいっぱいになる。
ただ夏休みの課題を終わらせようと立ち寄った近所のカフェで、まさかこんな謎解きに巻き込まれるとは思わなんだ。
ぐるぐるする頭を落ち着かせ、とりあえずパンパンに課題を詰め込んできたリュックを机の横に下ろしてみる。
周りを見渡してみても、私のこの動作にハッとして近寄ってくる人物はいない。
ということは、トイレに行っているのかも。
閃いた私は、パソコンの持ち主がトイレから帰還するのを立って待つことにした。
行ったばかりなら5分、そうでないなら2分と経たずに戻ってくるだろう。
優雅なBGMのもと、会話を楽しむ同年代の子や、コーヒーを嗜む老夫婦を眺めながら、時間が経過するのをひたすらに待つ。
しかし、待てども待てどもこの席に人が現れる気配がない。
もう10分は経ったはず。
もしかして、本当に忘れていったのか? ペンやスマホならまだしも、こんな大きなパソコンを?
そうだとしたら、持ち主はどれだけうっかり屋さんなのだ。
私は 呆れを含んだため息をつきながら、こじんまりとしたイスにゆっくり腰かける。
さすがに、何もせず立って待つのは体力的にも精神的にもキツすぎる。
他の席に移動しようかとも考えたが、ピーク時間帯を過ぎて少したったばかりなので店内は人が多め。
席はほとんど埋まっており、移動しようにも難しいので、しかたなく謎の深まる席に着いたのだった。
……あれ、謎といえば、たしかさっきも何か違和感があったような。
なんだったっけ、と思い返してみるが、この席に通されてからあまりにも謎が多いために、どれに違和感が存在していたのか分からなかった。
まあいいか、どうせ大したことないものだろう。
考えることを放棄した私は、飲み物を注文してこようと席を立とうとする。
その際に、ふっとパソコンの画面が目に入った。
どうやらシャットダウンすらしていなかったらしい。
なんでつけっぱなしで帰っちゃうんだよ、さすがに危機感がなさすぎないか。
主に対して、もはや呆れを通り越して怖いとすら感じると同時に、心臓の奥の方がドクンと波打ったのがわかった。
懐かしさや寂しさ、そしてその他もろもろのいろんな感情が混ざりあった何かが、その波を作り出しているのだとも、ちゃんと頭は理解していた。
本当は見てはいけないものだ、他人のパソコンの画面なんて。
個人情報が書いてあるかもしれないし、プライバシーの侵害どころの話じゃない。
けれども私は見てしまった。
数ヶ月前に諦めた自身の夢の亡霊とも言える、画面いっぱいに広がる文字の羅列を。
あの時言われた言葉は、今でも一言一句違わず言えるくらい深く胸に突き刺さったままである。
「そんな夢物語書いてないで勉強しなさい」
夢物語じゃないよ、小説だよ。
「勉強しないの? だって受験生だよ?」
知ってるよ、そんなこと。言われなくてもちゃんとわかってる。
「小説もいいけど、まずはちゃんとした進路先決めてから書いたらいいんじゃない?」
小説家になりたいっていう夢はちゃんとした進路先じゃないの?
学年が上がり、みんな本格的に勉強に打ち込むようになって投げられた、無意識で純粋な言葉の矢。
きっと私の将来を心配してかけてくれたのだろう。
それくらいはちゃんとわかっているつもりだ。
しかし、そうは言われても私に特技と言えるものはない。
成績は至って普通。運動神経だってあまりいいと言えるものじゃない。
「小説を書く」というたった一つの動作を取られた自分に、残るものは何ひとつないのだと、高校三年生の春にして思い知ったのだ。
焦った。
周りは当たり前のように勉強、部活、習い事に必死で打ち込むことができているのに、私だけ取り残されて行かれるような感覚に。
不安だった。
自己PRを書いて提出する紙がまっさらで、担任には提出期限を過ぎてもいいからと呆れられ、そのうち見捨てられるのではないかと。
いっその事、私は小説の道を進むんだ! とはっきり言ってしまえれば楽なのにと何度思ったことか。
結局、思うだけで言葉にできなかった。
いつか絶対見返してやる、なんて言えるほどの自信が私にはなかったのだった。
大人になるということは、子どもの頃の胸の高鳴りはあの頃へ置き去りにしていくことなのだろう。
そして、子どもの頃にはあっても少なかった選択という壁が、数多の道を塞いでいくのだ。
だからこそ、せめて塞がれる選択肢を減らそうと、みんなに追いつこうと、夏休みは勉強を頑張ると決めたのに。
まさか、その初日に出鼻をくじかれるような出会いをするとは思わなかった。
はあ、と溜息をつきながらカフェラテを頼みに行こうと浮かせた腰を再び下ろし、じっと画面の文字とにらめっこをする。
最後に「続」と書かれているので、きっとまだ書きかけなのだろう。
見えている一部分だけじゃ、内容は全く分からない。
すると、まるで惹き付けられたように自然と指がタッチパッドへ向かう。
目は移り変わった画面の文章を必死こいて追い始めた。
指がパッドを滑る。
目が横へ横へと流れていく。
店内のBGMが徐々に小さくなって、周りの音も聞こえなくなった。
先ほどまで漂っていたコーヒーたちの香りもどこかへ消え失せている。
たった1話だ。最初のページのたったの1話。
難しい表現があったり、読めない漢字もあったりした。
しかし、この人の書いた文章は、私の視覚や触覚、さらには聴覚と嗅覚までも奪っていった。
そう、たったの1話で。
書き手にとっても読み手にとっても重要な 1話を作る能力が、この人は卓越していた。
「すごい」
ポロッと本音がこぼれる。
さっきまでただのうっかり屋さんという印象しかなかったのに、今では心の底から尊敬という文字が湧き上がってきている。
そして、それに負けないくらい、ふつふつとなにかが湧いて出てくるのを明確に感じとった。
――ああ、やっぱり私も小説を書きたい。勉強よりも小説が書きたい。
この人のように、自由に文字を操れるようになりたい。
私は……そうだ、やっぱり小説家になりたいんだ。
キュッと結んだ唇から細い息がもれ出る。
先ほどまで、暑さで情けなく垂れ下がっていた目には確かな光がやどり、
小さな握りこぶしを作りながら、頭の中で話の構成を練る。
これだ、この感覚だ。
私がずっと追い求めていた答えは、ずっとすぐそこにあったのだ。
「こうしちゃいられない」
椅子にもたれかかったカバンをわしづかみ、勢いよく席を立つ。
優雅な雰囲気が漂うこの場には似つかわしくない音に、周りの人たちの視線は私に釘付けになる。
だが、私は一切気にもとめなかった。
はやく、はやく家に帰って小説を書きたい、書きなぐりたい。
私の心は、小説という一色に染められたみたいだった。
「あっ……と、そうだ」
はやる気持ちを抑えて、一歩踏みとどまる。
この気持ちを教えてくれたこのパソコンの持ち主に、お礼を言わなきゃ。
視線を戻して、カバンからペンケースとフセンを一枚取り出す。
さらさらとペンを滑らせ、お礼の一言とパソコンに映し出されていた物語の感想を書き連ねた。
よし、今度こそ。
背後から聞こえてくる、店員のありがとうございましたーという高い声。
外は中と違って強い日差しが降り注いでいた。
いつもなら嫌悪する存在だが、今は生まれ変わった私を歓迎してくれる光のように感じて、少し心地が良かった。
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