元天使な甥が今日もプロポーズしてくる

瀬尾優梨

第1話 母の死と裏切り 

 十六歳のときに、母が死んだ。

 その日から、レイチェルの人生が動き始めた。










「いや、おまえとの婚約はおまえの母親から頼まれて仕方なく引き受けたんだよ。あんな美人に頼まれたんだから、断るわけないだろ? むしろ、母親に全然似ていないおまえと結婚してやってもいいって言っていたんだから、感謝してほしいくらいだよ」


 知らない少女の肩を抱いてペラペラとしゃべる男を、レイチェルは呆然と見ていた。晩冬の風が吹き、レイチェルが纏う黒いロングスカート――喪服の裾を揺らして通り過ぎていく。


 先日、レイチェルの母であるエミリアが亡くなった。元々儚げな人だったので、この冬の寒さで体を弱らせていたのだ。春は越せないだろう、と言われていたのでレイチェルもある程度覚悟はしていた。


 茶色の髪に青色の目、ありきたりな容貌のレイチェルは誰がどう見ても父親似で、金髪に緑色の目の母親にはちっとも似ていなかった。


 十六歳にしてひとりぼっちになってしまったレイチェルは茫然自失状態で、葬儀のことなどは隣の家に住むローラおばさんが全て取り仕切ってくれた。

 母と仲がよくてレイチェルが赤ん坊の頃から面倒を見てくれていたローラおばさんは葬儀を終えると、「エミリアの実家に連絡してくる」と言って、村を出ていった。レイチェルはよく知らないが、母は若い頃に家を出て父と一緒になり、この村で暮らすようになったそうだ。


 ローラおばさんのおかげで絶望にくれることはなく、一日一日を過ごすにつれて少しずつ、母の死を受け入れられるようになった。それでもまだ、小さな家にひとりぼっちでいるのが寂しく感じられ、毎日両親の墓に出向いて祈りを捧げ、寂しい気持ちを吐露していた。


 でも、大丈夫だと思っていた。なぜならレイチェルには、婚約者がいたから。

 婚約者の名は、ジョッシュ。同じ村に住む二つ年上の青年で、青果店の息子だ。


 母の紹介で彼と婚約したのが、二年前のこと。もしかすると母はその頃から自分があまり長くないことを察しており、娘を頼れる人に託したいと思っていたのかもしれない。


 レイチェルも、ジョッシュのことは嫌いではなかった。少し物言いが偉そうで、母の前ではおとなしいのにレイチェルの前だとがさつになるところが気にかかっていたが、頼れる年上の男性だと思っていた。


 母がいなくなっても、ジョッシュがいるから大丈夫。

 ……そう思っていたのに。












「……フられちゃった」


 はあ、とレイチェルが吐き出したため息は、ほんのりと白い。少し前までは真っ白だった息の色が淡くなったのは、春が近づいているという証しだろう。


『永遠に冬が続くということは、ないの。いつか必ず、春が来るのよ』


 かつてそう言ってくれた母は今は、十年近く前に事故死した愛する夫のもとにいるのだろう。


 母の葬儀から、一ヶ月。家の中にある母の私物を少しずつ処分しているのだが、きっとこうして母が遺した言葉や声は家具と違って、ずっとレイチェルの心の奥に居続けてくれるのだろう。


 そんな優しい母がジョッシュの裏切りを知らずに死んだのは幸い……いや、母が死んだからこそジョッシュはレイチェルを裏切ったのだった、と思い直す。


 ジョッシュは母に懐いているようだったから、葬儀にも絶対に来るだろうと思っていた。だが彼は葬儀の日はおろか、その後もずっと来なかった。小さな村だから、彼が「来られなかった」のではなくて「来なかった」だけであるというのは、レイチェルも察していた。


 それでも、一度くらいは墓前に来てくれているはず。そう思い、今日村を歩いていて偶然ばったり会ったジョッシュを捕まえて問いただしたのに、彼は心底嫌そうな顔でレイチェルの手を振り払った。


 ……ジョッシュは、レイチェルのことなんてこれっぽっちも好きではなかった。

 彼はレイチェルの母エミリアからの好感度を得るためだけに、レイチェルと婚約した。それでいてエミリアが死んでもさして動揺もせず、母存命の頃から密かに付き合っていた隣町の女の子を家に呼んでいたという。


『あ、もしかして俺のこと、皆に言うつもり? あーあー、言えばいい言えばいい! おまえの母親は美人だったけど貧乏だったし、しょっちゅううちの親が支援していただろ? 貧乏なおまえん家と、畑を持っている俺ん家。どっちが偉いかなんて、分かるだろ?』


 つまりジョッシュは、エミリアが死んだ今はもうレイチェルには何の思い入れもないし気を遣う必要もないと思っている。それどころか、自分の親に金があるのをいいことに自分が浮気していたことも何もかも水に流そうとしているのだ。


(ジョッシュが肩を抱く女の子……とてもかわいかったわ)


 ジョッシュの隠れた恋人は、よりによって隣町の町長の娘だった。


(相手が町長の娘ということで、うちの村の人たちは大歓迎……ってことだったのね)


 道理で、これまでにレイチェルが「ジョッシュが全然会いに来てくれないの」と相談しても、皆曖昧な表情で目を逸らしていたのだ。つまり、レイチェルは村人全員からも見放されたということか。


 現に、牛の放牧場脇を歩くレイチェルに向けられる眼差しは、あまり優しいものではなかった。母の死後すぐは弔問客もぼちぼちいたし成人して間もないレイチェル一人が遺されたということで同情してくれる人も多かったが、今はもう「母の分もきっちり働け」と言いたそうな目で見られていた。


(……村を出てしまおっか)


 不意にそんなことが思い浮かび、レイチェルは足を止めた。

 本当に、急に思い浮かんできた。


 これまで十六年間この村で生きてきて、これまでも生きていくのだと思っていた。ジョッシュと結婚する気でいたのだから、なおのことだ。


 だが、母を喪いジョッシュからも裏切られ村人からも冷めた目で見られるレイチェルが、ここで暮らし続ける必要なんてない。母は確かに貧乏だったのでろくな遺産はないが、金はきっちり払う人だったので負の遺産もなかった。


 この村は、ファリノス王国の東の端っこにある……らしい。レイチェルはこの村と近所の町くらいしか行ったことがないが、母が博識で幼い頃に死んだ父も若い頃には世界中を旅していたらしく、いろいろな話を聞かせてくれた。


 この国は、とても広い。

 村を出て行っても、縁があれば新しい場所で生きていける。


(ど、どうしよう、お母さん。私、ここを出て行っちゃっていいのかな?)


 そわそわしていたレイチェルの足は自然と、墓地に向かっていた。既に歩き慣れた道を進んだ先には、両親が眠る墓がある。そこに手向けられている花は、朝にレイチェルが供えた小さなブーケ一つだけだ。


「……お母さん。もしここを出て行っても、生きていけるかな?」


 墓前にしゃがみ、墓に呼びかける。なぜか、胸がどきどきしていた。自分がものすごい悪い子になったかのような気分だが、それと同時に妙な高揚感もある。


 もし母がいれば、何と言うだろうか。母のことだから、何だかんだ言いつつ応援してくれるのではないか。


「……でもまずは、ローラおばさんに相談しないとだね」


 母の死であっさり態度を変えた村人たちと違い、ローラおばさんはいつもレイチェルたちの味方だった。今は遠方にあるという母の実家に行っているというローラおばさんは出発のときに、「おばさんが帰ってくるまで、おとなしくしているのよ」と言っていた。


 もし何か決断をするとしても、まずはローラおばさんに相談するべきだ。ローラおばさんはレイチェルにとっての母親代わりなのだから、勝手に村を飛び出して彼女を悲しませたくはない。


「ローラおばさん、いつ帰ってくるかな」


 帰ってきたら、レイチェル特製のくるみ入りパンで一緒にお茶をしたいところだ。

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