恩讐は異世界の彼方に

紫葉瀬塚紀

プロローグを兼ねた第1話 前世

「ヒーローになったら、こんな気持ちになれるのか…」

 巨大なトカゲの形をした化け物が、文字通り尻尾を巻く様にして敗走していく姿を見送りながら、俺は前の世界では味わう事の出来なかった充実感を、体いっぱいに感じ取っていた。

 掌には先程放ったばかりの炎の熱がまだ冷めずに残っている。

 それが消えていくのを惜しむ様に、俺は拳を固く握り締めると、これから始まる俺─古井天馬ふるいてんま─の新たな冒険に明るい希望を馳せ、それを共にする仲間の元に向かって力強く歩み出した。



「はああああ~っ……」

今日1日こんな溜め息を何度ついただろう?深夜の街中、残業を終えた俺は終電に間に合う様に遅からず、かと言って足早に歩くでもなく、会社近くの駅へトボトボと歩みを進めていた。帰宅すればコンビニ弁当を胃に放り込み、汗を流す程度にシャワーを浴び、翌日の始発を逃さぬ様に目覚ましをセットしてから、クシャクシャになった毛布を被る。こんな生活が何年…、もう何年かも忘れてしまっている。夢も希望も無い社畜人生を続けている内に、遂に時間感覚までもが麻痺して沈殿してしまった。

 自分が今どんな見た目で駅に向かって歩いているか、鏡を見なくても容易に想像出来る。死んだ魚の様な生気の無い目。ボサボサの整える暇すら与えて貰えない薄汚れた髪。不健康を体現した様な猫背。気のせいか光沢を失ったグレーのスーツも朽ち果てて破れそうに見える。

 駅に辿り着きホームに立って、やって来た終電にフラフラと乗り込む。電車までもが1日の疲れを背負って疲労困憊に陥っている様に思えた。ヤバいよ、もう。次の休みはいつになるんだ?前に休んだのが確か2週間前、イヤ、3週間前だっけ?普通なら過労死確定。丈夫な体に産んでくれた母ちゃんに感謝。イヤ、寧ろ恨むかも。いっそ天に召された方がどれ程有難い事か。

 任務を終えた終電から、とっとと降りろ、と弾かれる様にホームに投げられ、そこから20分程かけてボロアパートへと歩みを進める。明日早朝、始発に乗り出勤して、まだ社員玄関も開いていない会社に着いたら、警備員さんにお願いして非常口から建物内に入れて貰い、三階にあるオフィスに入る。オフィスなんて名ばかりの事実上の拷問部屋。その中でも俺の机は一際黒い輝きを放っている。書類やら資料やらその他訳の分からない紙の束。それらが幾つもの高層ビルを建築し、俺の卓上を所狭しと占領している。その中に中古のポンコツノートパソコンが、埋もれながら何とか場所を維持している。お茶を置くスペースも無い。つか、仕事中にお茶なんか飲ませて貰った事もない。

 朝8時半、ぞろぞろと他の社員が出社して来て自分の机に着く。彼等も決して好待遇を受けている訳ではない。それでも俺の立場が数値に例えて100中ドン底の0だとすれば、彼等はその半分、イヤ、60位の数値はあるだろう。何故なら彼等は悪魔に支配されていないからだ。人の姿をした悪魔に。


「オイ、古井!テメェまだそれ終わらせてなかったのかよ?ホント、マジで使えねぇな、お前」

 悪魔降臨。30代半ば過ぎの男が定時キッカリに出社し、部屋の奥の机に着いての早々の一言。もうこれが挨拶代わりになっている。高層ビル建築素材の供給元プラスパワハラワードの使い手こと、課長の真木武賀士まきむかし。やや長身で細身の体を包むくすんだ茶色のスーツにケバい赤ネクタイ。短く整えて油みを帯びた髪の下の狭い額は猫のオデコという表現がピッタリ。その更に下には嫌悪感を漂わせる細く切れた目。まさに嫌みという言葉の擬人化そのものと言った風貌だ。そして名は体を表すとはよく言ったモノ。どこがって?真を魔、木を鬼に置き換えればズバリこいつそのものになる。俺にとっては悪魔と鬼のハーフ以外の何物でもない。30年ちょいしか人生を経験していない俺だが、今後悪い意味でコイツを超える存在は絶対に現れないと断言できる。

「お前みたいな存在価値の無い奴がここで養って貰っているだけ有難いと思えよ。ここは虫ケラにも寛大な天国なんだからな」

「ハァーッ、知性の欠片もねぇな。ホントに脳ミソ入ってんの?その不格好な頭の中によ?」

「オマエなんかよりサナダ虫の方が遥かに仕事出来るよ。オマエみたいな役立たずは、世界どころか全宇宙探しても中々居ねぇぞ!」

 もう犯罪ですよね、コレ。こんなのコイツの暴言コレクションの中のほんの一部に過ぎない。そして言うだけ言った後に腐る程見せられた一連の動作。見下し度100%の嘲笑いを浮かべ、親指で顎を拭う様に擦ると、手の甲を狭い額を隠す様に当て、吐き捨てる様に

「あーあ、取り柄無しのカッスカ~ス」


 最初からいけなかった。

 この部署に配属された当初、慣れない仕事内容に加えて、ブラック気質溢れる理不尽な会社のマニュアルに振り回された俺は、何回かこの課長の手をわずらわせる事態を引き起こしてしまった。これに関しては自分にも非があると認めてはいるが、それ以来、奴の俺に対する仕打ちがチマチマした嫌みから始まり、時を経るにつれて次第にエスカレート。そして現在のパワハラへと辿り着くに至った。アイツなりに自分の仕事は片付けている様だが、手に余る細かい仕事や手間の掛かりそうな作業は、全てと言ってよい程に高層ビルの建築素材にして、俺に押し付け続けた。他の社員にも色々やらせてはいるが、せいぜい中型アパート程度に留まっている。四方八方からヘイトを買うより、一人を生贄にして集中砲火を浴びせる方が安全、という判断なのだろう。賢いよ、畜生が。


 一度だけ救済のチャンスはあった。数年前の春の人事異動。パワハラ悪魔に他の部署への異動の話が出た。しかし奴は人事担当と同期で話が効くのを利用し、都合の悪いその他部署への異動を白紙にした。俺にとっては鬼畜の所業そのものだ。そして悪魔は鎮座して吠える。親指で顎を拭う様に擦り、その手の甲を狭い額に当て吐き捨てる様に

「あーあ、取り柄無しのカッスカ~ス」


 それでも歩を進めれば両足が無意識に左右交互に前に出る。人間の体って便利に出来てるよな。終電の待つ駅への帰り道。下ばかり向いている顔をフッと上げると、灯りが眩しいコンビニの硝子窓に貼られた特撮映画のポスターが目に留まった。

 悪を相手に最後は勝利するヒーロー。子供の頃に憧れたっけ。歳を重ねるごとにそんな甘酸っぱい感情は薄れて行き、成人して現実との関わりが深くなると、いつの間にか別世界の果てへと姿を消して行った。そして今はヒーローどころか人の形をした悪魔に蹂躙される毎日…。

 死にたい程やるせない感情が頭一杯に広がった。左右の足が一気に加速し足早に駅へと向かう。歩くのが精一杯な程心身共に疲れているのに。いっその事悪い宇宙人でも攻めて来て、この地球を滅ぼしてくれないかな、ってそういう発想が完全にヒーローと決別した今の自分を端的に表している。英雄願望の成れの果て。堕ちた底辺の凡人。明日も悪魔に身を捧げる糞みたいな人生。


 そしてその時は突然に訪れた。

「オイ、古井!この書類を経理部に届けて来い。これ位ならバカなオマエにも出来るだろ!」

 それ位テメェで行って来い!言うだけの銅像か、貴様は ! ? 心の中でありったけの不平不満を並べながら、俺は二階の経理部へと向かった。エレベーターは一応あるが、階段の方が近い。下手に時間をかけると、魔鬼のデスワード砲で俺の精神がハチの巣にされる事くらいは容易に想像出来た。

 その日は朝から気分が優れず集中力がいつもより低下していたのだが、それが文字通り命取りになった。二階へ降る階段。無意識に踏み締めたつもりの段がそこには無かった。踏み外した、と思う間もなく全身が前に倒れて行く。そのまま俺の体は階段に激しく打ち付けられながら下に転げ落ちていった。

「グッ ! ! ゴッ ! ! ガッ ! ! ゲッ ! !」

 気が飛ぶ程の激痛の連続。どこがどう痛いなんて完全に意識外。果てしなく続くと感じた転落がやっと終わり、最後に階下の踊り場に体が叩きつけられた時、俺の魂は既にあの世へと旅立っていた。


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