そして猫との暮らしが始まる

さくらすいそ

1猫との出会い

 ついに猫と一緒に暮らすことが出来る。その日がやって来たのだ。


 大学を卒業した私は、見ず知らずの地方の企業に就職することになった。その当時はちょうど不景気で、地元で就職したいだとか、福利厚生がしっかりした会社がいいだとか、自分の希望など言っている場合ではなかった。私は自分が生まれた時代を恨んだが、それはどうしようもないことだった。人は生まれてくる時間も場所も選べない。何とか就職出来た、それだけでも職にあぶれている人たちに比べれば幸せなのかもしれない。

 半ば強引に自分を納得させ、地方で生活することになった私だったが、その生活は決して順風満帆なものではなかった。私が就職したのは小さい会社だったので、私以外の新入社員はなく、他の社員は全て話の合わない歳の離れた上司だった。(そんな状況でよくこの不景気に新入社員を募集したものだ。)そして当然、見ず知らずの地方に来た私に、余暇を一緒に過ごす知り合いなどいるはずもなく、結局私は家と職場の往復に甘んじる他なかった。

 要するに私は孤独だったのである。今まで実家から出たこともなく、同じ土地で生まれ育ってきた私にとって、初めての一人暮らしは、何もない砂漠の真ん中に突然投げ出されたような思いだった。しかしそんな私にも唯一の希望があった。猫と一緒に暮らすことである。

 実家で生活していた時は、母親がアレルギーなので猫を飼うことは出来なかったけれど、一人暮らしの今なら家族のことを気にする必要はない。就職が決まりこの土地に部屋探しにやって来た時も、私が不動産屋に提示した第一条件は、駅から近いことでも、近所にスーパーがあることでも、閑静な住宅街であることでもなく(といっても田舎なのでだいたいどこでも夜は静かだったが)、ペット可の物件であることだった。結果として、駅からやや離れており、築年数も決して新しいとはいえない物件に住むことになったが、それはまあいいとしよう。望むものの全てを一度に手に入れることは出来ないのだ。猫と暮らすためなら、他のことには喜んで目をつぶろう。


 猫をお迎えするならペットショップではなく、保護猫カフェから譲り受けたい。それは前から決めていた。保護猫カフェというのは、動物愛護センターから引き取られた猫や、地域で保護された野良猫たちを集めた猫カフェのことで、猫たちはそこで里親が決まるのを待つのである。保護猫カフェから猫を譲り受ければ、路頭に迷う猫を一匹減らすことが出来る。世の中の猫のために多くのことは出来ないが、これが猫に対して私が出来る精一杯のことだろう。そうして週末ごとに近所の保護猫カフェに通い始めたのだが、私はなかなかお迎えする子を決められずにいた。


 猫というのは、どの子も皆かわいいのだ。しかし私が飼えるのは、この中から一匹だけである。だから家で猫を飼うのなら、この中から一匹選ばないといけない。それは分かっている。それでも私にはこの中から一匹を選ぶなんて、とても出来なかった。

 何度か保護猫カフェに通ううちに、次第に店員さんと仲良くなって、受付や帰り際に少し雑談するようになった。店員さんと仲良くなるのはいい。しかしそれが優柔不断な私の性格が原因となれば話はまた別である。そもそも私はお迎えする猫を探すために、ここに来ているのではなかったか。

「こういう出会いはご縁ですから。焦らなくても大丈夫ですよ」

 それでも店員さんは私に優しい言葉をかけてくれた。私もそんな店員さんの態度につい甘えてしまい、結論を先延ばしにしていた。そもそも私の様な人間が猫と一緒に暮らしてもいいのだろうか。ついにはそんな疑問も頭をもたげて来たのである。

 いつしか決められないことが当たり前になり、結局その日も猫たちと遊ぶだけで、ただただ時間は過ぎていき、いつの間にか退店時間が近づいて来た。本当に猫といる時間は一瞬である。できればこの一瞬を永遠まで引き伸ばしたいものだ。そんな事を考えながら帰り支度していたとき、店員さんに声をかけられた。

「もしよければ、二階の子たちも見てみますか?」

 二階というは、この保護猫カフェの二階にある別室のことある。二階にも猫たちがいることは知っていた。このカフェは一階にある天井まで届くキャットタワーの先に、二階に続く穴があり、猫たちは自由に客のいる一階と、客がいない二階とを行き来できるのだ。そこは普段一般客には開放していないのだが、猫を迎え入れるためにこのカフェを訪れる人たちは、特別に入ることができるのだという。

「では、またしばらくしたらまた来ますね」

 そう言って店員さんは扉を閉めて出ていった。そこには普段なかなか一階に降りてくることのない猫たちがいた。一階にある保護猫たちのアルバムには載っているが、実際は見たことのない猫たちだ。


 どの子も皆やはりかわいい。私はますます決められなくなってしまった。このままずっと決められないまま、私はこの保護猫カフェに通い続けるのかもしれない。そうして私がカフェに通い続け、お金を使い続けることが、引いてはこの子たちが生きていくために少しだけ役に立つのかもしれない。

 あって欲しくはないがありえるかもしれない未来を考えながら、辺りの猫たちを眺めていた時、私は一匹のサビ猫を見つけた。その猫は一匹で梁の上に登って、部屋を見下ろしていた。私は最初にこの猫を見た時、高い所が好きなのかなとか、この部屋で一番高い所にいるからもしかしたらボス猫なのかもしれないとか、そんなことを漫然と思ったりした。

 しばらく眺めていると、サビ猫は柱をつたってそろそろと下に降り始めた。すると突然別の黒猫がやって来て、サビ猫を威嚇し、再び梁の上に追い立ててしまった。サビ猫は単に縄張り争いに負けて、梁の上にいるしかなかったのだ。よく見てみるとサビ猫の体は少し痩せているように見えた。餌を食べるには梁の下に降りるしかないが、黒猫がいる間は降りて来ることは出来ない。そうなると餌にありつく機会も減ってしまうのだろうか。食べ物に困ることはないと思われていた保護猫カフェの中にも、やはり生存競争は存在するのだ。

 サビ猫は耳を横に寝かせイカ耳(猫が警戒する時や怯えた時にする耳の形)を作りながら、じっと下を眺めていた。その姿は何だか私に似ているような気がした。もしこの子を家にお迎えしたら、他の猫を気にして縮こまらずに、堂々と床の上で寝そべることが出来るようになるだろうか。

「気になる子はいましたか」

 しばらくして、部屋に戻って来た店員さんに声をかけられた時、私の気持ちはもう決まっていた。

「あの子……あのサビ柄の子にします」

 店員さんは私の指差す方向を見上げて言った。

「あら、ウミちゃんですね。良かったね、ウミちゃん」

 その時初めて、私はあのサビ猫の名前がウミだと知った。


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