そして私は、球場へ行く

@ky5912

第1話突然の誘い

 パソコンの音が響き渡るデスクで、私は一心不乱にファイルをまとめていた。あと数分で、今日の仕事が終わる。

 つい最近までは、勤務日と言えば日付をまたぐイメージで働いていたが、この部署は基本的には定時での退社となっており、この時間に仕事が終わるのが不思議な感覚でしかなかった。

 ファイルをまとめて送信すると、今日の仕事が終わった。

「今日はあがりますね。失礼いたします」

 奥のデスクに座っているマネージャーの長浜さんに挨拶をした。パソコンに向かっていた白髪頭の男性が、こちらに視線を向ける。

「お疲れ様。鹿島さんがこちらの部署に来てくれてから、仕事のスピードが上がっている。助かるよ」

 総務部の中でもこの部門は年齢の高い社員が多く、パソコンの作業に苦戦をしていた。異動した頃は知らないことが多すぎて教わるばかりだったが、分かったものからまとめるようにすることで、少しずつではあるが、部内でも作業効率は良くなっているようだ。

 バックにノートパソコンと簡単な荷物を入れると、私は会社を出た。このまま買い物をして、まっすぐ家に帰るだけだ。二階のフロアのため、エレベータを使わずに階段で降りる。その方が、他の部署の人間に会うことがなく、緊張が少ない。他の部署とはいえ、すれ違うことも多いので、顔見知り程度の関係にはなる。そのあたりは会釈でこなして、距離を取った行動をしていこうと決めていた。

 久しぶりの電車出勤はまだ慣れないが、三十分ほど乗ると、最寄り駅に到着をする。

 本社は都心だが、前の部署の関係で住んでいた埼玉県からは引っ越しせずに今も暮らしていた。一人暮らしには、今の町は住みやすいのだ。

 帰り道にあるコンビニに入ると、簡単な冷凍食品などを買っておいた。明日は金曜日なので、読みたかった小説を夜中まで読もうと決めていた。そのため、今日のうちに買い物をしておきたかった。大学生の頃にしかしたいなかった自炊も、出来る時間が増えたので少しずつ出来るようにしている。

 スーツではなく、本社はオフィスカジュアルでいいと言われたが、服装も大きく変えられずにパンツに簡単なボタンレスの丸首のブラウスにグレーのジャケットを着て通勤している。おまけに顔は地味なのに眼鏡に薄い化粧と工夫がないため、陰気で暗い印象を与える。そのため、他の部門の人間とも仲良くなることなく、仕事を淡々とこなす日々を送っていた。

 島流しなら、都にしなくとも経営相談員のままが良かった。

 勤務しているのは、いわゆるコンビニ本部。直営店とフランチャイズ契約をしていただいたオーナーの店舗経営をサポートするコンビニエンス事業を展開している。私の仕事は、オーナーと本部のパイプ役となる経営相談員だった。半分は営業職だが、店舗に関わる相談を受けて、一緒に解決策を考えるのも仕事の一つだ。

 この役職を拝命して、まだ三年だった。自分の中で仕事の感触をつかみ、やりたいことが出来るようになった矢先の総務への異動。しばらくはショックで立ち直れなかったが、今は何も考えずに働くまでにはこの状況を受け入れ始めた。

 別に左遷ではないのはわかっている。むしろ、本社勤務は望んでいる人間も多い。しかし、自分はやりたいことが残っていたし、上司もそれを知っていたはず。自分の力が無かったのかもしれないが、チャンスが欲しかった気持ちは拭えない。そのせいで、自分は今回の異動は島流しと呼んでいた。

 買い物袋を抱えて、自宅まで徒歩で十分かけて歩いた。

 家に着くとジャケットをかけて、ジャージに着替えた。冷蔵庫からチューハイと昨日作ったキュウリと蒸し鶏の梅肉和えと絹ごし豆腐を出した。

 テレビの音量で寂しさを紛らわせ、小説を読みながら晩酌を楽しんだ。平日の夜にこんなこと出来るとは思ってもみなかった。やりたかったことが出来るのは幸せなのだと、毎日実感している。この点だけは、今回の人事異動に感謝をしていた。

 そうやって、気持ちの整理をつけているのは自分でも気づいているが、これ以外に何か自分を満たしてくれるものはないのだ。この先のことは考えずに、失っていた自分の時間を大切にしようと決めていた。

 翌日も持ち回りの仕事をこなして、昼になったので食堂に行った。弁当を作るのはハードルが高いので、昼は定食を食べて過ごしていた。一人で食べていると、横に見たことのある人が座った。

「鹿島さん、ここ座っていい」

 座ってから、彼女は訊ねた。近くのコンビニで買ってきた弁当をすでに広げている。

「いいですよ」

「ありがとう」

 彼女が近付くといい香りがした。ベージュの七分袖のボタンレスのブラウスにネイビーのパンツ姿で、少し茶髪に染めたロングヘアに綺麗な髪留めを付けている。顔は大きな目に長いまつげ、笑うと出来る笑窪が特徴的なかわいらしい顔をした先輩だ。どの部署だったかは忘れたが、オフィス内でも人気があり、本部に勤める社員の憧れの的だ。

「ごめんなさい、そんなに話したことなかったよね。私、財務部の赤田です」

 言われてから、思い出した。財務部の赤田真帆。確か、社歴は二年上だったはず。

「よろしくお願いします」

 素っ気なく返してしまった。自分から話しかけるような存在ではない人間から声をかけられて、困惑と面倒が心に押し寄せている。関わりを持てば、自然と付き合いが増える人間は極力避けるようにしていた。

「あの、ほぼ初対面で言いにくいのだけど、今日って退勤後に予定空いてない」

 いきなりの質問に戸惑った。目の前の人間は、同じ会社で働いている以外に付き合いも面識もほとんどないに等しい。その相手に、予定を聞くなんてことあるのか。

「あの、何か・・・」

「そうだよね、ごめんね。実は、これなんだけど」

 そう言って、持っていたポーチからチケットを出した。チケットには、今日の日付の試合が書かれている。

「今日、東京ドームで野球の試合があるのだけど、欠員出ちゃって。鹿島さん行かないかなって」

プロ野球の誘い。ほとんど話したことのない人間に対して、こんな誘いをするなんてあるものなのか。そもそも、仕事が終わった後にどこかに行く人間に見えているのか。

「すみません、私野球に詳しくないので」

 失礼かと思いながらも、定食に手を付けながら断った。昼休みにも限りがあるので、ゆっくり聞いている暇もないのだ。

「大丈夫、知らなくても問題ないよ。ルールとか、私が知っている範囲で教えるから」

 しつこく食い下がってきた。

「せっかくのお誘いですが、本当に興味が無くて。ごめんなさい」

 頭を下げた。赤田さんは手を横に振った。

「謝らないでください。無理なお願いをしたのはあくまでも私ですから。でも、今日はどうしても一緒に来てほしくて」

 ここまで話すということは、何か理由があるのか。無関心を装っていても、何か悩んでいる人間には積極的に関心を持つようにしていた経営相談員時代の癖が出てしまう。

「なぜ、私なんですか。他にもいらっしゃいますよね」

 一度、赤田さんは目線を下に落とした。言っていいのか悩むときに、人は目線を落とす。深入りすると断れなくなるのはわかっていても、興味が勝ってしまった。

「実は、後輩の経営相談員を誘っていたのでけど、仕事の関係で来られなくなって。私の尊敬している上司がせっかく誘ってくれたのに、欠員を出したくないから他の人を探したのだけど、結局見つからなかったの」

 嘘はついていない。そこは分かった。理由もそこまで大したことが無いので、断ってもいい気がする。

 今回はパスだな。興味もないものに時間は使いたくない。

「あの・・・」

「お願い。そんなに親しくない仲だけど、今日はどうしても来てほしい。もう鹿島さんしかいないから、これ渡しておくね」

 まだ、半分しか食べていない弁当を片付けながら、赤田さんは無理矢理私にチケットを渡した。

「無理なら来なくていい。でも、もし来られたら来てほしい。後楽園駅の改札前にいるから。十八時半まで待っているから」

 最後は私の返事を聞くことなく、そのまま立ち上がって戻っていってしまった。

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