餓鬼道、修羅道、地獄道

@mukotsu_tomiya

本文


「そんなのは餓鬼の理屈だな」

 理智りちおじさんは、私が一晩徹夜して考えた強靭な理論を一蹴し、シーシャを吸ってため息をついた。そんなやる気のない様子が我慢ならず、私はむきになって言い返す。

「餓鬼……って、聞き捨てならないです!」

「ああ。聞き捨てたのはこっちのほうだからな」

 関東の北のほう。大して栄えてはないが、人だけはやたらわらわらといるようなトカイナカ。

 そこの、やたら階段の傾斜がきつくて田舎らしい歩道橋で、私たちは言い争っていた──というより、私が一方的に噛みついているだけだったが。

 十二月の寒い風が、徹夜明けの身体のあらゆる隙間を刺してくる。しかしここでめげるような顔をしては、理智おじさんにも見くびられてしまうだろう。あくまで大人の融資を引き出せるよう、きっぱりとしたポーカーフェイスを心がけなければならない。

 もっとも私の顔は、とうにかんかんになってて、そこだけは全く冷えていなかったのだけど。

「だから、少しだけ! 少しだけ私の絵にお金をかけてくれれば、それだけで済む話なんです!」

「少しだけ、ってお前……。人に頼む態度じゃないぞ」

「人に頼む態度をさせてくれないのは理智おじさんのほうじゃないですか、私、土下座だってできるのに! だいたいなんですかシーシャって、アラフォーが痛々しい」

「『タバコは吸わない』って周りに言いふらしちまったから、代わりにしてんだよ。むしろ機転と、この約束を守る誠実さを褒めてもらいたいくらいだね。あと、土下座は禁止」

 私はむきーっと唸った。いや、いくらなんでもそこまで単純じゃなくて、実際は誇張表現なんだけど。それでも気持ち的には、猿にだってなってやりたい気分だった。

 昨日雪が降ったばかりなので、下を見ても車通りは少ない。私は手袋をしたまま歩道橋の手すりに掴まっている。そうしないと、転ぶのが怖い。徹夜明けでふらつくのもある。

 ──私は無職の十八歳だ。

 家庭の事情で、というか家庭の金銭事情で。大学受験ができないということは、高二の時点ですでに聞かされていた。ただ、それが「代わりに就職しなさいね」という意味だと理解できるほどの社会常識を、私は、まだ持っていなかった。

 周りは受験の話をする。それに乗れず、私は受験しないんだよねというと、きまって「すごいね」と返された。何がすごいのかわからなかった。気づいたときにはまともな職に就ける機会なんて失っていて、ところてんみたいに、私は高校から押し出されてしまったのだった。

 だけど怖くはなかった。私には、夢があるから。

 画家になるという、夢があるから。

 突然降って湧いてきたような無職ニート生活も、その準備期間だと思うことにした。けれど、まぁ、何の成果も出せないまま……。

 そうして卒業からもう九か月が経過した、というわけである。

 理智おじさんは、早く帰りたいのか階段をすぐ背にしながら、退屈そうにシーシャの煙を吐いた。

「だいたいお前、公募には何作送ったんだ」

「さ、三作」

「少ないな。俺なら同じ期間でお前より上手い絵が三十は描ける」

 あまりに大人げないことをいわれたのでびっくりしてしまう。何より、そこに一つも見栄や虚飾が含まれていないということが、さらに大人げない。

 理智おじさんは現役の画家だ。いまはもう、絵だけで生き残り続けるのは難しいのか、それほど仕事を持っているわけではないらしいけれど……世間の目はさておき、おじさんがいい絵を描くというのは、まぎれもない事実だった。

 空は曇っていて、いまにも雨が降り出しそうだ。それともこの寒さなら、昨日に続いてまた雪か? 冗談じゃない。北関東では、雪のあとは雨だと相場が決まっている。

 私はコートの裾が下がってきているのを直した。

「好きな美術流派は?」

「ロココ美術」

「前は印象派とかいってたな。変わったのか」

「描いてるうちに、なんか違和感っていうか……。私の絵じゃない気がしてきた」

「ま、それは悪いことじゃないな。入り口が印象派の絵描きはたくさんいる。そこからどう自分の志向性を持っていくか、だ」

 理智おじさんはたぶん、遠回しに私のことを褒めた。

 ……こういうところが、いまいち好きになれないのだ。言う時はちゃんと、普通にアドバイスをくれるとこ、とか。直接絵を教わった経験なんて、小さいころの、片手で数えられるくらいの回数しか記憶がないのに。それでも。

 私は基本的に、理智おじさんの絵から画家に憧れるようになった。

 入口は、理智おじさんが若いころに描いたという、印象派っぽいタッチの絵だったのだ。付き合いで母にプレゼントしたという、画家として描かれた初めての絵。森の中の泉を、コントラストの効いた明暗の強い触り方で表現しきった絵。

 十歳のときにそれを見たことが私の志向性の始まりだったのだけれど、それは理智おじさんには絶対に言わない。

 昨日の夜に降り続いていた雪が、まだ足元で残っている。少し重心をずらしただけで、じゃりっと擦れる音が耳まで届いた。

「どうしても、駄目ですか?」

 いま私は、元々の憧れの人物に、お金の無心をしている。

 目的は──生活費をもらうことだ。

 とうとう私の親は、成果も挙げず働きもしないなら家を出て行けと迫るまでになった。つまり私は完全に両親に見放されている。主に母親に。

 しぶとく自分の部屋に居座ることに彼女たちを納得させるためには、自分のぶんの生活費を納入するしかない。具体的には、月々最低でも五万円を納めろと言われている……。

「駄目だな」

「どうしても⁉ 画家になったらすぐ返すから……!」

「現代の画家がそんなに儲かる職だと思ってるなら、早めに認識を変えた方がいい。それに、前にもずいぶん金はやっただろう。あれはどうしたんだ?」

「それは……」

 言えない。

 唯一の友達とカラオケに通い詰めていたら、料金設定を間違えていてほとんどかすめとられちゃったなんて。

「……返事がないなら、まぁそういうことなんだろうと思っとくよ」

 理智おじさんは、大して怒ってもない──いやむしろ、姪っ子に対峙するときの、普通に優しい声と表情で──そう言った。対等でないものを見るときの感想だ。

 くそ。悔しい。

 しょうがないだろ。

 私の夢なんて、そんなもんなんだよ。

 そんなもんなんだけど……諦めきれないんだよ。悪いかよ。下手だから、うまく描けないから、努力したって楽しくないんだ。そのくせ観察眼だけはちょっと身に着いたから、描けば描くだけ自分の粗が見つかる。だから、やってられない。

 それでも……若いころのおじさんみたいになることを、諦めきれない。

 画家が儲からないなんて嘘だ。理智おじさんは実際、──昔、奥さんを亡くしてから──絵だけで二人の子どもを養っている。それに、たまに私の面倒だって見てくれた。

 だったら私なんかの、持たざる者の気持ちがわかるかよ。

 バレないように歯をぎちぎちしていると、理智おじさんは首を曲げた。関節が軽く、ぽきっとなる音がする。

「……あ」

 ──いや。

 違う。

 その事実を。

 その事実をその事実を。認識するまでに、数秒、かかった。

 理智おじさんが首を曲げたのではなく。

 理智おじさんの首が──曲がっていたのだ。


「は?」


 私は素っ頓狂な声を出した。

 その事実をその事実をその事実を認識するまでに、時間を要する。しかしそれでも、私の目は──中途半端に鍛え上げられた観察眼は。機能が復活し次第すぐ、全体を俯瞰し、状況を分析していく。

 まず、理智おじさんの首。

 正確には、曲がったんじゃないらしい。伸びた、という方がいいのかもしれない。首をよく見ると、赤い、マフラーのようなものが巻き付けられている。それで後ろから締め上げられているみたいだ。

 そのマフラーを締めているのは、理智おじさんよりも背の低そうな二つの、つまり一人分の手。

 ようやく私は事態を理解した。

 ──

「なっ──」

 にやってんですか、と聞いている場合ではない。けれど私は、咄嗟には足が動かなかった。

 その油断的な一コンマ数秒のうちに。

 理智おじさんは──視界から消えた。

 私は声を漏らすことすらできなかった。いや、正確にはそうしていたのかもしれないけれど、自分じゃ、そう認識することすらかなわなかった。何が起きたのか、また分析してみる。

 いまいるのは、歩道橋。

 昨日まで雪が降っていたので、地面が凍り付いている。

 つまり滑りやすい。

 そして、理智おじさんのすぐ後ろには、階段があった。

 田舎らしい──やたら傾斜のきつい階段が。

 以上から導き出される結論は? 言うまでもない。

「おじさんっ‼」

 私はたぶんそんな感じの呼びかけをしながら、階段の下を見られる位置、つまり階段のすぐ上まで移動した。そのとき不審者っぽくゴーグル等で顔を覆った背の低い女の子の姿も、やっと認識できたのだが、とてもそれに構う気分ではない。私までが階段から落とされる結果になったとしても、だ。

 階段の下には、落下させられた理智おじさんが倒れていた。

 どうやらはっきりと頭を打っているらしい。

 大量の血が出ている。

 それが、すぐそばの、きっともう純粋な氷の硬度まで固まっているであろう雪の白色に、滲んでいた。

 コントラストの効いた構図だった。

 階段を駆け下りる前に一瞬だけ理性的だった私は、犯人の子の特徴を見ておこうと後ろを振り向いたけれど、もうそこには、結局、誰のすがたもなかった。

 すぐ。

 私は、すぐに、理智おじさんのところへ走ろうとしたのだけれど。

 そこには、先に──辿り着いた人物がいたのだった。



 あらかじめ言っておくと、本当に、この日は全部最悪だった。




「あーりゃりゃ……。これはひどい」

 呑気に頭を掻きながら登場したその若い男は、どうやら辿り着いたというより、階段のすぐ下を通りがかっていたらしい。

 服はスーツだが、前のボタンを開けていてだらしない印象がある。寒くないのだろうか。髪はぼさぼさ。一見して、ちぐはぐな印象を受ける男だ。

 と──そんなこと分析してる場合じゃない。

 早く、私の憧れの人の安否を確かめなければ!

 そう思って、急ぎ足で階段を下ろうとしたのだけれど、途中で階下の男から、なぜか声をかけられた。

 間延びしたテノール。

「きみ、この人の知り合い?」

「……え」

 なぜそんなことを聞くのか、と一瞬思ったけれど、

「はい! その人は私の叔父です!」

 と、はっきり応答することができた。

 ほどなくして階段から降り切った私は、理智おじさんの状態を確認する。男は安否確認とかそういうことはしてくれなかった。まぁ、歩いていたら突然知らない図体の大きな男が落下してきたとあっては、動作が止まっても仕方ないのかもしれない。

 それでも私は、少しイライラしていた。

 目の前で人が重傷を負っているんだ。大人なら、何かしてくれてもいいんじゃないのか?

 理智おじさんは仰向けに倒れていて、後頭部から大量の出血が認められる。しかも──よく見ると、背中からも血が出ているみたいだ。体の下敷きになっていてわかりにくいが、血の出所が二つあることはなんとかわかった。古傷が開きでもしたか、あるいはきっと、先程のあの子に刃物で刺されたのだろう。

 私は直接触らず、できる範囲で理智おじさんの身体を検分したが──しかし、そこで。

 おじさんに向かって屈んでいる、私の上から。


「その人、もう死んでると思うよ」


 また、間延びした声がした。

 何とも焦っていないような、その声は……。

 そばにいる、スーツの男から発せられている。

 少しの違和感とともに、私はかっとなって抗議した。

「もう死んでるって……確かに重症ですけど、ちゃんと確かめなきゃわからないじゃないですか!」

「じゃ、確かめてあげよっか」

 と。

 予想外の反応に少しだけ硬直すると、スーツの男は、膝をつかずにヤンキーみたいなしゃがみ方をした。そして理智おじさんの頭を少し持ち上げると、口や鼻のところに耳を近づける。

「息はしてないみたいだね」

 淡々と報告。

 怪我人の頭を持ち上げるなんて本当は駄目だと思うのに、なぜか私は──その仕草が、あまりに業務的で事務立っていたからだろうか? 反対することができなかった。

 次に、男は首を持ち上げ、右手で触れた。

「脈なし」

 淡々と報告。

 ほんの一瞬、身体が硬直する。そののち、私は、結局スーツの男に誘導されたような形で、地面に寝そべり、理智おじさんの胸に耳をつけた。右耳。

 心音は聞こえない。

 そんなはずは、

 そんなわけはない。

「理智おじさん、理智おじさんっ……‼」

 私は若干涙が出ていることに自分で気づきながら、身体を起こして心臓マッサージを始めた。両手を重ねて上下に動かすが、慣れていないので自信がない。それに……そもそも、力が入らない。

 元々、徹夜明けな上に、ここ数日はろくなものを食べていないのだった。昨日の夜ごはんを漬け物一皿しか出してもらえなかったことを、ふと思い出す。

 いまはそんな場合じゃないのに──!

「……心臓マッサージはもっと思いっきりやらないといけないよー」

「うるさい! じゃあ、あなたが手伝ってくださいよ……!」

「べつにいいけどさ。じゃあその間、きみは何をするの? 人工呼吸でもしたいならそれで構わないけど、そしたらぼくが邪魔になるんじゃない?」

 頭に血がのぼっていて三割程度しか意味はわからなかったが、舐めた言い回しなのはわかった。

「黙っててください、だいたい、あなたはなんなんですか! 人がこんな、怪我……してるのに、まるで慣れてるみたいに!」

「そりゃまぁ、慣れてるからね」

 スーツの男はまたも意外な回答で場を締める。しかし、その直後に続いた言葉は、私にとっていままでの何よりも意外な発言だった。

 男はごそごそと、スーツのポケットを探ったかと思えば、

 おもむろに何かを取り出して、こう言った。


「ぼく、刑事だから」

 男の手には──警察手帳が握られていた。

 おうぎ透徹とうてつ

 霞んだ目でも、何とか、読み取ることができた名前だ。

 と言っても今日は非番なんだけど。とか言って。

 彼は適当な溜息をついた。

「け、刑事……?」

「そ。刑事」

「じゃ、じゃあ、そうだ! あっちに、おじさんを階段から落とした人が逃げていって……! たぶん、私と歳が変わらないくらいの女の子なんですけど、捕まえてくださいっ!」

「ええー、やだよ」

 刑事さんは、また頭を掻いた。

 私は意味がわからなくなって前髪をかき分ける。

「やだ、って、だって──あなた刑事なんですよね」

「そうだけどさぁ、言ったでしょ? 今日は休みだって」

「休みの日でも、事件を前にしたら警察官は動かなくちゃいけないって、聞いたことあります」

「そりゃ熱い台詞だね。けどさ──この場合、それでもぼくは動かなくていいんだ。どうしてかわかる?」

 刑事さんは、ゆっくりと私のことを指さした。

「この状況なら、?」

 指摘を受けて。

 思わず息が漏れた。そして、それは……。

 私がこの、扇透徹という男の異常性を、ようやく認識した瞬間でもあったと思う。

 なるほど。

 確かに、この人から見れば、いまある情報は、階段から突然男が落ちて来たってだけだ。歩道橋に誰がいたかなんて、知らない。

 あるいはあの顔の見えない子を目撃していたとしても、だ。犯人の背丈や性別は私と同じ。すぐさま変装を解いてこちらに向かってきた、という見方もできる。

 何より、初めに私は、「」と答えてしまった──つまり、元々、単なる落下事故とは考えにくいのだ。

「そういえば、も聞こえたな。ちょうど、きみと似た声だった気がする。相手は渋い声だったし……この人かな?」

 追い打ちするように、刑事さんは情報をつけ足してくる。つま先をぶらつかせて、理智おじさんの身体を示しながら。……確かに、私は理智おじさんに怒った声を出していたんだから、言い訳はできなさそうであはる。

 しかし、ここで真に恐ろしいのは。

「……刑事さん」

「ん、何かな?」

「あなた、全然そんなこと思っていませんよね?」

 私が──全然解けない雪の上に立ったまま──指摘すると、刑事さんは首をかしげてとぼけた。

 やっぱりだ。これで、確信が持てた。

 私の観察眼は誤魔化せない。

 この人は、急いで階段から降りてきて安否確認をしたこの私が犯人だなんて、ちっとも思っていない。論理じゃなくて直感で、「こいつはまず犯人ではないだろう」と、おそらく確信している。だいたいそうでもなけりゃあ、私に直接「お前が犯人かも」なんて危ういことは言わない。

 なのに、おそらくは、この男。

 という動機で、この場から動かなくてよくなるロジックを組み立ててしまったのだ。

 あとから先輩に詰められても完璧に言い訳をしてしまえるような、手堅い論理を。

 私は、やっとわかった。

 偶然遭遇した、この男には──。

 およそ、人間としての感情がないんだ。

「それよりさ」

 呆然としていると、刑事さんは、今度は私の着ているコートに人差し指を向けた。

「通報しないの? どっちみち、もう助からないとは思うけどさ」

「あ、ああ……」

 そうだ。言われた通り。まずは救急車を呼ばないと。それから、警察も。

 警察も……。

 私はスマホを取り出し、119番を打ち込む。

「あなたは、通報しないんですか」

「ぼくはきみを見張ってなくちゃいけないからさぁ」

 予想通りの返答。もう掴めてきた。

 すぐ電話が繋がる。

 私は救急と、それから次に電話した警察に、とりあえずの事情を説明したけれど──なぜだろう。理智おじさんがこんな、重体になっている、というのに。

 心が動かない。

 なんだか──ヘビに睨まれたみたいに、凍てついている。

 怖い。

 扇透徹。こんな大人がいることが、怖いのだろうか。

 いままで周りにいる大人といえば、私に無関心な両親と教師くらいだった。それと、小さいころにお菓子を出してくれた友達の家のお母さん。あとは、なんだかんだ私に甘く、そしてかっこいい理智おじさんだけ。

 こんなタイプの大人は見たことがなくて、しかも私はこの人に形式上疑われていて、だから。

 なぜか──自分が悪いことをしている気分になってきた。

「まぁ、うん」

 通報が終わり。

 私より背の高い刑事さんは、私に声をかけてきた。

「少しくらいは真面目に仕事しておこうかな、あとが楽かもしれないからさ。……きみ、この男の人の姪っ子なんだっけ?」

「そう、です」

「じゃあさ。この人が何をしてきたか、知ってる?」

 少しは性格がわかりかけてきたかと思ったのに、また突き放される。

 突然の、意図の不明な質問……。

「画家を、しています。さっきまで、私、絵の相談に付き合ってもらってました」

「ふうん、じゃあ確定かぁ」

 少しだけ嘘をついたのが、すぐに自分で怖くなってきてしまったけど──返ってきた独り言の意味はさっぱりわからなかった。

 確定? なんのことだ?

 と思っていると。

 刑事さんは、あろうことかポケットから煙草を取り出して、呑気に火をつけた。

「いや、先輩にもらっちゃってさ。あるんなら一応使い切っておこうかなと思ってるんだけど。しかし不味いね、煙草ってさ。こんなの吸う大人の気が知れないや」

「確定って、何のことですか」

「ん? ああ、聞く? 聞かないほうがいいと思うけど」

 絶対そんなこと思ってない目で、扇さんは私を制した。嫌な予感がする。この人に、私の追求を諫める善意なんてない。

 これから言う言葉で、私の反応を見ておもしろがりたい。けれど自分から言うのは流れが不自然すぎて面倒だ。そんな意志を感じるし、その腹黒さを隠そうともしてないって感じの濁った視線。

 それでも、聞いておきたい。警察から見て、何か理智おじさんについての情報があるのか。

 どうして、おじさんは突然現れた少女に殺され──る、ことになったのか! 毅然として尋ねた。

「教えてください。私、何でも受け止めます!」

「うん、そっか。じゃあその人、いまぼくたちが追ってる詐欺グループのメンバーだったんだよね」

「…………」

 私は、


 私はこの男に対して完全に無力だった。


「ま、詳細は教えてあげられないけど。でもともかく、そうだったんだよ。だいぶ悪徳な団体の。子どもが二人もいたみたいだし、いまどき絵画を描くだけじゃ生活に苦労するのかもねぇ」

「あ、あの」

「理智沈務しずむさんだっけ? 追ってたのは結構人数のいるグループなんだけど、この人だけは個人情報の管理がずさんでね。案外簡単に、住所とか家族構成とか、色々調べられたんだ。しかし、うーん、まさか捕まえる前に殺されちゃうとはね。こいつはぼくたちの失態だったよ」

 感情のこもっていない声。しかし棒読みなわけでもない。抑揚だけとってみれば、至って普通の人の声だ。

 扇さんから普通の人の声が出ているのが、おかしい、というだけで。

 私はいまにも逃げ出したい気分だった。しかしいま逃げ出したら、なんなら本当に犯人扱いされてしまうかもしれない。それが怖くて一歩も動けず、ただ、震えを抑えるだけで精一杯。

 やっぱりこの人は怖い。

 

「……どうしたの?」

「いえ、なんでも」

 震えているのがバレたらしい。頼むからほっといてくれ。

 おじさんが詐欺グループの一員だった、とかいう情報も、そりゃすっごくショックだけど。怖いけど。

 でも、いまは。すごく純粋に。

 この大人に、さっきまでの自分が理智おじさんに甘えきっていたことを知られるのが、一番恐ろしかった。

「……ぐ、偶然ですね。自分が追ってた人が、たまたま歩道橋から落下して心肺停止になるなんて」

「そうなんだよ。奇遇ってのはこういうことを言うのかな?」

 嘘だ。

 この人は、たぶん理智おじさんのことを突き止めていた。住所がわかっていたのなら、そして現役刑事のスキルがあるのなら、家を出てから尾行することだって簡単だっただろう。

 で、今日私との待ち合わせに向かった理智おじさんを──本当に非番だというなら、──ストーキングする。

 そしたら、歩道橋の上で言い争う声が聞こえたり、顔を覆った怪しい子どもが階段を上っていったりしたから、見守ってみる。

 あるいは、──たぶん、あの犯人の子は、理智おじさんに恨みを持っていたのだろう。詐欺グループの被害者の娘とか、その辺が正解の解釈だと見て、まず問題ない。

 なら、

 何事もなければ、それはそれで万々歳だろう。仮にも警察官なのだから。平和がいちばんだ。

 でも、何か起きたら──。

 具体的には、殺人事件が起きたとしたら──?

 簡単だ。

 事件の担当が、

 結果として、扇さんのチームは、この殺人事件の捜査から出てきた情報で、労せず詐欺加害者を検挙できるのではないか?

「…………う」

 私は吐きそうになった。目の前に死体があるから、だと信じたい。そうじゃないと情けなさすぎる。

 扇さんは、「おっとと、大丈夫?」なんて驚いてみせながら、私を心配する素振りだけをした。雪を軽く踏む音がする。……くそ。

 いえない。

 いえないよ、こんなの、いくら考えたって。

 正しいかどうかもわからなければ、証拠もない。言いがかりだ。それに、あっちは気が向いたら、いつでも私のことを殺人犯にできる。

 実際、本当に全部偶然な可能性だって、むしろ全然あるのだ。この枯れた若い大人の精神に、そんな計画を練るほどのエネルギーが隠れているとは思いづらい。

 けれど。

 少なくとも、この人によって──全部がぐちゃぐちゃになってしまっている気がするのは、否めない。

「それにしても、詐欺かぁ。やっぱり儲かるのかな?」

「……おじさんは、立派な絵を描く人だったんです」

「そっか。そりゃ残念だ。ぼくも暇なときには絵を描く。でもさ、元々そんな立派な絵を描く人だったんなら、よっぽどお金が必要な事態があったんだろうね?」

 淡々と、刑事さんは続けている。

 その言及が私の精神をえぐり続けていることを、

 知ってか知らずか。

「そういえば、詐欺グループに入る人の中にはさ……。親の介護とか、あと親戚の家庭の支援とか? そういう血縁者への資金集めを動機にして、止むをえずに違法なお金稼ぎをするやつがいるらしいよ。先輩に教わったことがあるんだ」

「…………はい」

「そう言われても、って感じだよね」

 言外に、詐欺行為を働いているやつの事情なんて知るかよ、と言われているのがわかる。

 そして、そんな理智おじさんに、私はお金の無心をしていた……いや、もう。この期に及んだら、理智おじさんの動機が何だったのかくらい、私にもわかる。

 理智おじさんは、子どもや、姪を愛していたのだ。

 その過程で、間違った手段を使ってしまったとしても……その気持ちの純粋さだけは、きっと確かで。

 私は、地面に横たわっている理智おじさんのコワモテを見た。

 目に焼き付けておきたいと思った。

 そんな私の様子を見たのか、扇さんは、機嫌の悪そうな溜息をついてくる。

「……あーあ。にしても、ね。一応言っとくけど。その人、最初は、間違った方法でお金を得た富裕層とかを、主なターゲットにしてたんだって」

「そう、ですか」

「でも最近は、わりと見境なくなってたらしい。金に入り用でもあったのかな? たとえ自分が危険で誤った道に進もうとも、誰かのために頑張らなくっちゃ、って感じなのかね……」

 扇さんは、聞かれてもないのに独りごちたあと、吐き捨てるように、一言、発した。


「くだらねえ」


 それは。

 私は、もちろん返事をよこさなかったんだけども。

 本当に心の底からこれってくだらねぇなと思って、嫌気がさしているような──そんな、死体なんかより最低で最悪なものを見たときにしか出せないような声で。

 おそらく初めて見えた、この人の純粋な本音だったと思われる。

 扇さんはまた、頭を掻いた。

「……じゃ、いいよ。ちゃんと引継ぎはするから、きみはしばらくここでぼくと待ってて。事情聴取とか、受けてもらうことになると思うから」

「はい……わかりました」

 事情聴取ということは、帰りはそこそこ遅くなるだろう。お母さんになんて言えばいいのか、わからない。

 寒空のなか、適当になるまで過ごす。

 私たちの中のニル・アドミラリイが……。

 ふっと、襲ってくるまで……。



 ああ。

 なんだか、さっきいい話っぽくまとめようとしちゃったけど。

 そもそも、私がお金の相談なんかしなきゃ、理智おじさんは死ななかったんだよな。

 んで、そもそも理智おじさんが詐欺なんかしてなかったら、犯人の子に殺されることもなかったし。

 おじさんが周りに甘くなかったら。あるいはもっと手あたり次第に仕事を受けてちゃんと稼いでいたら。

 ──

 それでそれで。そもそも私のお母さんが虐待気質じゃなかったら? お父さんがそれをほっとかなかったら。理智おじさんの奥さんが浮気相手に殺されてなかったら。おじさんの子どもが奔放に育って、負担をかけたりしていなかったら。私がもっと頑張って絵を描いていたら。

 あれ?

 わからなくなってきたぞ?

 これって、──?

「……あの」

 雪をじゃりっと踏む。もう、すっかり動ける感じになっていた。硬直なんかしてない。

 ふと、理智おじさんが私の話を聞いた直後に言い放った言葉を、思い出した。

 うん。

 確かに、そんなのは餓鬼の理屈だよね──。

「ん、どうしたの?」

 扇さんは応じてくれた。

 遠くからサイレンの音が聞こえる。だから、言いたいことは、早めに伝えておかなくっちゃいけない。二人きりではなくなる前に。

 間違ったことをする好い大人と。

 正しいことをする悪質な大人と。

 そんなのを見ながら育つ私は、いったいどこに向かったらいいんだろう?

 私は刑事さんに言った。


「なんか、色々、疲れません?」


 夢とか、

 金とか、

 生きるとか死ぬとか。

 扇さんは気のない感じに返事をしてくれた。それはやっぱり、あるいは、意外にも──。

 全く、私の予想した通りの言葉だった。

「ぼくは、全然」

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