第三楽章:メヌエット
Op.29 忠犬
ようやく梅雨が明け、本格的な夏が到来した。ただし世間は夏だが春のような空気が漂う空間がある。
学校での
そのきっかけが喧嘩の一件であることは言うまでもないだろう。今までも
ようやく『名物』の日常風景が戻ったかと思いきや今度は過去の名物を遥かに上回っていた。
「気のせいか花畑みたいのが視えるぞ」
クラスメイトたちもチンピラのようだったキリクが急に愛想良くなり気持ち悪がっていた。
「『守る』って主旨を忘れてるんじゃないのか」
レヴィが言うと、隣にいる
「これじゃあどちらが信仰の対象なのか分かりませんね」
と寒気を覚えていた。氷属性でも寒気は感じるようだ。
鈴の傍にいる『足枷』付きの
「こんな犬神くんはイヤだ」
「もう主従関係が成り立ってるわね、天使が従ってるけど」
キリクが天界をリタイアする日も近いかもしれない。
しかしキリクは天使としての約束も忘れたわけではなかった。
昼休みの間だけでもと、常にゆっくり少しずつでも毎日鈴にエネルギーを送り込むことだけは怠らない。
「『視える』体質までは変えてやれないけどせめてオーラだけは強化してやるから」
「わぁ。黄色だったオーラの外側にまた……今度は緑色の光が視えます」
「それが第四オーラのアストラル層。慈愛のエネルギーを司っている」
『慈愛』、それはキリクの上司サクが鈴の中に降りたときに感じたものであり、キリクが覚悟と決意をくれたときに伝わってきた波長のものである。
「いついかなる時でもこの慈愛を基準に行動していれば、じきに自分の体を大事にしようとして『全』に感謝することができるようになる。自分自身に余裕が出ることで他者、或いは、この世の全てを赦し愛せるようになるんだ。そこまでくれば第五層から第七層のオーラが強くなる」
始めは雲をも掴むような、狐につままれているような話だった。だがこうして中級天使の高周波なエネルギーを受け続けているとその意図も徐々に理解が深まっていく。
実現できるのだという確信まで湧いてきて自分に自信のなかった鈴の中にも慈愛による自信が生まれ始めていた。
「キリクさんがこうしてくださっていると、最初は驚きで揺れていたのに最近では安心感を覚えるんです。まるで (天使としての) キリクさんそのものが私の中に流れ込んできてくれてるようで」
ゴフッ……
鼓が野菜ジュースを吹き溢した。ゲホゲホとむせ込む鼓によって集中が途切れたキリクはそれを中断し、文句を垂れる。
「邪魔すんなよ」
「だって! 会話、会話が……!」
赤面して慌てている鼓の隣で美琴もジットリと呆れた目をしており、更に言うなら悪魔の二名も咳払いをしながらよそよそしい空気を醸して顔を背けていた。
「何なんだよお前ら」
自覚がないのは当人二人だけである。
誰にも見られていない場所でみんなで仲良く昼食、とは言え悪魔は浮幽霊しか食わない。天使も通常はそうであるが、キリクだけは例外なのだろうか、
「はい、キリクさん。お礼のイチゴ牛乳です」
なぜかイチゴ牛乳を崇拝している。
鈴からもらったのが嬉しいのかイチゴ牛乳を受け取るのが嬉しいのか謎ではあるがパッと笑顔になり「ありがと」と一言礼を言う。キリクが礼を言うことさえ皆にとっては気持ちの悪い光景だった。
ただキリクは素直に自分の思ったことを言葉にしようと努めているだけである。
何故ならば天界と異なり地球には『言語』が存在していて、コミュニケーションのひとつとして言語が不可欠だと学んだからである。
また (鈴にだけは) 無駄に我を通そうとしないことにも努めた。ただそれだけのことだ。
「せっかく冷えてたんですが、時間が経ってしまってごめんなさい」
「いいよ。鈴がくれるから、何でも」
それにしては気持ちが悪い限りである。あまりの寒気に、「僕、冷やせます (今なら何でも)」 ベルフが名乗り出た上、いたずらに凍り付かせることもなく適度にヒンヤリと冷やす始末だ。
それを近くで傍観していた鼓はすごい形相で立ち上がった。
「最高だわ……レンジ要らずの黒戸くん、氷要らずの碓氷くんがいればお弁当が美味しく食べられる。ねえこのシャインマスカットもお願い」
いきなり何のメリットもない要望を押し付けられたベルフはエネルギーを無駄に消耗したくないと思ったものの、サクが怖かったので鼓に忠実に従った。
天使と悪魔と人間による平和な時間だけが過ぎていった。
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