ーージュウサンーー
第47話
季節は春。これで何回目の春を迎えたのだろう。
三十八歳になった。そんな僕は今日、ティファと惠谷ジュンには内緒で、こっそりある場所へ向かうのだ。
約束していた人がいるのである。
電車に乗って、僕は久しぶりに会えるその人の顔がどう成長しているのか想像したりしながら、電車から見える景色を眺めていた。
着いたのはカナガワで、僕は電車を降りてから更に歩いていった。
到着したのは十年前に行ったことのあるカナガワの大学。ということは、そう、僕は猿渡准教授に用があってここまでやって来たのだ。
部屋の前に飾られたプレートには准教授室、ではなくて教授室と書かれてあった。
どうやら、猿渡准教授はいつの間にか教授に昇格していて、今は猿渡教授と覚えるのが僕の中では正しいようだ。
それを知って、僕は猿渡教授を「猿渡さん」ではなく「教授」と呼ぶように決めた。今までの彼を「准教授」と呼ぶのは僕的になんだか違和感があったが、「教授」と呼ぶ分にはキリが良いし、なんら抵抗も感じないし、寧ろ簡単で言いやすい。
「お久しぶりです、教授」
猿渡教授が振り向いて、驚いた表情を見せる。
今まで、「猿渡さん」と呼んでいただけあって、なんだか慣れないことを言っているなと思ったが、それでも、こんなの直ぐに慣れてしまうのだろうな。
「珍しいお客ですね。それにしても教授、とですかぁ。美能さんにそう言われるのは、なんだか慣れないですが、でも新鮮な感じです。ほっほっ。どうぞお部屋へ」
僕は案内されてそのまま部屋の中へ入った。
十年前に見た部屋の面影は確かにあったのだが、観葉植物は溢れるほど増えていて部屋は森みたいになっているし、本の数も崩れるのではないかと思うほど山積みにされていて、歩くスペースを確保するのも危うい程であった。
そんな部屋をひょいひょいと、当たり前のように移動していく猿渡教授。
どう進めばいいか迷っている僕に猿渡教授が僕に言う。
「気にしないでください、ここに散らばっているものは全部踏んでも良いものばかりなので」
「あ……はい」
僕は無理やり部屋の中へ入って、案内された椅子にようやくの思いで座ることができた。
「十年ぶりですか、美能さんはだいぶ変わりましたね」
「そういう教授はあんまり変わっていないようで」
「当時五十代だった私が六十代になったところで、元から老けていた顔はちょっと皺が増えたぐらいの老いた顔になるだけで大して変わらないかもしれませんがね。美能さんみたいなまだ若い顔の成長は著しくもあるのですがね、でも前とは違う大人な雰囲気が出ましたね」
「まあ、だいぶ状況は変わりましたし、多少やつれているのかもしれませんね。でもその分いろいろ経験は積ませていただきましたよ。そう考えると歳を老いていくのも悪くはない気がします」
「プラス思考は良い事です、ほっほっ」
十年前に比べて猿渡教授はより陽気になったようだ。
「そうです、依田雅が託した研究についてなのですが」
僕が話を切り出すと、猿渡教授は目を開いて、難しい顔をした。僕たち人間はこんな直ぐに表情を変えることができるんだ、と何故か人間に感心した。
「あぁ、それについてでしたら順調……と言いたいところですが、ウィルスが何年後に地球に影響を及ぼすのかがわからないので、研究スピードが定まらないのですよねぇ……、正直、期限とタイミングが定まらないと、のんびり屋の私には難しいと言ったところなんです」
猿渡教授が腕を組んで苦笑する。
「四十年後、です」
「四十年?」
「はい、四十年後には地球はウィルスによって汚染され、その頃の感染していない人たちは惑星移住を考えるようになります。ですので、末期になる前にワクチンは開発しておかなければ、依田雅のような未来人達のタイムトラベルも意味もなくなってしまうのです。期限は遅くともその四十年の間で開発をしなければいけない、これが現実的な考え方です」
猶予は四十年。これはティファが涼香の独り言を映像で残してくれたおかげで知ることができた一つである。そう考えると、涼香もティファも人類を変える大きな影響を及ぼしてくれたということだ。
その頃かr十年経っているので、残りは四十年ということになるのだ。
四十年後に生きる人々の運命を変えるべく、僕たちは今からでも四十年後の景色を彩らないといけないのだ。
「四十年ですか……、それならきっと、この研究を終えるころには、私は生きていることはないということになりますね」
猿渡教授は悲しい事を言った。
そんなことないですよ、と言いたいところだったが、確かにその通り、四十年後に猿渡教授が存命していることはまずあり得ない。
猿渡教授の哀愁漂う表情を見ながら僕は決めた。
「教授の研究、いつか僕に継がせてください。教授が研究した運命を変える鍵を使って、僕は平穏な未来を絶対に掴んでみせますから」
僕が言うと、猿渡教授は安心したのか穏やかな表情に戻り、「ほっほっ」といつものように笑い出した。
「それは、頼もしいですね。そういわれると私も研究に全力を注ぐことができます。決して無駄な研究人生ではなく、私の研究は後世の平和を生み出すものだと信じて安心できるので。是非、よろしくお願いします」
猿渡教授と僕は大学の一室で固い握手を交わした。
手を放して僕は思い出したことをついでに話すように言った。
「そうです。そう言えば、依田雅が残した写真は今はどうなっているのでしょう?」
「ああ、その写真についてなのですが……、このようになっていて……」
猿渡教授はポケットからしわくちゃの色あせた写真を取り出して、僕の前に見せた。
「……ん……?靄がかかっていてよく見えないですが、以前に見た写真とは全然違うように見えますが……」
その写真を見て、僕は前に見た写真とは別物なのではないかと思った。猿渡教授が持っている写真は曇り空を映しているようで、景色とも呼べないような凄くわからない写真だった。
「私も別の写真と疑いましたが、裏面のこの文章だけは変わっていないのです」
猿渡教授が写真をめくる。
――帰る時が来ても、先生を信じています――
僕はその文章を見て、こんなことはあるのか、と心の内で驚いてしまった。
「ということは、この写真は依田雅の残した写真で間違いない……のですね」
「きっと、これは未来の景色を映しているんですよ」
猿渡教授は間違いない、という目つきで言った。
未来の景色。それが、今は曖昧な景色を映している。
僕は答えた。
「その写真はまだ未来がどうなるかわからず、まだ未来の変化の可能性があるから、靄しか写せないというのですか」
未来は変化している最中。僕たちの動きは些細なことでも重要で、未来が良くなるか悪くなるかはまだ天秤にかけられている状態なのだろう。まだどうなるかわからない。
「それなら僕たちで未来を変えて見せましょう」
二人の完全に燃え滾った眼。
絶対に、涼香たちが望んだ未来を創り出すんだ。それが僕の使命だ。
その瞬間から、僕はその気持ちを強く強く心に刻み始めたのである。
涼香を想い続けて過ごしているうちに、また十年が過ぎた。
幾日も待ち続けて、僕はもう四十八歳だ。
隣にいるティファが僕にアールグレイを淹れてくれて、僕は「ありがとう」と言い、当たり前のように一口飲んだ。
その温かいアールグレイは、僕の心をしっとりと落ち着かせてくれる。そう言えば、随分前に猿渡教授もアールグレイを淹れてくれたっけ……、懐かしい思い出だ。
それと、僕はいつの間にか、ストロング缶を買わなくなったんだ。
ストロング缶を飲まなくなった僕は体が軽くなったような気がしたし、むくみも減って、良いこと尽くめであった。
タバコは未だに吸っているのだが、一日の本数は少なくなったし本当に嗜む程度になった。でも、やっぱり、今でもラッキーストライクの煙を感じると涼香との青春を思い出してしまうのである。
涼香と再会するにはあと三十年は待たないといけない。先は長いんだ。
僕がそんな気持ちになって愁いていると、決まってティファは僕の傍へやってきてくれた。特に何かを言うわけでもない。だが、僕はそれだけでも心が穏やかになった。
日常生活の中で、ティファが耳たぶを触ったり、髪の毛を指でくるくるさせている瞬間を目撃すると、涼香が僕のもとに戻って来たのだ、と錯覚して動揺してしまうことはあった。
ただただ涼香とティファを同一視しようとしていた僕。
それでもティファと共に生活をしていると、涼香とは違うアンドロイドのティファの特徴も見つけたりして、今となってはティファを一個人として受け入れているつもりだ。
そのようなことが出来るようになったのは、きっと僕が年を取って心が成長したからなのだろうと思う。
ティファがこの事務所にやってきてもう二十年。調査がない日だけは平穏に過ごすことが出来ていたのだが、僕たちのもとに訃報が届いたのはその年の秋真っただ中であった。
小鳩老人が亡くなった。
それでも、当初、七十歳だった人間が九十歳まで何も患わず生きていたということは奇跡とも言えるし、寧ろ大往生だったとも言えるだろう。
二十年前、カナガワの喫茶店で調査の結果を報告した時、僕は小鳩老人に対して何か思ったのだ。だけどその時はそれが何なのかわからなかった。
でも、今なら分かる気がする。
あの頃の小鳩老人を思い出してみると、既に疲れ果てていたのかもしれない。
老いた容姿の小鳩老人だし、きっともう後は長くないのだろう。
それでも自分の人生を研究に捧げて新たなるタイムマシンを開発をしようとする姿勢を見て、僕はやるせない気持ちになったのだと思う。
因果応報と悪く言いたくはないが、実際、自分で覚悟した選択の世界からまた前の世界に戻ろうとする姿がどうしようもなく辛かった。
それでも小鳩老人はタイムマシンの開発をすることを諦めることはなかった。生涯、孫との再会を望んでタイムマシンの研究にすべてを注いだというのであった。
僕はあの時見た、喫茶店を出る小鳩老人の後ろ姿を忘れられない。
この訃報は未来にいる涼香にも知らせなければいけないと思い、それをきっかけに僕はその日から簡単な日記を付けていこうと決めて、新しいペンとノートを買ったのだ。
頻度は、毎日とはいかないにしろ、日記を通していつか涼香へ僕の想いを伝えられたらと思った。
涼香に贈るための日記であるから、日記の中では涼香をキミと表現していくことにした。
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