狼はかつての親猫を喰らいたい

仏座ななくさ

序章

第0話 ある男の死

 穏やかな光が差し込む美しい一室。窓からは緑あふれる庭が一望でき、やわらかな光がカーテンの隙間から零れ落ちていた。

 のどかな春の日。多くのものがこんな日に眠りにつくように死ぬことが叶うならば、理想的だと思うことだろう。


「……じ……さん……!……。死……な……っ、……」


 事実、寝台に横たわっている男も死という眠りにつく寸前だった。すでに九十を超えた年を数える男は大往生と言っても差し支えはない。いかに獣の力を持とうと身体の寿命には敵わないのだ。

 その傍ら。枕もとで腕を握りしめながら、震えた声で懇願する少年へと老人は瞳だけを向ける。少年はまだ十を越えたばかりだったが、それよりもずっと幼い体躯と黒曜のごとく黒い髪、ぎらぎらと輝く瞳が印象的だった。狼に似た鋭さを持つ子どもは、けれどもこの瞬間はただ表情一杯に涙を浮かべ、悲嘆にくれた表情をしている。

 ぼんやりとしか見えない視界でもそれが見えて、老人はしゃがれた声でくつくつと喉を揺らす。


「お前も無茶なことを言うね。司狼。これまでに何度も経験した感覚だ。死からは逃れ得ない。たとえ獣越者だとしても」

「それでも! 俺は……俺はまだ、アンタからあの時の答えを聞いてない」


 寝台の傍らに置かれている一輪差し。露を湛えた美しいバラがそこには咲き誇っていた。


「くく……前にも言っただろう。そういうのは後十年は経ってから言うものだ」

「────……なら」


 両手で包み込まれていた手が恭しく持ち上げられる。鈍った指先はその感触を感知しないまま、その指先に騎士のごとく口づけを落とされたのだと理解できたのは、唯一五感でまともに働く視界が機能したからだ。


「アンタので出会った時には、今よりもずっと色男になってやる。覚悟しておけ」


 つい数年前までロクに箸の使い方も知らなかった子どもが、大きな口を叩くものだ。開いた口は大きく幾度も咳き込みを繰り返す。子どもが何か叫んだような気がするが、それすらも耳は認識しない。


 もう終わりが来るのだろう。これまでにも七度訪れた終わりの八回目。

 けれども恐れることはない。猫である自分は、まだ巡る命が残されているのだから。


 一輪差しの隣におかれていた名が刻まれた小さな石が、かたんとひとつ小さく揺れた。

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