夜行曲 ~払い屋 津川の業務報告書~

南西北東

ねがわくは、はなの下にて

第1話 一色家事件・プロローグ

冷たい風が夜を吹き抜けた。

冬も終わりに近づき、桜の花が咲くのもあと僅かに思われる今日日だが、日が落ちてしまえば寒さが再び力を取り戻す。

冷たい夜気に耐え兼ねて、纏ったコートの襟を正す。こつり、こつりと硬い音を立てながら人気のなくなった郊外の道を行くのは一人の少年だった。

身長は百六十センチを少し超えた位で一般的には低い部類に入る、しかし不思議と小柄という印象は受けない。しっかりと伸びた背筋と雰囲気がそう見せるのだ。

ひざ下までを覆う黒いロングコートをきっちりと着込み、両手はポケットに押し込んでいる。時折通りかかる外灯のぼんやりとした光に照らされる、まだ十代と思わしき横顔には隠しきれない疲弊感が浮かんでいた。その瞳と髪の色は共にともすれば異様なまでに黒い。この夜道にあってなおもはっきりと見てとれそうな程に深い黒。それはまさに、真冬の冷たく深い夜の色。まるで生気が感じられない、死人のそれであった。

靴音が急に止まった。少年は暗がりの中に目を凝らす。


津川つがわさん、ですか?」


少年の見つめた先から声があがった。

自信がなさそうな、あるいは怯えているような声音だった。


「あぁ」


対して少年は短く答えて首を縦に振る。その間も彼の表情は僅かなりとも変わりはしなかった。

それを受けて、少年に話しかけた人物が闇の中からこそこそと姿を現した。

壮年の男性であった。身に纏った濃い青色の着物――作務衣に特徴的な頭、誰が見ても彼の職業は明白であった。

僧侶である。

しかし、丸めた頭は剃り方が甘いのか、それともこの時間ゆえか、うっすらと青みがかっている。がっちりした体を縮こまらせ、周囲を怖々と伺う姿は、まるで夜を恐れているかのようであった。


「本堂の方にお伺いする約束だったはずだが?」


男の様子をいささかも気にかけた風もなく、津川と呼ばれた少年は問いかけた。ふた回り以上は年の離れた相手だというのに、物怖じなど一切感じさせぬ言い方だった。

ちらりと、腕時計に視線を移す。事前に電話で告げておいた刻限まではゆうに三十分以上ある。少年の遅刻に痺れを切らして探しにきた、という訳ではなさそうだった。


「いや、その……居ても立ってもいられなくなりまして……」


口ごもりながら、彼は尻すぼみな声でそう言った。

少年はさしたる感慨もなさそうに頷くと、僧侶の向こう側に広がる闇に目を移した。

―いる

確かに感じられた。微かな風の流れに乗って、どろりとした生臭い匂いが少年の鼻をついた。否、実際には嗅覚でそれを感じ取った訳ではない。五感の全てが捉えたごく僅かな異常、意識の外でしか感じ取れぬそれを、匂いという形で脳が認識し、彼に知らせたのだ。


「この度依頼を受けた津川冬夜だ。早速だが、現場を見せて頂きたい。案内を頼む」


極めて短く自己紹介を済ませ、少年―津川つがわ冬夜とうやは僧侶を急かした。もっとも本人からすれば別段、紹介を端折ったつもりはない。自分の事を伝える上でこれ以上語るべきことはないという考えからだった。

案内を頼む、と言いながらも冬夜は僧侶の横をすれ違い、慌てて僧侶がその後を追いかけていく。

足を進めるごとに異質な気配が満ちていくのが肌で感じられた。常人でも感じられる程に濃くなった気配に耐え兼ねてか、恐怖を紛らわすかの如く僧が語り始めた。


「ひと月程前でしょうか。裏手の墓場から人の気配がして……最初はただの近所の悪タレが肝試しでもしているのだろうと、呆れはしましたがそれほど気にはしませんでした」


冬夜は返事をすることはおろか相槌を打つことさえしなかった。


「こんな田舎町です。娯楽に飢えた小僧たちが肝試しと称して夜の墓場で騒ぐのは、ままあることでした。しかし、今思うとこんな時期に肝試しなんておかしな話です……とはいえ、人の気配がする程度で翌朝になっても特に何かしらの悪戯は確認されなかったためあまり気にはしていませんでした。しかし……」


それでも彼は話を続ける。口を動かし続けなければ恐怖に押しつぶされてしまうそうで、こらえるために必死なのであった。






僧は名を安達あだち早雲そううんと言った。

その日、早雲は妙な胸騒ぎを覚え、目を覚ましたという。

枕元に置いた時計を確認してみれば針は午前二時を少し過ぎた頃を指していた。草木も眠る丑三つ時である。いくら何でも起きるには早すぎると、再び眠りに落ちようと瞼を閉じてはみたが、不思議と眠気は感じられない。僧の仕事は決して楽なものではない。朝も早くに起きて行を成さねばならないのだ。睡眠を十分にとっておかなければ今朝に響く。

そう頭では分かってはいるが、どうにも目が覚めてしまって寝付けない。

何度か寝返りを打ってみて、遂に早雲は体を布団から起こした。水の一杯でも飲んでこようと思ってのことだった。布団から這い出し、ぶるりと体を震わせた。春の訪れまで間もないとは言え、夜はやはり冷える。寒さをこらえながらようやく立ち上がると、今の今まで横たわり休まっていた体が軋みをあげた。早雲は今年で五十九歳になる。最早昔のような若さに溢れた肉体ではないのだ。寝起きに、しかもこんな寒さの中立ち上がるのは少々堪えるものがあった。

こんな時間に目を覚ましてしまったのも歳故かと、寝ぼけ眼に思った。最近では夜更けに目を覚ますことも珍しい事ではなくなってきていた。老いた体が長時間の睡眠に耐えられなくなってきているのだ。若い頃は面倒くささを感じてもそこまで苦痛ではなかった筈の日々の行でさえも辛くなってきて、満足に行うことが出来なくなってきている。

随分と歳をとったものだと、そう思う。

仕事を続けてきて早三十年。早雲に妻子はいない。自分が死んだら、遠縁の、同じく僧籍に身を置く親戚が寺を継ぐことになっている。気楽なものだ。

この町で寺の長男として生まれ、次代の住職となるべく育ってきた。生まれた時から決まっていたような生き方ではあったが、彼は別にそんな人生に不満を感じたことはなかった。別段なりたいものがあったわけでも、わざわざ引かれたレールを脱線してまで追いかけたい夢があったわけでもない。彼にとってこの寺を継ぐことは当然のことであった。

そんな風に色々を考えながら水を飲もうと寝所から厨まで歩を進めていた。窓に面した廊下をそろそろと歩むうちに、ふと小さな物音が耳についた。廊下の軋む音、窓の外から聞こえて来る、風に揺れる木々のざわめき。それに混じって早雲の耳朶を叩いたのは、砂利を踏みしめる音だった。

普段ならば聞き逃してしまうような微かな音ではある。だが、それは明らかに自然が奏でる音とは別物だった。夜更けの静寂の中、生き物が作り出す音はいやに目立つ。

猫か何かの獣の足音かとも思ったが、それにしては音が大きすぎる。丁度人と同じ位の大きさの何かが歩くそれだ。


―何者か。


こんな時間に外を、しかも人の家の敷地内を歩くなど、まずまともな者のすること事ではない。物取りの可能性さえある。

物音の正体を見極めようと、耳を澄ます。場合によっては通報もやむなしと思った。

しかし、足音は徐々に小さくなっていく。早雲の家を離れていくようだった。

さては、近所の悪タレか。

先日の墓場での怪しい気配の事を思い出した早雲は懐中電灯を手にすると、玄関に周り、そっと外に出た。

家の中とは比較にならない寒気が、眠気覚ましにはむしろ丁度良かった。

石畳の上を歩き、なるべく足音を隠しながら裏手の墓場に回る。手に持った懐中電灯はまだつけてはいない。もし相手が物取りだった場合、気づかれる恐れがある。幸いにして今晩の空には雲一つない。半月から満月にいたる途中の肥えた月が空に上り、星々がちかちかと輝いている。慣れた道という事もあり、その光だけでも十分すぎる明かりだった。

程なくして墓場にたどり着き、早雲は首をかしげた。悪戯であるならば、話し声くらいはしてもおかしくないはずだ。それがまるでない。自分はともかくとして、明かり一つつけないのも解せない。先程の庭先での足音も、考えてみれば一人分のものだった。

やはり不審者か何かだろうか。しかし、それなら何故わざわざ音の出る砂利道を選んで進んだのか。早雲と同じく石畳を歩けば音もなく、歩きやすいはずだ。

そもそもにして今は冬である。わざわざ夜更けに抜け出してまで墓場で悪戯をしようなどという者がいるだろうか?

ぞわり、と。早雲は背中を冷たい何かが伝うのを感じた。

心の中で警鐘が響く。このまま引き返して家に戻ってしまいたかった。そして布団にくるまって朝を待とう。

そう思った時、墓場の敷地内で、何かが動くのが目の端に写った。写って、しまった。


―誰だ?


思わず声を出してしまった。この異様な状況に耐え切れなくなってのことだった。すぐに後悔が襲いかかってくる。気がつかない振りをしておけば関わらずにすんだ物を、相手に気付かれさえしなければ何もなかった事に出来た物を、しかし、最早そうする事は出来なくなってしまった。

冷や汗が頬を流れた。こんなにも寒いというのに、吹き出る汗が止まらなかった。心臓が早鐘のように打つのを感じながら、早雲は懐中電灯のスイッチをいれた。足元を照らす光が、彼の手の動きに合わせ、徐々に闇を切り裂いていく。

そして、ライトに照らされて明らかとなったソレの姿を目にしたとき、早雲の口から絶叫があがった。







「それが、二週間程前のことでした」


ひどく力のない声で早雲はそう締めくくった。思い出すのも辛いのか、とぎれとぎれに彼が語るのを冬夜は眉一つ動かさずに聞いていた。無論、歩く足も止めてはいない。話が終わる頃には、彼らは雲生寺の脇を通り抜け、件の墓地の入口にたどり着いていた。

そこまで来て、ようやく冬夜は足をとめ、一息をつく。そして彼は広がる闇の中に鋭い一瞥を送り、


「なるほど、な」


首を縦に振る。もっとも、僧が語った話の概要は既に冬夜も書面で聞き及んでいる。それでも語るのを止めなかったのは、書類だけでは分からない詳細を聞き出すためであった。


「五十年以上生きてきましたが、あのような物を目にするのは初めてです。あの時見たものは今なお目に焼きついて離れません……今でも夜更けに物音が聞こえる度に怯える始末です。その、なんとも情けない話ではあるのですが、どうか、」


その続きを言う事はなく、早雲は頭を下げた。

対する冬夜は慣れているのか、やはり微動だにせず、


「心得た」


早雲が頭を上げるのも待たず、単身で墓地の中へと足を踏み入れる。

今度は早雲はついては来なかった。自分の管理する土地の敷地内ではあるが、さすがに二度までもあれを見る勇気はないと見えた。

そんな様子のクライアントを振り返ることもなく、冬夜はずんずんと足を進めていく。

早雲があれを始めて見たという日からおよそ二週間、その頃には丸かったであろう月もいまや完全に夜空に飲み込まれている。

新月である。

加えて夜空は雲に覆われて、星の光さえも見えはしない。

そんな暗がりの中にあって冬夜は明かり一つもたず、しかし規則的な靴音は全くブレることはない。彼の黒瞳はこの闇の中でさえも光を捉えているのだった。

ばさり、と。

コートの裾が、鳥の羽ばたきに似た音をたてて翻った。歩みを止めた少年の両目が吊り上がり、深い夜を射抜かんばかりに睨みつける。今や常人でも感じられる程に、現実のものでない腐臭は周囲に漂い始めていた。

それは、いた。

四足を地面についたそれは人の形をしていた。ただし、あくまで輪郭だけである。

その体は細い枯れ木がいくつも絡まって出来たようにスカスカで、向こう側が透けて見えている。

まるで木乃伊だ。骨と皮だけで出来ているのか、異様に細い腕で墓の拝石を必死に引っ掻いている姿は、気の弱い者が見ればそれだけで卒倒しそうな凄まじさがある。

明らかに人間ではなかった。


「餓鬼、か……?」


ぼそりと口にして、冬夜は眉間に皺を寄せた。

その声に反応して、それは物凄い勢いで冬夜の方を振り向いた。痩せこけ、朽ちかけた表情の分からない顔で、黄色く濁った目をギョロリと向ける。その目には手負いの野生動物の如き敵意が込められていた。


「後始末が大変そうだ」


少しも怯んだ様子を見せず、冬夜は化物が引っ掻いていた拝石を見て、呆れたように呟いた。綺麗に磨かれていた石はどれほどの間化物に苛まれていたのか、爪の跡がはっきりと残るほどに削られ、見るも無残である。

―しゃあっ!

空気の抜けるような音が化物の口から迸った。

冬夜と化物の視線が交錯し、ガラスに罅が入るような音が響いた。それもまた現実のものではない。殺気と殺気が虚空でぶつかる、本来なら聞くことの叶わない音である。

不意に化物が動いた。地面を蹴って、跳び上がる。筋肉など一切ついてはいない足でなされたとは思えない、常識の埒外の動きだった。

ほんの一足で距離を詰めてきた化物を冷静に見つめながら、冬夜はほんの半歩だけ後ろに下がる。石さえも削る鋭い指先が彼の目と鼻の先を薙いだ。

空振った一撃は近くにあった石灯籠を直撃し、鶴嘴でえぐったかのように無残に破壊した。人間の顔など掠めただけで容易く剥ぎ取られてしまうような強烈な攻撃だった。

目は化物から離さないまま、冬夜は後ろに跳ぶ。そして振り向きもしないままに別の墓に刺さっていた卒塔婆を引き抜き、化物に突きつけた。

化物は一瞬も怯むことなく再び飛びかかる。今度は冬夜も、退く素振りを見せなかった。


「ひゅっ!」


冬夜の口から笛の音を立てて呼気が吐き出された。

卒塔婆を引き戻し、上半身の動きだけで化物の腕を躱すと、がら空きになった胴体に思い切り前蹴りを食らわせる。信じられないくらい抵抗なく、化物の体が宙に舞った。

体の一部であったと思われる残骸をまき散らしながら化物は吹き飛んで、やがて地面に叩きつけられた。新しく墓を作る予定だったのか、土がむき出しのままの地面である。

間髪いれずに少年は大地を蹴って詰め寄り、地面に仰向けに倒れたままたの化物の胸のど真ん中に、逆手に持ち替えた得物の切っ先を真っ直ぐに突き立てた。

聞くに耐えない汚い絶叫が響いた。

渾身の一突きは腐れた体を安々と貫き、その下の地面に食い込んでいく。半分程が地に埋まったところで冬夜は手を離して化物の手足が届かない距離まで下がった。

見下ろす先で、胸を貫かれているにも関わらず、化物はいまだ動き続けていた。両手両足をじたばたと、駄々をこねるかのように振り回す。胸に突きたった卒塔婆が立ち上がることを妨げているのだった。

地面に縫い付けられたそれを見ながら、彼は両のポケットに手を突っ込んで何やらあさり始める。

目当ての物が見つからないのか、十数秒ほどまさぐって、やがて彼は手の中に収まるくらいのガラス製の小瓶を取り出した。

手元を確認することなく少年は小瓶を化物の顔めがけて叩きつける。ガラスが砕け、むせ返る程強い酒気が立ち上った。匂いに閉口しながらも右の指の先を化物に向け、何事かを小さく呟く。それはこの国の言葉ではなかった。古い大陸の言葉……真言である。

ぼぅ、と化物の体に赤い光が点った。

それは間もなく火となって化物の全身を包み込む。果たして先ほど化物に叩きつけたガラス瓶の中身は度数の高い酒であった。

―syyyyyyyy!!

空気の抜ける音に似た声が墓場に木霊する。それが化物の断末魔だった。

程なくして火勢は弱まっていき、完全に燃え尽きた時にはそこに化物の姿はなかった。丁度それと同じ位の量の、土とも灰ともつかない物の山が積み上がっているだけである。

冬夜は化物が息絶えた事を確認すると、新たに取り出したタバコを口にくわえる。

今時珍しい、両切りの短いタバコだった。


「これは……!?」


不意に背後からあがった驚きの声に振り返ると、そこには早雲の姿があった。

冬夜が単身で墓場の中に入っていき、一人取り残されたことで不安に駆られたのであろう彼は、目の前で起きた現実を受け入れられずにいた。未だ立ち上る嫌な臭いのする煙に辟易しながら、少年とその足元に積み上がった土くれの山を見比べていた。

冬夜は内心で苦笑する。たとえ僧とはいえ、一般人に過ぎない。こうして尋常ならざる業を見せつけられれば誰だってこんな反応をするのだ。


「仕事は終わった。後で請求が行くはずだ。期日までに払込を頼む」


ライターをこする音がして、冬夜の口元に橙色の光が点った。

濃い煙を深く吸い込んで、吐き出す。化物の残した匂いとタバコの煙は混ざり合ってやがて空気に溶けていく。

いつの間にか、墓地を包んでいた異様な気配も霧消していた。

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