24(私は彼に救われてしまった)

 港町の黄昏は穏やかだ。

 エリュシアは潮風に吹かれながら、広場の長椅子ベンチに腰かけていた。顔紗マスクもつけず、うすい紫の服をまとっている。


 母親に連れられた子どもが風船を持って走りまわっていた。母親は危ないからと声をかけているが、男の子は「へいきだもんね」と振りかえりもせず先に進み、階段から転がりおちてしまった。

 声をあげ、男の子がわあんと泣きだす。母親が青ざめてかけ寄る。


「だからいったのに」


 まわりにいたものたちも慌てて「だいじょうぶか」「す、すぐに医者を」と集まってくる。男の子の怪我はそうとうに酷かった。足が折れている。


「あ、あの、ちょっとだけよろしいでしょうか」


 エリュシアはいてもたってもいられずに声を掛けた。母親に頼んで、治療させてもらう。「医師か」と尋ねられたので「治療の経験があります」とだけこたえ、聖女の奇蹟を発動する。

 みるみるうちに男の子の折れていた脚が元通りになって、傷が塞がっていく。


「奇蹟だわ」


 母親が男の子を抱き締め、感極まる。


「すごい」


「こんなことが現実にあるのか」


 群衆が歓声をあげて、騒ぎだした。


「ま、まさか、あんたはアルカディアの」


 しまった。

 エリュシアは慌てたが、抜けだそうにも群衆に埋もれてしまった。まして骨折を癒したばかりで想うように脚が動かせない。窮したそのとき、後ろから彼女の腕をつかんだものがいた。


「待たせたね、さあ、いこうか」


 キリエだ。彼はエリュシアを抱きあげて、騒ぎたてる群衆から連れだしてくれた。


「あいかわらず、その人助けのくせは抜けないんだねェ、聖女サマ?」


「すみません、まさか、あんなに騒ぎになるだなんて」


「妬けてしまうな。キミには俺がいるのに、あんなにたくさんの奴らにかこまれて――飾りたてた篭にでも捕えて誰にも逢えないように隠しておこうか」


 キリエは嘘かほんとうか解らないような口振りでエリュシアの眼を覗きこむ。


「そ、それはさすがに」


「嘘だよ。この三カ月、旅を続けてきて、キミの偽善振りには慣れたよ」


 敢えて偽善と指摘されることに安堵する。


「キミは聖女という役割を捨てられないんだな」


「私がまだ、ひとを助けられるかぎりは捨てられません」


 エリュシアはキリエに連れられ、北部にあるティルナノグにきていた。北部といっても夏は過ごしやすく、海を眺めながら旅を続けた。だが、まもなく秋になるので、南東部にあるアヴァロンという島に渡ろうときめた。


「遅かったので、心配していました。アヴァロンにむかう船の日程を確認してきてくださったんですよね?」


「あァ、明後日になるそうだよ」


 港まできた。腰かけられそうな堤防におろされる。ここまできたらさすがに先程の群衆も追いかけてはこない。


「ついでにこれを見掛けてね」


 差しだされたのは可愛らしい金の指環ゆびわだった。彼の眼によく似た紅榴石ガーネットが填めこまれている。


「わ、私にですか」


「きまっているだろう?」


 薬指に指環を通される。

 手をかざすと、紅榴石ガーネットは夕焼けを映して燃えるように瞬いた。

 こんな素敵なものを身につけるなんて産まれてはじめての経験だ。

 聖女は清貧であれ――首飾り、指環、髪飾りといったものは細やかな物でも身につけることは許されていなかった。

 嬉しくて、エリュシアは指環をはめた手を、胸に抱き締めた。


「ありがとうございます」


 髪を梳いてくる熱のない指が酷くやさしかった。


「今晩は海のみえる食館レストラン晩餐ディナーでもしようか」


「そんな、ぜいたくすぎます」


「たまにはいいだろう? キミが食事をしているところはみていて飽きないからなァ」


「わっ、お恥ずかしいです、すみません。旅にでてからは食べるものがぜんぶ、おいしくて……教会にいたころはライ麦のパンばかりだったので」


 落ちついて食事をとることもめったにできなかった。


「この港町は特にブイヤベースが絶品だとか。食館ではそれを頼むか。これからいくアヴァロン島は遊牧民がいるからな、チーズが旨いという噂だよ」


 想像するだけでも、お腹が減ってしまう。


「でも、なんだか、こんなにあまやかされると……」


「落ちつかない?」


「そう、ですね。申し訳なくなります」

 

 たいせつにしてもらえるだけの価値なんてないのに、と根暗な思考に捕らわれてしまう。彼に愛されて、どんな破滅が待っていても構わないとおもっていたが、こんなにもあまやかに扱われるなんて。


「それはよかった」


 キリエはエリュシアを抱き寄せる。


「キミは傷つくことが好きだろう?」


「そ、そんなはずないじゃないですか」


 ぼろぼろになっていたのは結果であって、好きで聖痕キズだらけになっていたわけではない。誤解だといいかけたが、彼は遮る。


「いいや、好きだよ。限界まで傷ついてようやく安堵できる。そこまでしないと愛されないと想いこんでいる。だから俺は、キミから痛いことも辛いことも全部、奪ってやりたかったんだよ」

 

 絡めとられた髪の先端に接吻が落とされる。髪のさきから全身が痺れた。麻薬のような愛だ。なにもかも奪われてしまう。


「……なァ、エリュシア。何処までもいこう。俺が何処までも連れていく」


「ふふ、あなたと一緒だと最後は地獄までいきそうですね」


「神サマからの逃避行だ、刺激があるだろう?」


 微笑みかけられ、微笑みかえす。


「逃げられるかぎり、続けましょうか」


「永遠に逃げ続けてやるさ」


「安い嘘ですね」


 永遠なんてないのに。


「俺は嘘はつかないよ」


 風が強くなってきた。

 エリュシアは睫毛をあげ、女神の祝福をけた黄金の眼に愛する悪魔を映す。


「その言葉がすでに嘘でしょう。……神サマの振りをして嘘の神託をしたのはあなたですね、キリエ」


 疑いというより確信を帯びた眼差しをむけられ、キリエは彼女の真意を察したのか、一瞬だけその眼を見張り、ふっと唇をゆがませた。


「知らなければ幸せだったのになァ、愚かだねェ、キミは」


 破綻しながらも廻り続けていた聖女という機巧オートマタに細工をして、破滅させたのは彼だ。

 エリュシアはきっと、愛されてはならないひとに愛されてしまった。

 そして、愛してしまったのだ。


「残念。私は幸せですよ、いまだって」


 だからエリュシアは潮風に抱かれて、屈託なく笑い続ける。

 これは罪だ。神聖アルカディアの民を捨て、教会を捨て、使命から逃げた罪にいつかは裁きがくだるのだとしても。


(私は彼に救われてしまった)


 だからいま、この時の幸福が、彼女の永遠だった。

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