10 命を救う娘と命を奪う男
聖女暗殺は果たして、誰の陰謀なのか。
暗殺の依頼者について現段階で解っていることはふたつだ。教会関係者で、かつ振り香炉をつかう身分のものということである。
現時点で、聖女暗殺を忌避する刺客たちに貴族令嬢と思いこませるため、エリュシアに値の張る絹の服を渡したものが最も疑わしかった。
変装を命じたのはミュトス皇子だ。
結果、ミュトス皇子が最たる容疑者としてあがった。だがミュトス皇子はエリュシアの変装を非難し、命令したという事実を強く否定。
皇子からの命令だとして服を渡したアルテミス司祭に疑いが移る。
(でも、アルテミス司祭が私の死を望むはずがない。だって、あのひとは私を育ててくださったお母様だもの)
エリュシアが
「お姉さま、おはようございます。入室してもよろしいですか?」
「ハルモニアですか、どうぞ」
入室するなり、ハルモニアは荷を差しだしてきた。
「昨日は慌ただしくてお伝えできていなかったのですが、アルテミス司祭からこちらの服を預かっていました。変装の服を取り違えていたとか」
荷を解く。町娘のようなありふれた麻の服だ。これならば刺客に疑われることもなかっただろう。
「サモス卿が娘であるイオアンナ様に渡すはずだった荷と、誤ってすり替わってしまっていたそうです」
サモス卿の娘は聖女候補だ。
今は修道女として教会につかえているが、令嬢としてあまやかされて育ってきただけあって我慢するということができず、父親にねだっては高値な服やら
服をすり替えたものがいる――アルテミス司祭は嘘の伝達を受け、なかみのすり替えられた服を渡させられただけとも充分に考えられる。
「……その変装についてなのですが、ミュトス殿下はご命令なさっていないと」
ハルモニアがぽかんとなる。
「どういうことですか?」
「いったい、どうなっているのか、私にも解りません。ですが、軍の伝達に不備があってはこまります。今後このようなことがないよう、調査するべきかとおもいます。砦から聖都の教会に聖女を要請し、変装について伝令したものを捜してください」
「わ、わかりました」
これでアルテミス司祭だけを疑わずに済む。
彼女は愛する母親だ。エリュシアはひとつ、胸をなでおろした。
…………
砦では犬を飼っている。
軍事犬だ。その優れた嗅覚で捜索、探知という役割を果たすほか、北部での食糧確保の最たる手段である猟にも役だつ。ほとんどの兵が負傷しているため、エリュシアが犬たちにご飯をあげていると、後ろから聴きなれた声がした。
「聖女サマは勤勉だな、こんな雑事までなさるとはね」
振りかえれば、兵隊の服で変装したキリエがいた。
「こんな時間帯に堂々と砦に侵入するなんて! 捕まりますよ」
「死ぬ前から
兵にしか尾を振らないはずの犬たちがいっせいにキリエのもとにかけ寄っていった。腹をだして、媚びるような声で鳴いている。
「す、すごいですね。私なんてまだ、なでさせてもらえないのに」
「強いものに媚びるのが犬の本能だからな。俺のことを砦の兵だと思っているんだろう」
彼に特異な能力があるのは確かだ。そういえば、橋ですれ違った時もかなり接近するまで彼がいることも認識できなかったと想いだす。
「聖女暗殺の首謀者についてですが」
エリュシアは現段階で解っていることを話す。
変装を命令していなかったミュトス皇子を疑う必要はなくなり、服がすり替えられたということはアルテミス司祭も第三者の陰謀に巻きこまれただけと考えられる。そうエリュシアが説明すれば、キリエは眉の端をつりあげた。
「どうかな? 俺からすれば、まだ全員が疑わしいところだが」
「そう、でしょうか?」
「皇子は変装なんて命令はしていないと嘘をつくこともできる。司祭のほうもしかりだ。わざと服を取り違えることは充分に可能だ。もちろん、伝令係も不審だな」
エリュシアはキリエの指摘に肩を縮ませ、唇をかみ締めた。
「で、ですが、どう考えても理にかなわないのです。ミュトス殿下もアルテミス司祭も聖女の死を望むとは考えられません」
「そうかな? そもそも理窟なんてたいして重要じゃない。人はキミが考えているより、かんたんに人の死を願うものだよ。神聖アルカディアは聖女の奇蹟に頼りきっているが、それをこころよく想わないものもいるだろうからね」
「ですが、あのおふたりは」
キリエは壁に腕をつき、追いこむようにしてエリュシアの眼を覗きこむ。
「それはキミが疑いたくないだけだろう?」
心臓をわしづかみにされたように呼吸がとまった。
「……そうですね。疑いたくはありません」
「は、いいこちゃんだな」
馬鹿にするように髪をするりとなでられた。
エリュシアは頬をゆがめる。
「違います。怖いんです。疑うのが……考えるのが、こわいだけ」
あのふたりに死を望まれていたら。
考えるだけでも腹の底が凍える。
だから、考えたくなかった。
「ふゥん」
キリエはどこかつまらなさそうに後ろにさがる。
「ま、ひとりを疑いすぎて、視野がせまくなるよりはいいさ」
庭ではご飯を終えた犬たちが腹ごなしとばかりに追いかけあって遊んでいる。穏やかな風景を眺めていて、なにをおもったのか、キリエが冷笑をこぼす。
「飼われた犬は哀れだねェ」
犬たちには革の
「いえ、彼らはとても幸せですよ。哀れなのは捨てられることです。首環があれば、彼らは自由です」
「
「此処にいられるからです」
許されると安心できる。
「へェ、キミもか?」
尋ねられて、エリュシアは微苦笑する。
捨てられる怖さはよくわかる。
「私は親に捨てられた娘でしたから」
エリュシアが捨てられたのは五歳のころだ。
聖なる
父親と母親に連れられて、聖ロクス教会まで礼拝にきた。ろうそくをもらってくるから待っていなさいといわれて彼女は約束通りに教会の裏庭で待ち続けていたが、ふたりはそれきり帰ってはこなかった。
雪が舞いはじめて、次第に吹雪となった。
祭りの火は遠く、こころまで凍りつくほどに寒かったのをおぼえている。
「そんな私を拾って、助けてくれたのがアルテミス司祭でした」
祭から一晩明けてアルテミス司祭が庭で倒れているエリュシアをみつけたとき、彼女は凍死しかけていた。助けられたものの、高熱をだし、彼女はその後七日間にわたって死の境を彷徨った。
だが一命を取りとめてすぐ、エリュシアは教会を抜けだして家に帰ろうとした。
母親に、父親に、逢いたかった。
だが、歩き続けて、ようやっと帰りついた家では父親が新しい家族と一緒に食卓をかこんでいた。見知らぬ女を妻に笑いかけ、知らない男の子を膝に乗せ、幸せそうにしている父親――エリュシアは現実を受けいれられず、その場から逃げだした。だが、都中を捜し続けてようやく逢えた母親が、やはり知らない男と連れそっていたのをみて、彼女はついに捨てられたのだと理解した。
(ふたりの
失踪したエリュシアを捜しにきてくれたアルテミス司祭は、心壊れたエリュシアを抱き締めて涙ながらにいった。
「これからは私がお母様ですからね、なにも悲しむことはないのですよ」と。
それからエリュシアはアルテミス司祭の娘となり、聖女候補として修業を重ねてきた。
「女神の祝福を享け、聖女に選ばれた時はどれほど誇らしかったことでしょうか。恩に報いることができるのだと……嬉しかった」
昔を想いだしながら、遠くに視線を馳せた。キリエは「ふゥん」と肩を竦める。
「俺は暗殺者として産まれて、親も一族も残らず殺してきたもんでね、恩だとかそういうものは理解できないな」
壮絶な経緯を、他愛ないことのように語られてエリュシアはうろたえる。
「なぜ、ご家族を」
「碌な奴らじゃなかったからだよ。奴らは俺を心のない
赤い眼は自嘲するようにゆがんだ。
「俺は殺すことしか教わらなかったからね」
哀れみは湧かなかった。ただ、なぜだか、理解できる。命を助ける聖女には心が要らない。それと同様に命を奪うものにも心は要らないのだ。
「私たちはどこか、似ているのかもしれませんね」
風が渡る。微かだが、緑のにおいがした。
北の砦にも春がせまっている。
春のあとには夏が
想いかえせば、エリュシアが聖女となったのもそんな嵐の
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