少女ミソギの立証不可能犯罪簿

不能者のプロローグ

 ミーンミンミンミンミーン…。


 煩いほどに鳴いている蝉。

 ゆら、ゆらと揺れる視界。

 うだるような暑さで汗が流れ落ちる。

 _夏だ。


 人々は黒い傘を差し、扇風機を持ち、顔を紅潮させ、亀のようにノロノロと歩いている。

 そんな彼らが引き込まれるのは、勿論涼しそうな休息の場。

 トウキョウ駅から、徒歩十分の場所に位置する古い…よく言えば歴史を感じさせる外装の喫茶店に、ある少女が居た。


 束ねられずに無造作に投げ出されている癖のない真っ直ぐな髪に、灰色のパーカー。

 パーカーが深く被られているせいで表情は窺い知ることは叶わないが、椅子に座っている姿勢が悪いため、それほど顔を見られたくないのだろうかと考察できる。


 しばらく少女は俯いていたが、突如、蚊の鳴くような声で俯いたままに呟いた。


「あれから五年…か」


 少女が呟いたのは、『全犯罪死刑制度』のことだろう。

 ある日突然、政府が発表した『全犯罪死刑制度』は、その名の通り、どんな犯罪でも犯してしまったら死刑となる。

 たばこのポイ捨てで死刑。割り込み行為で死刑。乱暴な言動で死刑。

 何がきっかけで死刑になっても可笑しくない状況に、人々は戸惑い、怒り、そして恐れた。

 _制定から五年後。

 未だに撤回されず、自宅に引き篭もる者が多くなった世の中で、立証不可能犯罪_通称『不能犯』と呼ばれるものを起こす存在が現れる。

 不能犯の始祖である少女は、罪に問えない幾つもの殺人を成し、暗躍していた。


 その少女_私は、淹れたばかりの珈琲の香りがふんわりと充満する、喫茶店の片隅で、ふう、と息を吐きながら悩ましげに唸っていた。

 柔らかい橙色の光が店内を包みこんでいて、レトロな雰囲気が漂っているのに対し、いささか似合わない悩みをミソギは抱えていた。

 ミソギの視線の先には、机に置かれている一冊のノートが。

 所々折れていたり、一面びっしり字や図が書かれていることから、かなり使い込まれていることが見て取れる。

 目をすう、細めて熟考していたミソギだったが、やがて椅子から立ち上がり、しっかりとした足取りでレジへと向かった。


「マスター、会計を」


 ミソギの声があまりにも小さすぎたのだろうか。

 わずかの間を置いて応じたマスター。


「…はいよ」


 珈琲一杯分、税込み500円。

 ワンコインでそれを払ったミソギ。

 渡されたレシートを要りません、と突き返してミソギは閑散とする喫茶店を後にした。


 殆どの人が半袖のなか、パーカーを着ているミソギに注目が集まるのは必然だろう。

 店を出てすぐ、少人数だが好奇の目が向けられ、ミソギは比較的人通りの少ない方へ進んでいった。


 ピヨピヨ、ピヨピヨ、カッコウ、カカコー、カッコウ、カカコー。

 横断歩道を渡った先にあった焼き立てのパンの匂いが鼻腔をくすぐる。

 匂いにつられてガラス越しに見えるパンを一瞥したものの、ミソギは時計を見て、そのまま足を止めることなく目的地へと歩く。


 更に進むと、カンカン、カンカン、と金属の打ち付けられる音が嫌に響く工事現場に着いた。

 ここだけ熱気が段違いだ。

 かなり歩いたため、工場の近くにあった大樹の木陰に足を運ぶミソギ。

 もあっ、と充満している熱気は凄まじいが、躊躇なく木の根に座る。

 座ってようやく余裕ができた。

 滝のように流れ落ちる汗を強引に拭ってミソギは時計を見る。


「…後、もう少しかな」


 そう誰に告げる訳でもなく呟き、パーカーのポケットから三枚の写真とスマホを取り出す。

 一枚は黒髪の女が金髪の男と腕を組んで歩いている写真。

 二、三枚目は一枚目によって見えないが、ミソギは見る必要がないというようにポケットに戻してしまう。

 そして写真と一緒に取り出していたスマホを起動させ、メッセージアプリを開いた。


 開いた先にあった『依頼人』という項目を迷いなくタップし、素早くあることを打ったミソギ。

 要件はそれで終わり。

 履歴を眺めることもせずに、また歩き出した。


 そうして、すっかり日が暮れて雨も降り始め、もはや適当に歩いているのでは、と思えるくらいに歩いたころ。

 ミソギは最近の流行りのキャラクターのキーホルダーがつけられている、黒色の傘を差した男に向かって歩き始めた。

 その男は歩きながらも、傘の下でスマホを弄っているようだ。

 男よりもやや早い速度で歩みを進めるミソギは、自身のスマホの通知音を無視してその男にどんどん近づいていく。

 そして遂に、軽く伸ばせばすぐに手が触れられる近さになったとき。

 ミソギは、片手で入念にフードを被りなおしてから傘で男から顔を隠し、たった一言を呟いた。


「浮気、されてましたよ」


 瞠目。

 その表現が適切だろう顔で、スマホから顔を上げてミソギを傘越しに見つめる男。

 しかし、男の様子をものとせずにミソギは、写真を全てそれとなく落としておいてから何事もなかったかのように横を通り過ぎる。


 待ってくれ、という声を拾っても。

 パシャン、と後ろで水たまりに何かが跳ねた音がしても。

 ザァーザァーと降っている雨に紛れて慟哭が聞こえても。


 そのまま、通り過ぎる。


 男から離れ、人目を避けるように急ぎ足で路地裏へと歩みを進める。

 人の声が一切聞こえなくなってようやく、ミソギは歩みを止めて眠そうに小さくあくびをした。


 もう既に、喫茶店を後にしてから三時間以上経っている。

 夏は冬と比べて日の落ちる時間が遅いとはいえ、目の下に隈ができているくらいのミソギには暗さはかなり応える。

 自信の顔を見ることはしないが、気を抜くと寝てしまいそうなほど、眠たそうにしているだろう。

 だが、まだやるべきことがある。

 ミソギは自身の頬をかなり強めにつねった。

 それによって痛みに顔をしかめたものの、眠気は覚めた。

 またミソギは路地裏の奥へ、奥へと向かい始めた。


 遂に、街灯が一つも無くなって辺りは暗闇が支配するようになった。

 まぁそんなの少しも気にならない。

 胸の中で呟いたミソギ。

 歩調には迷いがなく、まるで決められた導線を歩いているかのようだ。

 そうして進んでいった先でようやく、ミソギは歩くのを止めた。

 歩みを止めたミソギの視線の先にあるのは裏口。


「久しぶりだな」


 そう呟きながら、ミソギは黒色のペンキで彩られた頑強な扉を容赦なく、強引に開けた。

 すると、開けた先に出迎えたのは人ではなく複数の銃口だった。


「…大層なお出迎えですね」


 物怖じせずに、そうにこやかに言うミソギに気圧されたのだろうか。

 銃を支える腕が震えるせいで、銃口が僅かに逸れる。

 だが、銃口は依然としてミソギの急所に向けられたままだ。


 一触即発。


 どちらかが動けば、死ぬ。

 そんな空気が流れていた。

 ミソギと相対する男たちは、自分でも分からないうちに息を詰めていたようで。

 苦しくなったのだろう、意識して呼吸を再開した。

 酸素が足りないせいで喘ぐように息をするその姿は、ミソギに陸に打ち上げられた魚を彷彿させる。


 雨が降った後の独特な香りが辺りに漂い始める。

 昏い、全てを飲み込もうとするような、重圧感のある苦しい空気が。

 僅かに降っていた雨が完全に無くなり、ミソギは傘を不要だとでもいうように見るが、畳むことはしない。

 そうしていると、雨上がりの美しい芸術のように、ミソギの持っている濡れそぼった傘から最後の雫が落ちた。

 どちらも相手に何も言わない。

 必要以上に身体を動かさない、させない。


 何分か、否、何時間か経っただろうか。

 向かい合って静かに睨み合っている男たちとミソギを静止する声が鼓膜に響いた。


「辞めろ」


 その一言は、ミソギたちの注意を惹きつけるのに十分すぎるほど冷酷さを孕んでいて。

 お互いが声の主のほうへ見やる。

 ギシギシ、と木造りの床が軋む音が、影が、徐々に近づいてくる。

 裏口に立っている男たちの肢体の隙間から、綺麗に梳かれた黒髪が見えてきた。

 服装も、爪の色も、黒で統一されていて、何処かその人物だけ現実離れした存在に感じる。


「ミソギ」


 軋む音が止まり、直後に紡がれた声が先程よりも近くであるため、オーナーだと確信して、銃口を向けられている状態でミソギは傘を畳む。


「何をしている、下げよ」


 名を呼んだときは幾分か優しかった声音が、また無情さを孕んで男たちに向けられる。


「御意」


 身震いしながらも応じ、素早く銃を下げる男たち。

 そのまま、躊躇なく冷たい床に頭を垂れるのに対し、冷淡な視線を注ぐオーナー。

 傘を畳み終わって顔を向けたミソギは、その状態にも対して反応せず。

 ただ、その状態が普通とでもいうように、日常の一コマのように無感情に眺めるだけだった。


「オーナー、趣味悪いですね」


 ぽつり、とそう零したミソギは眉をひそめる。


「ふっ、そうかえ?」


「…気色悪い」


「ミソギに言われるのは褒め言葉じゃな」


「あっそ」


 床に居る男たちを一瞥もしないでそう吐き捨て、そのままミソギは一回のジャンプで飛び越え、中に入った。


 まるで親子の会話だ。

 だがしかし、オーナーとミソギは一切血が繋がっていない。

 古めかしく話す全身黒を纏った彼女の名前は濡烏。

 まぁこれはコードネームのようなものなのだが、あいにくミソギはその名しか知らない。

 かれこれ二年も一緒に過ごしているというのに。

 オーナーとの出会いは三年前。

 幼少時代から『死』は芸術性があるべきだと考えていたミソギの異常性を見抜き、仲間に引き入れたのだ。

 といっても、仲間らしいことをしたことは無いが。


「で、今回はどんな立証不可能殺人をしたんじゃ?」


 床で這いつくばるようにしていた男たちに裏口を閉めさせ、ミソギと対面する位置に座ったオーナーが、口角を上げて問う。

 その顔は、草食動物を前にして高揚感で舞い上がる肉食動物のそれと同類であった。


「…依頼人に会う途中で、三人の偵察を見ました」


 言葉少なに言うミソギに、それで?と促すような視線が向けられる。


 蛍光灯の灯りがチカチカと点滅し、室内が一瞬暗闇になったり、照らされたり。

 まるで怖い話をしているような気分だ。

 まぁ実際のところはノンフィクションの犯罪の話についてだが。


「知ってるでしょう、今回のこと、全部」


「そうじゃな、だけど…私はミソギから直接訊きたいんだ」


「またファイルに書くんですか?」


 飽きたのだろうか。

 古めかしい言葉遣いを辞め、微笑をたたえるオーナーにミソギは呆れた顔をした。


 ミソギの言った『ファイル』とは、オーナーが個人で作っている事件ファイルのことだ。

『立証不可能犯罪簿』という名前で、オーナーが立派な金庫に入れて保管している。

 ミソギの立証不可能犯罪の手助けをする対価に、こうやって話を聞いて書き、どんどん増えていっている。

 どうやらそれがオーナーの娯楽らしいけれど、理解できない。

 そもそも、普段どんな仕事をしているんだか。

 そう考えてミソギは頭を振る。

 オーナーとはギブアンドテイクの関係だ、詮索は許されない。


「立証不可能犯罪のノンフィクションだなんて…そうそう聞けないからね」


「…まぁいいですけど、急に元の口調に戻るの辞めてくださいよ」


 私だからいいけど他の人だったら喫驚しますよ?と言うミソギ。


 蛍光灯の灯りが安定するようになり、艶笑するオーナーの顔が照らされる。

 はぁ、絶対反省してないなオーナー。

 それに、自分の顔の良さを自覚してるから、たちが悪い、とでもミソギは思っているのだろう。


「まぁ私好みでは無いけれどね」


 小さな声でそう呟くのに、ゴーンゴーン、という鐘が被さってかき消される。


 十二時を告げる鐘だ。

 ミソギたちのような者が、不能者の活動が一番活発となる時刻。

 ここからは不能者の領域。

 暗闇は、容易に人を臆病にさせることができるようになる。

 不能者はそうして甘言で惑わし、堕とす。


 始祖、つまりはミソギの悲願である、『全ての死は美しく』に近づくために。


「そうだね、次から気をつけよう…で、話してくれるかな?」


 こてん、と首を傾げて言うオーナー。

 その仕草も可愛くないって何度言えば分かるんだか、とでも言うようにミソギは額を押さえた。


「はぁ…」


 そういえば、軽犯罪法第二条の『正当な理由がなくて刃物、鉄棒その他人の生命を害し、又は人の身体に重大な害を加えるのに使用されるような器具を隠して携帯していた者』に該当していて、注意したこともあったのに聞いてもらえた試しがなかった。

 まぁオーナーがいつの間にか死刑になってても悲しむことはしないけど。


 そう考えながらも、ミソギは渋々口を開いた。


「仕方ない、今日の立証不可能犯罪はね_」


 ミソギは目を伏せ、自らが直々に動いて彩り、美しい終焉を迎えた『死』を回想した。

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