アイス

惣山沙樹

アイス

 二十五度設定にしているこの寝室はとても快適である。同居――といっても僕が一方的に押しかけているのだが――ともかく同居状態である兄の寝室。今はダブルベットを占領している。

 兄は飲み会。この熱帯夜だ、ビールは進むことだろう。酒に酔うと僕を殴ってくるのが兄の悪い癖だが、もうとっくに諦めており、せめて顔はやめてほしいな、等とうっすら願うくらいだ。

 ごろり、と仰向けになる。真っ白な天井とLEDの照明が僕を見下ろしている。壁掛け時計の秒針の音がやけに大きく聞こえてくる。ちらり、と時計を見る。夜十時十五分。


 ――アイス食べたいな。


 冷凍庫にあったはずだ。僕は断然シンプルなアイスが好き。カップに入ったバニラアイスを確か一昨日買って冷凍庫に入れた。

 しかし、それ以降、冷凍庫を開けていない。果たしてあのアイスはまだあるのだろうか。何しろ、「僕が買った物を食べないで」と口でお願いしても、名前を書いても、わかりにくいような場所に置いても、兄が勝手に食べたことが何度も何度も何度もあるのだ。

 忘れもしない。初めてやられた時だ。季節限定のコンビニのプリンだった。兄はヘラヘラ笑って「また買ってきてやるから」と言ったが、見つからなかったのかそもそも探していないのか、結局買ってきてくれなかった。

 それから、ウニ味のおかきや梨味のチューハイ。ちょっと珍しいものを見つけると兄は抑制できないらしい。「あれ美味かったよ」と悪びれる様子がない。殴りかかったこともあったが、体格では圧倒的に不利なので返り討ちに遭った。


 ――今回は大丈夫なんじゃないか。


 今まで被害を受けたのは変わり種だった。バニラアイスなら兄もスルーしたんじゃないだろうか。ならば、まだ冷凍庫にあるはず。

 しかし、冷凍庫があるキッチンに行こうとすると、まずこのベッドから起き上がらなければならない。そこそこ上等なのだろう、マットレスの寝心地は本当に最高で僕を手放してくれない。

 その誘惑から逃れたら、次は廊下に出て、キッチンと一体化しているリビングに行かねばならないのだが、そちらにはクーラーをかけていない。何歩で到達するだろう。シミュレーションしてみる。

 ベッドをおりて……寝室の扉まで三歩。廊下は七歩くらいか。リビングの扉を開けて、冷凍庫まで五歩。計十五歩。往復三十歩。

 こう考えると大した距離じゃない。汗などかかないだろう。けれど、もしアイスが無かったら。三十歩、無駄に身体を動かすことになる。


 ――アイスはあるのかないのか。ベッドに寝転んだまま、確かめる方法はないだろうか。


 僕はスマホをたぐりよせた。兄からの連絡はない。帰ってくる目安を知りたいから、飲み会が終わったらメッセージの一つくらいは欲しいと口酸っぱく言っているが、それが守られるのは五割程度だ。おそらく酔うとスマホの存在を忘れるのだろう。それでも賭けてみた。


「僕のバニラアイス食べた? 食べてない?」


 そう送った。時刻は夜十時二十分。返信がくればすぐわかるよう、スマホを右手に握って時が過ぎるのを待った。


 ――ああ、食べたいな。アイス。僕のバニラアイス。カチカチになってるから両手で包んで周りを溶かして。スプーンで少しずつすくって。あの濃厚な甘さを考えるだけでもヨダレが出てきた。


 ここまで想像してしまうと、もし無かった場合の絶望感が倍増してしまった。コンビニは近いが、ベッドから離れるのすら億劫なのだ、自分で買いに行くという選択肢はない。そもそも服を着るつもりがない。言い忘れていたが僕は今ボクサーパンツ一枚だ。

 スマホを見た。夜十時二十五分。メッセージを送信してから五分しか経っていない。既読はついていない。僕は続けて文章を打った。


「もし食べたんだったら買ってきて」


 もちろんこの文面を見ることなく帰ってくる可能性も十分ある。帰ってこない可能性もある。路上で泥酔して保護された兄を僕が交番まで迎えに行ったことがあるのだ。

 今考えてもあれは危なかった。僕はなるべく警察官と会いたくないというのに。図体のデカい兄に肩を貸して必死に連れ帰ったのだ。その時のことは兄はあまり記憶にないらしく、ほとほと呆れた。


 ――アイス。アイス食べたい。とろり、ふわり、ひんやり、あまーいの。


 ダメだ。とろけてきたのは僕の脳みそみたいだ。

 そして、夜十時四十五分。メッセージへの返信はないまま、玄関の扉が開く音がした。僕はバッと身を起こして兄が寝室に入ってきてくれるのを待った。


「おう! 瞬! よかった起きてたか! いいもの買ってきた!」


 上機嫌の兄は、小さなビニール袋を見せつけてきた。


「えっ……何?」

「鯛焼き! アツアツだぞ! 今すぐ食おう!」

「ええ……」


 仕方なくリビングに行った。兄は椅子に座り、ゴソゴソと鯛焼きを取り出した。顔は赤いわニタニタしてるわ、この状態の兄に尋ねてもろくな答えが返ってこないと判断、冷凍庫を開けた。


「アイス! あった!」


 すると、兄が言った。


「ほら、早く食えって鯛焼き。せっかく焼きたてなんだから。アイスはいつでも食えるだろ?」

「でも、僕ずっとアイスが食べたくて。今は冷たいものの気分なんだよ」

「ハァ? 人がせっかく買ってきてやったのに? 並んだんだぞ?」

「そんなの知らないよ」

「なんだよその態度。最近お前生意気なんだよ。散々ワガママに付き合ってやってんのにさぁ……」

「あーもうわかったわかった、食べるよ」


 僕は机を挟んで兄の正面に座った。間抜けにポカンと口を開けた鯛焼きに手を伸ばし、かじりつく前に念の為確認した。


「兄さん、これ……つぶあん? こしあん?」

「つぶあん」

「えー、僕、つぶあん食べれるけど苦手なんだよね。なんか鯛焼きの内臓みたいに思えて気持ち悪いんだよ」

「うわっ、そんなこと言うなよ。俺まで気持ち悪くなってきたじゃねぇか。っていうか人は殺しといて内臓は無理ってどういう理屈だよ」

「だから僕は絞殺が趣味なだけで死体損壊の趣味まではないんだよ」

「あーあ、面倒だったなぁ昨日は。慌ててカーシェア取って俺が担いでさぁ……一人だと埋めれないからって俺にやらせるくせにさぁ……」

「ごめんって。食べるからさぁ……うん……買ってきてくれてありがとう……」


 結局、鯛焼きの後にアイスも食べた。

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アイス 惣山沙樹 @saki-souyama

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