「托卵」(2022.12)

 中身だけが変わっていて、外面だけで人か人じゃないかを判断するってものすごく一面的で偏っているではないか、という一石を投じたかった。適切な年齢で適切な愛情を受けて育つことがないまま成長すると、精神的な歪みがあらわれそうだなという部分を「姉妹」を通して描きたくて、書きました。それから、怪獣だからといって「駆除」という立場に立つか、「育てる」「生かす」という立場に立つかで二分すると、人間の汚い部分だったり生に通ずる何かを抉れたりするのかな、と思って。だって、身内が怪獃だと知るなんて、家の裏庭に原子力発電所が建てられるようなもの(比較が違う)ではないにしろ、ちょっと受け入れ難いし、最終的に人間でなくなるとわかった上でそれでも「姉」として認識できるのか、あんなに嫌いだった姉に何か別の感情を抱いてしまうのか(情けとか悲哀みたいな)、それらの現実を一切心を動かさずに見ることができるのかっていう。取り違えられてる、とか血が繋がってないとかとは違って、完全に別の個体だったっていうのは、なんかばつの悪い思いがしますよね。じゃあ、生まれる順番が逆だったら良かったのか?  姉の代わりを私が怪獣になってできたら、母から愛されたのか? そんなことは誰にも分からないし、でももしそうだったらとしたら……なんてことを考えながらも生きるしかないっていう。そんな非情さが、怪談に街を潰される光景をただ眺めることしかできない人間に似てるなと。


 別角度からの私なりの「怪獣」のアンサーなので、あくまで要素としてしか楽しめないかもしれません。というのも、怪獣を出す場合、それは「いいぞもっとやれ」という人間の破壊衝動のメタファーになったりもするので、「生物」として対等に扱う怪獃小説はたぶん異色なんですよね……。


 もう一つ。これが一番のテーマなのですが。ヤバい人として描いたみぃちゃんへの学校側の対応は、両親がどこまで話を通しているかは分かりませんが、「合理的配慮」って何? という問題提起でもあります。どこまでの問題行動を許容して、どのような罰則を規定するのか、そしてその責任を親がどこまで負うのか。「この子はちょっと違うから……」で済ませていいような問題でないと思っているし、それは大人側からだけで述べている訳でなく、子どもにとっても周りとのズレを認識することが迫られる重要な時期であって。ずっとはみ出したままの人間(不揃いな足(2022.6)の「わたし」みたく)を、「取り残さない社会」なんて本当につくれると思っているのか、と言いたくなったのでそれも含めて詰め込みました。


 第二回怪獣小説大賞で銀賞を頂きました。ありがとうございました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る