不変の結末

平城 司

柏木

 いつもと変わらない朝。柏木かしわぎは万年床から体を起こし、大きく酸素を体に取り込んで、はああと重たい息を吐き出した。

 体を大きく伸ばしつつ、階段を下りる。一段、一段ごとにぎしぎしと大きく鳴るこの階段が嫌になる。朝から耳障りなのだ。昔はこんな風に鳴らなかったのに。

 洗面所に向かい、顔を洗う。髭はマスクで隠れるからいいかと、そのままリビングへ向かった。

 濃い茶色のテーブルの上には半熟の目玉焼きとこんがり焼けたベーコンが二枚、そして茹でたブロッコリーにマヨネーズをかけられた一皿。ご飯茶碗大盛り一杯。わかめと豆腐の味噌汁が一杯置かれている。いつもの食事だ。

「おはよう、ゆうちゃん」

 母がいつもの挨拶をする。いつもの笑顔だ。昔は朝からバタバタして「早く支度しなさい!」と声を荒げることもあったような気もするが。まあ、昔の話だからなと柏木は食卓につく。

「なあ、母ちゃん」

「なに?」

 母が食い気味に返事をする。

「この家さ、古くなったしリフォームしようぜ。階段がうるさすぎる」

「そう、かしら?」

「そうだろ。壁だって黄ばんでるし、床も傷が目立つしさ」

「そうねえ……。ゆうちゃんがそう言うなら、そうしようかしら」

 その返事に満足して、柏木はいつもの味を口に放り込んだ。

 さっさと作業着に着替え、財布とスマホ、キーケースをポケットにねじ込む。

「今日もお仕事頑張ってね」

 玄関先。母が笑顔で言う。これもいつものことだ。柏木はガレージに向かい軽自動車に乗り込んだ。


 車で片道三十分のクリーニング工場。そこが柏木の職場だ。長く勤めている人が少数で、ほとんどが短期・単発バイトばかり。柏木もその一人である。

 毎日、単発の仕事を探すアプリ『フリーワーカースタイル』から、この工場が出している求人に応募している。

 使い始めた時は家からもっと近い単発の仕事があり、お試し感覚で色々な所で働いた。時給は微妙でも働きやすい職場もあったし、可愛らしい女の子が働いていてそれだけで癒されるような職場もあった。しかし、良い仕事は減っていく。その仕事をしたいと思っても先着順だったりとか、その職場が直接人材を雇用して単発バイトを依頼することがなくなったりとか。そんな事情をアプリの運営会社から説明された。

 そんなある日、柏木にアプリの運営会社から連絡がきた。正直きつい仕事場だが、給料良いと案内されたのがこの工場だ。

 確かにきつい。熱を発する機械が多い工場内では、空調機などあってないようなもの。休憩中に一歩外に出れば、どれだけ強い日が差していても「こっちの方がマシ」と思えるほどの空間。中には無理して熱中症になる人間もいるような劣悪な環境。だからこそ時給が良い。それだけで柏木は我慢できた。

「ちょっと、柏木さん」

 自分を呼ぶ女の声にうんざりしつつ振り返る。そこにはこの工場の『お局』である宮崎みやざきが立っていた。暑さは我慢できる。しかし柏木は、この女だけは気に入らなかった。シミと小皺の目立つ顔、鋭い目、眉間にはいつも皺を寄せている。

「この前も言いましたよね? これを使う時は――」

 宮崎はそう言って、柏木が今使おうとしていたプレス機の使い方をねちっこく説明する。しつこく、何度も何度も。他の連中の「あー、またか」という視線が集中するのを感じた。しかし、彼らは宮崎のお局ムーブを見て見ぬふりをして仕事を続ける。

「わかりました?」

 それ前も聞きましたけど、という言葉を飲みこむ。

 最初からそうだ。上から目線で説明をしてきて、何かにつけて難癖をつけてくる。他の連中とやってることは変わらないのに。

 その顔面にアイロンをかけてやれば、眉間の皺だけじゃなくついでに小皺も綺麗になって今よりマシな見た目になるかもしれない。そんなことを考えていると、宮崎の表情が険しくなっていく。

「わかってるならちゃんと返事を」

「宮崎さん!」

 宮崎の言葉を遮ったのは若い男だった。その男は俺と同じ時期に、同じアプリからこの工場に応募してきて、週三回くらいは出勤している。名前は知らない。

「ちょっといいですか?」

「え、ええ」

 その男に声をかけられると、眉間のしわがやや浅くなる。若い男が相手となるとデレデレするのも気持ち悪い。

 男と共に俺の元から去って行く宮崎。名も知らぬ若者に感謝しつつ、柏木は皺だらけのシーツに宮崎の顔を張り付けるイメージをしてから大型プレス機にかけた。


 仕事を終え車に乗り込む。時刻は十八時過ぎ。まだまだ明るい。

 柏木は帰り道にあるコンビニに寄って酒と適当なつまみ、煙草を購入した。おそらく女子校生であろうアルバイト店員が、たどたどしくレジを打ち袋詰めする姿を見て、困惑する。

 この店員は少なくとも半年くらいはここで働いているはずだ。なのに、いつまで経っても慣れていないようなぎこちない対応。せめて愛想くらい良くすればいいものを、人の目を見ようともしない。店員お決まりの挨拶の声も小さい。

 その店員から差し出されたビニール袋を受け取り、車に乗り込む。帰って酒でも飲んで、明日も仕事だ。すでに工場の出していた求人には応募済だ。

 車を発進させようとした時、ぽんとスマホの通知音が鳴った。画面を見てみればアプリからの通知で運営会社からのメッセージがあるとのことだ。


柏木かしわぎ ゆう 様

 いつもお世話になっております。フリーワーカースタイル事務所です。

 この度、ご応募いただきましたMクリーニング工場についてお知らせです。

 こちらの不手際で、ご応募いただいた段階ですでに定員に達しておりました。

 先着順の決定のため、まことに申し訳ございませんが――』


 そこまで読むと、柏木は助手席にスマホを放り投げた。またか、ため息をつくことしかできない。こういう不手際がこれまで何度あっただろうか。さすがに二度ほど苦情を入れたことはあるが、向こうは謝るばかりでどうにもならなかった。

 まあいい。今日は帰って飲んで、明日は休んでまた仕事に応募すればいい。

 車を発進させ、自宅へと向かう。晩飯は何だろうか。つまみはあるが、酒に合うものだとありがたいが――。

 がんっ、と車が前後に激しく揺れる。少しずれて柏木の体も大きく揺れる。右足がしっかりとブレーキを踏み込んでいた。心臓が激しく脈打つ。

 交差点。青信号。直進するだけのはずだった。横断歩道に差し掛かった時、いきなり人が出てきたのだ。危うく人身事故を引き起こすところだった。

 自分の反射神経に感謝し、ほっとしていたのも束の間。おかしいことに気が付いた。

 逆光でほとんどわからないが、スーツ姿の着ている男であることはわかる。それはともかくとして、その男が横を向いたまま車の前方に立って動かないのだ。驚いてこちらを見るわけでもなければ、慌てて走り抜けるわけでもない。ただそこで、じっとしている。

 柏木の中の違和感はさらに膨れ上がる。この男は、一体どこから出てきた?

 田舎町の交通量に見合わない大きな道路と交差点。歩道も大きくとられている。建物や電柱はそれほど多くないので見通しはかなり良い。人が歩いてくる姿はある程度の距離からなら視認できる。それなのにこの男はまるで、突然横断歩道付近に現れて、それを渡ってきた。そうとしか思えない。

 おかしい。そう思った。

 しかし、柏木の中には違和感よりも膨れ上がっているものがあった。


 ハンドルの中心に思いきり拳を叩きつける。ビーッと、安っぽい警告音が周辺に響き渡った。それでも男は動かない。柏木が再びハンドルの中心を殴りつけると「ビッ」と車が鳴いた。窓を開けて真っ赤になった顔を突き出す。

「てめえ!! いきなり出てきやがって!! 目ぇついてんのか!? さっさとどけろ!!」

 男を罵り、何度もクラクションを鳴らす。しかし、男は動かない。

「轢き殺すぞ!!」

 恫喝にも一切反応しない。柏木の怒りが頂点に達しようとしたその時、男はようやく動き、柏木の方へ向き直った。

 その「顔」を見た瞬間。柏木の息が詰まる。真っ黒だった。逆光だからとか、そういうものではない。何の凹凸もない、それが顔であろうことを示す輪郭があるだけ。肌の色を感じさせるもの部分がなにもない。真っ黒のマネキンが服を着て立っている、という言葉がしっくりくる。

 ここでようやく、怒りよりも違和感や恐怖が柏木の中で勝利した。

 しかし、同時に思ってしまった。幽霊など信じていない。しかし、これは多分そういうやつなんだと。もう一度よくよく観察する。肌の色も目も鼻も口もない。やはり、少なくとも人間ではない。それなら。

 轢いてしまってもいいだろうと。

 柏木の唇の片端がひく、と動く。窓を閉め、ブレーキからアクセルに踏みかえようとした。その時だった。

 柏木の体から力が抜けていく。視界は次第に田舎町の景色の真ん中に黒い人影の立つ下手な水彩画のようにぼやけていった。どうして、なんで、という疑問や恐怖も消えて行く。

 次第にブレーキを強く踏み込んでいた足からゆっくりと力が抜け、それに合わせて車は前進していく。AT車のクリープ現象だ。

 黒い男が車のすぐ近くまで迫っている。

 柏木の頭の中には何もなかった。前方の信号が、赤に変わっていることも。その時だった。

 ガシャーン!

 突然の大きな音。それが柏木の意識と思考が引っ張り戻す。音をした方に目をやれば、助手席側の窓ガラスが盛大に割れていた。その向こう側にはぼさぼさの髪の男が大きな鉢植えを持って立っている。

「そんまま踏み込め!!」

 男は息を荒げながら言った。柏木は反射的に足を踏み込む。車の動きが、止まった。


 目の前に、あの黒い男はいなかった。その代わり、横断歩道には先ほどまでいなかった若い女が立っている。柏木の目前を横断している車道を、大きなトラックが走り抜けていくのが見えた。

「あっぶなあ……。ほんま、死ぬか大怪我するとこやったで自分」

 鉢植えを脇に抱え、息を切らしながら言う男はそのまま横断歩道の方へ歩いていく。そして若い女と何か話した後、再び柏木の方へ戻ってきた。

「ほな、俺らはこれで。窓ガラスは~、まあ死ぬかもしれんかったとこ助けたったんやし。それで堪忍な」

「はあ!?」

 柏木は声を上げる。しかし男は振り返らず、女の方へ歩いていく。助けたかなんだか知らないが、勝手にガラスを割ってそれで済むと思っているのか。車のエンジンを切り、運転席から飛び出して男の後を追った。

「おいこら。人様の車のガラス割って、助けたから許せってそれはないだろ」

「おお、えらいすごんでくるやん? ええ歳してヤンキー気質やね」

 男はへらへらしながら柏木を見下ろす。まるで挑発しているような口調と言葉に、柏木は思わず舌打ちをした。

みさお、やめて」

 二人の険悪な空気を遮ったのは女だった。操と呼ばれたぼさぼさ頭の男は「えー」と不服そうな声を上げる。

 柏木は視線を女に向けた。近くまできて分かったが、美人と呼んで差し支えない容姿をしている。それにスタイルも良い。上から下まで見ていると、女は小さくため息をつく。

「あんたさ。目、ついてる?」

 その言葉に、柏木は女の目を見た。

「は?」

 突然の問いかけに、柏木は間の抜けた声を上げた。

「何も見えてへんやろ。可哀想に」

 女は持っていたバッグの中から財布を取り出し、数枚の一万札を柏木に差し出した。

「これしかないから。あとはコレが言う通り、今は助けたんやからチャラってことで」

 コレ、と言って指差された操という男が「コレってなんや」と自分を指し示す指を下ろさせる。女はそれをまったく気にしていない。柏木も、そのやりとりはどうでも良かった。

 差し出された金に素早く手を伸ばし、躊躇なく受け取る。そして「仕方ねえなあ」とポケットに突っ込んだ。

 女の「目、ついてる?」という言葉に対して、普段なら怒りを露わにしていただろう。しかし今は手に入れた『臨時収入』のおかげでどうでもよくなっていた。

 柏木はそのまま二人に背を向け、車に戻る。エンジンをかけ、そのまま帰路についた。

 走り去る時。女が何か言っていた気がしたが、どうでもよかった。

 今は夏だ。窓ガラスの修理など後回しでいい。明日は仕事がないし、パチンコにでも行こう。柏木の心は踊っていた。



 ――数日後。

『ニュースをお伝えします。昨晩、M県M市内の住宅で柏木友さん四十七歳が遺体となって発見されました。警察は柏木かしわぎ幸子ゆきこ七十六歳を殺人容疑で逮捕しました。』

『柏木幸子容疑者は午前一時ごろ「息子を殺した」と自宅から通報。駆け付けた警察官が、自殺しようとしていた容疑者をその場で取り押さえました。容疑者は「家庭内暴力に耐えかねていた。他人様にも迷惑ばかりかけていた。親として責任を取るために一緒に死のうと思った」と犯行を認める供述をしており――』


『あー、あの人ね。機械の使い方が危なっかしいから、何回も説明してるのに全然言うこと聞いてもらえなくて。他の子たちもハラハラしてたんですよ』


『単発バイト仲間というか、同じアプリ使って来てる人だったんですけど。そのアプリの会社の人から「色んな所で問題起こしてる人だから注意して見ててほしい」って言われました。ベテランさんが注意してる時、かなり目つきやばくて。とっさに仲裁に入ったこともありますよ』


『このコンビニにはよく来るんですけど。私がまだ新人の頃に、さっさとしろ、煙草くらい覚えとけとか、怒鳴られたのが怖くて。機嫌が悪い時はレジに持ってきた商品を放り投げられたりとかもしたので……正直本当に怖かったですね』


『まー、亡くなった方のことをこんな風に言うのは良くないのかもしれないですけど。就業先からのクレームとかNGが多い人でした。こちらとしては使いたくないんですけど、完全に拒否することもできないし。そんな人でも、とりあえず人手としてほしいってところもあるので……』


「小学生の頃は素直な良い子でした」

「でも中学生になってやんちゃな子とつるむようになって」

「そこからは私の言う事も、夫の言う事も聞かず」

「中学を卒業するなり家を飛び出していったと思ったら、何十年経ってふらっと帰って来て。仕事もせず家にいて」

「ようやく仕事を始めたと思ったらすぐ問題を起こして辞めて」

「職場で気に入らないことがあると暴言を吐いたり、暴力を振るったり、若い女の子にセクハラをしたり。いい大人になった息子の代わりに何度頭を下げに行ったかわかりません」

「夫が亡くなると私は一人で……」

「悲しかったです。あの子はきっと色んな人に大なり小なり恨まれていたでしょう。親である私ですら、もう」

「恨みたくないのに。恨んでしまっていた」

「夫が亡くなる前、一度でいいからあの子がスーツを着てしゃんとしてる姿が見たかったと言っていました」

「私も同じ気持ちでした。でも、きっと中学生の頃から私達家族は失敗してしまっていたんでしょう」

「多感な時期にあの子が何を感じていたのか、どう接してあげれば良かったのか、もっと見てあげればよかった」

「私達があの子を見てあげられなかったから、あの子は何も見えなくなった」

「責任は取りました。あとは罪を償うだけです。どうか、死刑にしてください」


 XXXX年XX月XX日 柏木幸子容疑者の供述調書の一部より

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