くだらない勇気・3本目

「つまり、和解を受け入れろ、そう言うんですね?」


 男の言葉は静かだったが、そこに含まれる怒気を隠す気はなさそうだった。


 まだ二十代後半の若い男。きちんとスーツの上下に身を包み、強く握った拳を両膝の上に置いている。ほんの少し、その拳が震えているように見えた。


「ええ、その通りです。和解をお勧めしています」

「どうしてです! あれだけの証拠を提出したのに、今度もまたここでも僕が間違えているかのように言うんですか!」


 男は勤めていた会社を「不当解雇」で訴えていた。


 いわゆる「ブラック」と呼ばれる会社の扱いで心を病み、診断を受けて休職願いを出したのだが、会社が認めず退職をするようにと迫られた。それを断ったら適当な理由を付けて解雇されたので、裁判を起こすことにしたのだ。


 地裁での結果は男の敗訴だった。


 男が揃えた証拠は会社での上司の暴言の数々の録音、偽造されたタイムカード、想像を絶する残業時間。残業代の不正切り上げのためのアプリなど。誰が見てもパワハラ、モラハラと認定される内容には十分だと思われた。

 

「これだけの証拠が揃っていたら、まず負けることはないでしょう」


 弁護士も太鼓判を押してくれた。それほど完璧な証拠だった。あれが通らないのなら、他のどんな裁判もやる必要はないだろうと思うほどの。だがなぜか結果はそういうことになった。


 地方裁判所の敗訴理由にはこう記されていた。


「原告は仕事をさぼりたさに病を装った。被告である会社が詐病さびょうを理由に解雇を通達したのは当然のことと言わざるを得ない」


 ありえない理由だった。男は体調不良でいくつもの病院を受診し、検査し、最後にたどり着いた心療内科でやっと心身の不調による休業を勧めるとの診断書をもらったのだ。体に出ている症状が心から来るもの、そう診断がついてどれほどホッとしたことか。


「症状から見ると恐ろしい病気の可能性がある。もしもそうだったら若いだけに進行が早いかも知れません」


 そう言われて何度も何度も色々な検査をした結果、どこでも、


「異常は認められない、よって治療はできない」


 と言われ、その度に絶望するを繰り返してのことだ。心を安らげる薬を処方してもらい、やっと少し治まったが、今もまだ色々な症状は残っている。


 だがその経過に対しても、


「いくつもの病院を渡り歩いたのは詐病を証明してくれる病院を探すため」


 そんな屁理屈で詐病、つまり仮病だと地方裁判所の判事は判断した。


 信じられなかったが、ただ、そうなりそうな雰囲気を感じたことはあった。


「和解されてはいかがですか」


 地裁でもそう言われたことがあったからだ。


 弁護士によると、これまでならこのような事例、なんの問題もなく男の勝訴だったはずだということだった。


 そして今はここ、高裁で控訴審の途中だ。


「高裁で、きちんと会社の非を認めさせてほしいんです」


 男の言い分は最もだった。だがこちらにも色々と事情があると高裁の事務官から弁護士に「ここだけの話で」と説明をされていた。


「たとえ中小企業と言えど負けたら信用をなくし、結果的に体力をなくして倒産する可能性もある。多くの従業員が路頭に迷うのは困る。和解に持っていくように」


 裁判官にそのように「お達し」があり、それで裁判官たちは判決を書くのを嫌がるということだ。もしもどちらが勝ったか判決を出すと、自分の評価に響くというところだろう。


「和解と言っても内容的にはそちらの勝ちのようなものなんですよ」

「だったらちゃんと判決を出してください!」

「そうした場合会社のダメージが大きすぎる、下手をすれがあなたの同僚だった人たちがみんな仕事を失う可能性も出てくるんですよ。それを少し考えてみませんか?」

「それは会社が悪いからじゃないですか!」


 男は一層いきどおる。


 そうなのだ。男の会社は以前にも同じような訴訟を起こされている。男とまた違う地方の支社でのことだが、その時には地裁で和解して裁判は決着していた。

 

「会社は非を認めて解雇を取り下げる、そう言ってるんですよ」

「だったら僕は会社に復帰できるんですね?」


 男の訴訟内容にはそれも含まれていた。


 会社が今までの行いをあらため、解雇を取り消し、そして男を復帰させること。男は間違えたことをしていなかった、そのことを証明してほしかったのだ。


 それから本訴の前に、裁判には年月がかかるので、その間の給与の支給を求めての「仮処分申請」を申し立てていたのだが、そちらは認められて男は毎月会社から今までの給与の平均から割り出した金額を受け取っている。

 そんなことでもないと生活が成り立たない、裁判を続けられないのだから、それは当然の結果と言えた。

 仮処分は認められたのに、どうして本訴ではいつもこうなってしまうのだ。男にはどうしても納得できない。


「それは考えてみればちょっとむずかしいとは思いませんか? 裁判にまでなった会社に戻りたいんですか? 戻って今まで通り仕事を続けられますか?」

「それは会社が態度をあらためて、そして謝罪してくれれば可能だと思います。前の裁判のかたが和解せず、きちんと判決を出してもらっていたら、今度の裁判になるようなことはなかったかも知れない。和解してしまったら、きっと会社は同じことを繰り返しますよ。僕はこれからの人のためにも、この裁判にきちんと決着をつけたいんです」

「もう少し現実的に考えましょう」


 裁判官は男を諭す。


「あなたは勤めて数年です。会社に入ってしばらくは会社は社員を育てるためにお金をかけています。数年ではそれをやっと回収できたかどうか。そんなあなたに仮処分のお金をすでに勤務年数と同じぐらいの年月支払い続けています。これは大した額ですよ? 働いていないあなたに、何百万ものお金を支払っている。それに和解金を足したら、もうそれで会社にかなりのダメージを与えられていると思いませんか?」


 確かに金銭的なことだけを考えるとそうであった。


「もしも裁判に負けたなら、あなたは今まで受け取った金額を全部会社に返却しなければなりません。もしも和解を受け入れないというのなら、残念ですが1個人と数百人の従業員を抱える企業、どちらを助けなければいけないか、説明するまでもないことかと思います」

「それは……」


 男は少し考えて続ける。


「僕を負けさせるということですか?」

「もしもどうしても判決を出さなければならないと、そういう可能性も出てくるということですよ」


 一審の結果を思い出し、男は黙って悔しそうに唇を噛んだ。


「今までの金額と、裁判の費用、それから逆に会社から損害賠償などを請求される可能性もあります」


 それだけではない。弁護士を頼み、裁判を起こすだけの金が男にはなかった。そのために必要だった金を「法テラス」で借りている。裁判が終わったらその支払いもすぐに始まるのだ。


 考えただけで気が遠くなるほどの金額だ。その金を一体どこからどう調達するのか。会社を辞めて、しかも病気の自分にそんな金を貸してくれる宛などない。


「分かりました……」


 男が小さくそう答えた。


「では和解を受け入れていただけますね?」

「僕には分かったんです」


 男が声を大きくして答える。


「僕は会社との戦いには勝てるけど、あなたたち裁判所と戦っても勝てない、負ける。だから受け入れるしかない。そういうことなんでしょう? 裁判所と戦う、つまりそれはあなた方にそう命じているさらに上、お国と戦うということになる。勝てるはずがないじゃないですか。この戦いはどちらが正しいか、それを判断するための戦いではないということです。こんなことがまかり通るなんて、この国はだめになって当然だ!」


 裁判官はそれには答えず、


「理想を掲げて正義を語るのは立派ですが現実を見てください。会社を変えたい、世の中を変えたい、そんなくだらない勇気で自分の一生をだめにする戦いを続ける必要はありません。もう忘れてしまいなさい、あんな会社」

 

 男は悔しい顔で裁判官を睨みつける。今できるのはそれだけだ。


「あなたには他に戦う方法もあるはずです。メディアに訴える、例えば投稿サイトなどというもので実録でもフィクションでもいい、何かを書いて投稿し、広く世間に訴える。そんなこともできるんです。無謀な勇気は捨て、今は会社から少しでも多く払わせることです。そのお手伝いなら私たちはできます、いいですね」


 裁判官はそう言うと黙って男の返事を待った。


「そうですね……」


 男は小さく答える。


「正義が正義として通らず、強い者が間違ったことを力でもって下に押し付ける。そんな社会の中で戦うには、真っ当な勇気では太刀打ちできない、そういうことが僕にもやっと分かりました」


 男はきっぱりそう言って、くだらないと言われた自分の勇気の次の方向性を考えていた。




※「カクヨム」の「クロノヒョウさんの自主企画・2000文字以内でお題に挑戦」の「第15回お題・くだらない勇気」の参加作品です。

同タイトル4本のうちの3本目で2022年7月14日発表作品になります。


ストーリーはそのままですが、多少の加筆修正をしてあります。


元の作品は以下になります。

よろしければ読み比べてみてください。


https://kakuyomu.jp/works/16817139556697380531/episodes/16817139556699438942

 


 


 





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