第10話 熊とゴリラ


 ――ゴリラが衝撃を受けて5分後。


 時刻【9時20分】


 身長、体重測定を終えたゴリラは絵に描いたように落ち込んでいた。


 頭を下げて背中を丸くしている意気消沈ゴリラだ。


「……ウホゥ」


 だが、次の検査の為、処置スペースの前に居た。


「ウホ……」


 すでに右手には遮眼子を持っている。


 ここまで彼が落ち込むのは、別に自身がゴリラだということを嘆いているわけではない。


 ただ、自分の過ちを気付くことができなかったこと、それがなんとも言えなかったのだ。


 1人の社会人として、都会のジャングルに住まうインテリゴリラとして。

 

 そんな彼に後ろから話し掛ける人物が居た。


「あの……大丈夫ですか、主任?」


 それは部下の犬嶋犬太。


 犬太の身長と体重の測定を終えて、処置スペースにきていた。


「ウホウホ……」

「まじっすか……確かにそれは凹みますね」

「ウホ……」

「あ、いやでも、僕だってありますよ? 好きなYouTuberのショート動画で流れてくる物に飛びついて失敗したりとか」

「ウホウホ?」

「はい、よくあります! って、誇れたものじゃないですけど……あはは」

「ウホ、ウホウホ?」

「そうです。僕もやらかすんですから、誰でもすることっすよ」

「ウホウホ!」

「はい! テキトーでいきましょう! たまには!」


 この一言のおかげでゴリラは少し元気を取り戻した。

 

「ウホウホ!」


 しょぼくれた表情から、柔らかい表情になっていく。


「いえいえっすよ!」


 その表情を見て、犬太も嬉しそうにしていた。



 ――2人の間にあたたかな雰囲気が漂う中。



 長机に着く男性看護師が口を開いた。


「あの……ゴリラさん、犬嶋さん。検査を始めたいのですが――」

「ウ、ウホ!」


 看護師の言葉に頭を下げるゴリラ。


 後ろに並んでいた犬太もそれに続く。


「す、すみません!」


 2人の丁寧なお辞儀を前にして、男性看護師は笑みを浮かべている。


「あ、いえ! 大丈夫ですよ。ですが――」


 そう言うと彼らの後方へと視線を向けた。


「――まだ検査を待たれている方々がいらっしゃいますので」


 そこには他の工程管理の仲間たちが並んでいる。


 彼らは、ゴリラと犬太がやり取りとしている間に身長と体重の測定を終えていたのだ。


 その集団の先頭にいる男性社員が口を開く。


「ゴリラ主任、犬太。早く終えて仕事に戻らないといけませんよ。雉島課長代理はバリウム飲んでグロッキー状態確定なんですからね」


 この男性は工程管理課でゴリラと双璧をなすもう1人の主任。


 社内の制度を使って製造から異動してきた人物だ。


 外見は身長175cmですらっとした容姿と端正な顔立ち。センター分けのサラサラな髪質が特徴の33歳。


 名を佐久間熊さくまゆうという。


 趣味は、相撲観戦と利きはちみつ。


 熊の言う通り、雉島課長代理はバリウム検査の為、いち早く健康管理室に訪れて検診車両へと向かっていた。


 だから、この場所にはいなかったのだ。


 とは言うものの、課長代理がその検査を終えてすぐ戻ってこないことは工程管理課の常識。


 それは検査後に飲む下剤の効果もあり、トイレとお友達状態になってしまうから。


 ゴリラもこの事を忘れていたわけではなかった。


 しかし、推しが推してきたアプリが。


 自分に対応していなかった事実が。


 思いやりのある彼を狂わせてしまっていたのだ。


「ウホウホ! ウホウホ!」


 ゴリラは不甲斐ない自分に苛立ち、ドラミングしてしまう。


 犬太と熊以外の工程管理課の仲間たちは、その咆哮と轟音に驚くことなく素早く耳を塞ぐ。


 時を同じくして医師と看護師たちも測定、採血の作業を止めており、その振動で動きそうな物などは動かないように目配せで連携をとり抑えている。


 一方、誰よりもゴリラの近くに居た2人は彼を落ち着かせるべく身振り手振りでアピールしていた。


「しゅ、主任! 落ち着いて下さい!」

「ゴリラ主任、落ち着きを取り戻して下さい!」


 だが、やはりバナナのない2人ではゴリラを正気に戻すことは出来ない。


「ウホ! ウホ! ウホ!」


 ドラミングと咆哮を続けている。


「け、犬太! バナナは?!」

「えっと、すみません! 今は持っていないんです!」

「ですが、あのままでは遮眼子が潰れてしまいます」


 熊主任の言う通り、遮眼子はみるみるうちに形を変えていく。


「そ、そうっすね! くっそぉ! どうしたらいいんだ」

「さっきの口ぶりからすると、どこかにあるのですか?」

「あ、あります! でも、オフィスの鞄の中です」

「オフィス?! そうですか。では、仕方ないですね」


 熊主任は、そう言うと自分の作業服の胸ポケットからキラリと光る何かを取り出して、素早くゴリラの口元へと運んだ。


「……!?」


 バナナではない物が口に入り驚くゴリラ。


 そこにあるのは、透明な小瓶に入った何か。


「佐久間さん……あ、あれは――?!」


 犬太の問い掛けに、熊は少し残念そうな表情を浮かべながらも、淡々と何かの説明をした。


「はちみつです。バナナを漬けた私特製の」


 これは、はちみつ好きの熊がバナナとはちみつの相性を調べて掛け合わせた自作のはちみつ。


 試作回数は、数十回ではきかない熊主任の努力の結晶。


 休みの日に各地の養蜂場に訪れては、その味の傾向を書き留め、本来そこまで好きではないバナナを食べてそれを使用したものだ。


 それが今朝完成したので、健康診断を終えた後に1人で、ひっそりとひとすくい頂こうとしていた。


 だから、少し残念な気持ちになってしまい顔に出てしまっていたのだ。


 そんな熊主任の特製バナナはちみつが口に合ったのか、ゴリラは落ち着きを取り戻していく。


「ウホ……ウホ……ウホゥ」


 そして、口元から空っぽとなった小さな透明な瓶を離してその手に持ち、その瓶を見つめている。


「主任……大丈夫ですか?」


 彼は部下に迷惑をかけてしまったことを申し訳なく思っていた。


 その上、自身の手の中にある瓶の持ち主である熊主任にも嫌な思いさせてしまったのだ。


 心優しきゴリラからすると、何をどう謝っていいのかわからなくなり、大きな体を縮こませて、悲しい表情をしている。


「……ウホウホ」


 そんな彼に周囲も責めることはなく、「誰だって、取り乱すことはありますよ」と口を揃えて励ましていた。


 それでも、ゴリラはなかなか太い首を縦に振ることはせず、目の前にいた犬太と熊主任へと頭を下げている。


「……ウホウホ?」

「いえ、僕は大丈夫ですよ!」

「ウホ……ウホ?」

「佐久間さんですか? 佐久間さんも気にしていませんよ?」

「ええ、確かに少しはショックですが、大袈裟ですよ? また作ればいいことですし」

「……ウホゥ」


 ゴリラは、熊主任がこれを楽しみにしていたことは、わかっていたのだ。


 なので、周囲のあたたかい言葉も、2人の気遣いに溢れたやり取りさえも、受け入れることが出来なかった――。

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