ヘンな男が見えるようになった
わかさひろみ
第1話 ヘンな男が見えるようになった
ある日、ボクはヘンな男が見えるようになった。
それは突発性難聴という病気で二週間入院したときで、そのときボクは中一だった。
前髪を七三分けにして、ふち付き眼鏡をかけた三十歳代くらいの男で、一見どこかの会社の営業マンのように見えた。片手には、百円で買えそうなプラスチックの黒いファイルを大事そうに抱えていた。
どうしてその男を気になったかというと、毎日お見舞いの面会時間外に、病院にいたからだ。はじめはどこかの製薬会社か医療機器メーカーの営業マンだと思った。七三に分けられた前髪はいかにも理屈っぽい、神経質な人間に見えたし、白衣が似合いそうだ。男はいつも、廊下の隅の長椅子に座っていた。
そのころボクは、治療のために一日中点滴をして、テレビも読書もだめで、お医者さんにはただ眠るようにいわれていた。
はじめはなんて幸せな病気だろうと思った。けれど、左耳はずっと耳鳴りがしていて、厚い膜をはったようだったから、早く治してしまいたい気もした。
だからはじめてその男に気づいたのは、トイレに行くのに病室を出たときだった。
男は看護師さんたちにまぎれて廊下の長椅子に座り、黒い百円のファイルをのぞき込んでいた。そのときはただの営業マンにしか見えなかった。
その次にその男を見かけたのも、廊下の長椅子だった。ちょうど夕食の時間帯で、男は携帯電話で話をしていた。
その姿をみつけたとき、その男にいらだちを感じた。そこは、携帯電話を使っていい場所ではなかったからだ。
どうして看護師さんたちは、男を注意しないんだろう。不思議だった。
大人たちは、子どもに正しく携帯電話を使えという。学校では、電話会社や警察の人たちが来て、講習会を受けさせる。使う場所や使う時間を守り、家族の人と使い方を話し合いましょうと話す。でも大人たちは果たして、正しく使えているのだろうか?
このときからその男のことが気になり始めた。
そしてある日、その男が営業マンではないと知ることになった。なんと夜中の病院をうろついていたのだ!
夜十二時くらいだったと思う。その日は夕方から点滴を受けていて、夜中にトイレに行きたくなった。夜の病院は気味が悪いから、トイレなんかに行きたくない。朝までがまんして寝ようと目を閉じていたけれど、いよいよがまんできなくなってきた。
しぶしぶ起きて廊下に出ると、ずっと先のナースステーションのところだけが明るかった。トイレは右に曲がった廊下の先にある。廊下は真っ暗ではなく、ぼんやりと明るいけれど、古い建物だけにやっぱり薄気味が悪い。
この病院は、旧棟と新棟でできている。そして両棟は三階と、ボクのいる病室の五階でつながっていた。旧棟が大きく、外来の患者さんたちは旧棟で診察を受け、新棟は入院専門の病棟になっている。新棟は設備が整っていて、手術室や長期入院の患者さん用の病室があった。
ボクは短期入院だし、手術の必要もないから旧棟の病室に入っていた。
さてどうしよう。ボクは考えた。やっぱり古いトイレは薄気味が悪い。
少し考え、結局新棟のトイレに行くことにした。少し歩くけど、廊下もトイレも明るい。
ゴム製のサンダルでペタペタと歩く。足元を白色の常夜灯が照らす。連絡通路を渡り終えたあたりで、はたり立ち止まった。
どこからか話し声が聞こえる……ような気がした。
首は動かさず、目だけであたりを探ってみる。人がいる気配はない。なんだろう、聞き間違いかな。
いつかみた「本当にあった怪談話」というドラマを思い出してしまった。たしかドラマでは、小さな子どもの幽霊がでていた。その映像を思い出す。
まずい、まずい! 本気で怖くなってきた!
早足でトイレに行き、急いで用を足す。
けれどトイレを出たそのとき、思いもかけず、すぐ横の病室から人が現れたのだ!
「いてっ」
あまりにとつぜんのことでよけられずに、その人とぶつかった。その人の左肩がボクの鼻の頭を直撃した。
「どうぞ、ご検討のほどよろしくお願いします」
その人は病室の誰かに向かって、腰を直角に曲げて一礼した。ボクとぶつかったことには気づいてない。
ボクはあっけにとられてその人を見上げた。
「あっ!」
なんとその人は、あの営業マンの風の男だった。ボクは驚いて声を出す。
ようやく男はボクに気がついた。ボクと男の視線が合う。気まずい空気が流れた。
夜中に病院の関係者以外がいるのはおかしい。明らかに怪しい!
「不審者」という言葉がボクの頭に浮かんだ。早く、警備員の人を呼ばなくちゃ!
けれど体が動かない。情けないことに、恐怖で固まったまま、動けなかった。
男は男でぽかんと口を開けて、ボクを見つめている。そして次第に、驚きの表情に変わっていった。
どのくらいの時間、お互いに動けないでいただろう。とつぜん、どこかの病室からナースコールが鳴った。ボクたちは我に返ったように、同時にその病室に目を向けた。
お互いの緊張状態が緩む。
廊下の向こうから看護師さんの足音が聞こえてきた。
「……け、警備員さん呼びますよ。」
自分でも情けないくらい小さな声だ。それでも怯えていることに気づかれないよう、男を睨みつけてやった。
男はまだ口をあんぐり開けて、ただ突っ立ったまま動かない。
「こんな夜遅く、病院でなにしてるんですか?」
たたみかけるようにその男にいった。すると男は意外なことをいい出した。
「もしかして……ワタシに話しかけているのかな?」
男は本当に驚いた様子で、ボクにトンチンカンな質問をする。当たり前じゃないか、いまここに他の人はいないんだから。
ボクはうなずく。
男は一歩後ずさりして、明らかに狼狽しているようだ。左手に持っていた百円のファイルから、書類をばさりと落とす。落とした書類の音が大きく廊下に響き、その音にまた男は慌てた。どこまで小心者なんだろう。
ボクはまだ中一だけど、この不法侵入男より優位な立場にいる気分になった。そしてその余裕からか、落ちた書類を拾ってあげることにした。不法侵入男だが、さっきの丁寧なおじぎと、いまのあわてかたを見て、悪いやつには見えなかったから。
「あっ、ありがとう」
想像した通り、男は素直によろこんでくれた。拾った書類を床でトントンとまとめて手渡すと、男は黒いファイルに大切そうにはさんだ。書類には人の名前や生年月日、病名が表にまとめられていた。やっぱり病院の関係者なのだろうか。
「ねぇ、今晩のことは内緒にしてくれないかな?」
ボクは少し考えてから
「別にいいけど、ここで何をしてたの?」
と率直な疑問をぶつけた。内緒にしてもいいけど、やっぱり理由は知りたい。すると男はパラパラと、黒いファイルをめくり始めた。
「キミ、名前は? 年はいくつ?」
「ボクの質問に答えるほうが先だよ」
「中学生くらい? 十三とか、十四歳くらいかな。男子中学生なんてのっていたかな……」
質問を全く無視して、ブツブツと独り言をいう。その様子はどこか焦っているようにも見えた。
「朝日だよ。朝日昇(しょう)」
「朝日くん……おかしいな、のってない。困ったな……いや、のってないほうがいいんだけど、でもどうしてだろう」
男のいっている意味がさっぱりわからない。この人は何のことを言っているんだろう?
「ね、とにかくさ、内緒にしてくれないかな」
なんとなく、このまま話をうやむやにしてしまいそうな気がする。子どもだと思って甘く見ているんだ。
「それ入院患者の名簿? それならのっているはずだよ、一週間前から突発性難聴で入院してるんだから。」
「難聴? そりゃおかしい! 難聴でこの名簿にのるはずはない。キミ、なにか他に持病を持っているだろう?」
「……ないよ。初めての入院だし。花粉症でもない」
これはボクの自慢だ。
男が不思議そうに顔を見つめてくる。まるで健康じゃないほうがいいみたいだ。
「……キミは死亡予定者じゃない。だけど、ワタシが見えている……こんなことって……どうすればいいんだ?」
死亡予定者?
そのとき、再びどこかの病室からナースコールが鳴る。パタパタと看護師さんの足音が廊下に響く。
「と、とにかく今晩のところは、これで。」
「ちょっと待ってよ、絶対今度理由を聞かせてよ」
男は一瞬考え、深くうなずく。
廊下の向こうから看護師さんの姿が見えた。ボクが看護師さんのほうに気を取られているうちに、気づくと男は姿を消していた。静かな暗闇が、廊下の奥まで続いているだけだ。
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