猫が喋りかけてくるお話
夜海ルネ
第1話
茹だるような夏の暑さに僕は額の汗を拭いながら歩いていた。もうすぐ夏休みが始まるけど、毎日毎日こんな暑さで登校するのも一苦労だ。
朝の人通り少ない住宅街の通路を歩いていると、不意に塀の上で猫を見つけた。その猫は案外肝がすわっているのかどしりと構えてこちらを見ている。
ちょっとくらい触っても大丈夫かな、と僕はおそるおそる、猫の頭に手を伸ばした。その少し硬そうな毛に指先が触れそうになった時。
「あーあ、塀の上に逃げて正解だったわ。小さい子供が毎日執拗に撫でくりまわすものだから、困っていたのよねぇ」
僕は思わずぴたりと手を止めた。え? とあたりを見回すがやはり誰もいない。
ていうか「塀の上」って言ってなかったか……?
「あら、あなたもしかして、私の声が聞こえるの?」
「ひっ」
猫がじっとこちらを見ている。こんなことが、あっていいんだろうか。
「ぼ、僕に言ってます……?」
自分の顔を指差しながら、恐る恐るつぶやいた。
「そうよ、あなた。私の声が聞こえるのよね?」
僕は怖くなって、声も出せずに頭を上下させた。猫は確かに喋っているけど、口を開いたりはしていない。僕の脳内に直接語りかけでもしているのか。
「ちょうどいいわ。少しお使いを頼まれてくれない?」
「お使い……?」
「そこ、あなたの足元に何か落ちているでしょう」
猫は視線も動かさずに言う。僕の足元を見てみると、そこには何やら布が落ちていた。拾ってみると、可愛らしいデザインのハンカチだった。
「先ほどここを通った少女が落としていったの。あなたと似たような服を着ていたから、知り合いじゃないかと思って。その子に届けてはくれないかしら」
正直似たような制服なんてよくある。同じ学校の生徒とは限らないし、そうだったとしても同じ学年やクラスである可能性は限りなく低く、探し出すのは困難極まるだろう。
だけど、よりによって頼んできたのは日本語で話しかけてくる猫だ。神の使いだとしたらどうしよう。僕の善意を確かめていたら? もし僕が断ればきっと、地獄に落とされてしまうだろう。
「分かりました、届けます」
「そう、ありがとう」
猫は表情ひとつ変えないが、声色はホッとしたような感じだった。不思議だ。
「少女は確か長い黒髪と青い目を持っていた。この特徴だけで分かるかしら」
「やれるだけ、やってみます」
不思議な猫とはその場で別れ、僕は学校に向かった。
教室に入りとりあえず席に着く。隣の席には既に人が座っていた。長い黒髪に青い目を持つ少女——ん?
「あの……これ、もしかして」
カバンからハンカチを取り出して彼女に話しかける。彼女はこちらを見て、……少し恥ずかしそうなというか、目を泳がせたりして後ろめたそうな表情をした。
「ありがとう」
僕はハッとした。この声を僕はまさに、今朝聞いたからだ。
「回りくどいことをしてごめんなさい。でも私……きっかけが欲しかったの。夏休みが、始まる前に」
それは巧妙な罠だった。教室に風が吹き込んで、濃い夏の匂いがした。
猫が喋りかけてくるお話 夜海ルネ @yoru_hoshizaki
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