第3話 おっちゃん、日本の人やろ?

 目覚めたとき、空には二つの月が昇っていた。

“飲み屋のネオンか…? いや、赤と、青の月? 紫色の空…?”

 二つの月が作り出すグラデーションの美しさに、しばし目を奪われたが、その空に黒い縁取りがあることに気付いた。


 よく見ると、それは木々の陰であり、ここは森の中の、少し開けた場所であることが分かった。

 ついさっきまで街中に居たはずなのに、気が付けば森の中で、草の上に大の字とは。

 これは何かの冗談なのか?


 起き上がろうとした俺は、黒い塊が胸の上に載っていることに気付いた。

 危険な動物なら頸を噛んで来そうだが、その気配はないし、もぞもぞ動いているが大して重くはない。


「…なんだこりゃ?」

 疑問を口に出したとたん、黒い塊がぐるんと動き、顔が現れた。

「うわ」

 思わず叫んでしまった。黒い塊に見えたものは、つばの広いトンガリ帽子と、黒い頭髪、黒い外套が一塊に見えたものだった。


 顔が現れてみれば、それは童話に出てくる魔法使いのような姿の人物である。

 帽子のトンガリ部分は、中ほどで“くたっ”と折れていて、まさに童話に出てくる魔法使いだ。


 ちなみに俺は、結構最近まで“中折れ帽”というのは、この魔法使いの帽子のことだと思っていた。

 言葉通り中ほどで折れているから、間違いではないだろう。

 ない筈だ。


 話を戻すが、童話と違ったのは、中身がリンゴを持った老婆ではなく、大きな目が印象的な少女だったことである。


「目ぇ覚ましたな、おっちゃん!」

 なんと関西弁だ。


 街なかで倒れて、関西少女に助けられたか。

 などと考えていると、なぜだか分からないが、関西少女の眼に、みるみる涙が満ちてきた。


「おっちゃん、日本の人やろ? なぁ、そうなんやろ?」

 少女は、飼い主を見つけた犬のように、俺に顔を寄せてきた。

「あ…?」

「なぁて! 日本人なんやろ?」

 涙なのか希望の光なのか、目をキラキラさせながら、俺に詰め寄る。


「…そう」

 なにを訊ねられているのかは分かるほどに目は覚めたが、なぜ訊ねられているのかは未だ分からなかった。

 少女の剣幕に、タジタジしながら俺は答えた。

「…そうだ」


「…やったぁ! ようやっと来よったぁ!」

 少女は、弾けるように両手を挙げ、しばしの硬直の後、掲げた手をそのままに、ゆっくりと俺の胸に倒れこんだ。


 そのまま動かなくなる。


「…お、おい?」

 異変に気がつき、俺は慌てて身を起こそうとしたが、金縛りにかかったように身体が動かない。頭の中もグニャグニャドロドロだ。

 芋虫が蛹になったとき、一旦中身がクリーム状になったりするが、あいつらもこんな気分なのではないかと思ったりする。


 少女はと言えば、穏やかな寝息を立てていた。

「…なんなんだ? この子、俺が日本人だったらなんだって?」

 視線を上げる。

「それにあの月、あの空。気を失う前は街なかにいたはずなのに、なんで森の中にいるんだ?」

 分かるものがひとつもないのである。


 胸の上で眠る、小柄な少女の顔を覗き込んだ。

月明かりに照らされた少女は、俺が仕えていた令嬢ほどではないものの、整った顔をしていた。

 十代に見えるが、詳しい歳はわからない。

 女の歳など、知りたければ聞けばいい思っていた。

 以前、相棒にそう言ったところ、朴念仁と呼ばれて笑われた。


「まぁ、この子が眼を覚ませば全部わかるか…」

 未だに頭の中は、かき混ぜられたように混沌状態で、色々考えることが億劫だ。それほど重くはなかったし、だいいち暖かいので。俺は少女を胸の上に載せたまま、再び目を閉じた。

 

 眼を覚ますと、胸の上の少女は居なくなっていた。


 周囲は既に明るくなっており、漂う白い靄に光の筋が射して、ペールギュントの“朝”が似合いそうな、いかにも森の朝といった風情である。

 公園の木立が森に見えたのかも、などと思っていたが、木立程度でこんな靄は出ないだろう。ここはどう見ても本物の森だ。


 夢ではない証拠に、少女がいないことを除き状況は昨晩のままなので、そこだけが夢だったとは考えられない。


 緊急性がない場合は、いきなり動いてはいけない。

仰臥したまま身体のあちこちを順番に動かして、異常がないかどうか確かめる。

幸い、身体は昨夜の状態から脱したようで、問題なく動かせるようになっていた。


「おいおい、俺を待っていたとか言ってなかったか…?」

 独語しながら起き上がった俺は、辺りを見回して少女の姿を求めた。


 今の俺には、自分の身に起こったことがなにひとつ分かっていない。

 訳知りらしき彼女だけが頼りなので、居なくなっては困るのだが、名前を知らないので呼ぶこともできない。


 俺のものではない荷物が近くに置かれていたが、状況から考えて、彼女のものと考えて間違いない。どうやら彼女は、ちょっと離れただけのようなので、少し安心した。


 俺が倒れていたのは大きな岩の陰だったが、その岩の向こうから、陽が射していることと、水音がしていることに気付いた。

 水音を聞いたせいで喉の渇きを覚えた俺は、音のするほうに歩を進めた。


 岩を回り込むと、太陽に照らされた水辺があった。

「ああ、太陽はひとつなんだな」

 まぶしさに、細い眼を細めながら、昨夜見た二つの月を思い出す。


 明順応した俺が眼を開いたとき、そこには川原と、さらさらと流れる透き通った水があり、その水で身体を洗う少女がいた。

 少女は、突然現れた俺に視線を向けたものの、さして驚きもせず、笑顔のまま長い黒髪を梳っている。


「おっ…」

 絶句。少女と眼が合ったまま、しばし凝視。

 ふと視界の際に、水辺に置かれた帽子と外套を認めた。

 そのときになって初めて、水浴びしているのがあの少女であることに気付き、慌てて顔をそらした。


「おっちゃん、おはようさん!」

 屈託のない笑顔を弾けさせ、大きく手を振る少女。


「す、すまん! かなりじっくり見てしまった!」

 言う必要はないと思われるかも知れぬが、俺は正直に告げた。

 ラッキースケベは、その後の人間関係にとって決してラッキーではない。

 それを認識しておかねば人生を誤るということを、俺は知っているのだ。


「別にかまへんよ? そこで見ててもろた方が安心やし」

 けろりとして少女は言った。


「見てられるか!」

 と言ったものの、既に穴が開くほど見てしまっていた。

「…いや、かなり見てしまったが、これ以上は色々ダメだ。向こうを向いているから、何かあったら叫べ!」

「んはは、わかったぁ」


 胸に載られても呼吸の妨げにならないほど軽かったから、子供だと思っていたのに。

 色々小ぶりであったものの、ちゃんと身体は女の形をしていた。

 あんなのずるいだろ。女の形をしているのは!

 俺は自分の両頬を、音高く平手打ちした。


「あ、朝風呂ってヤツか?」

 視線をそらしたまま、平静を装って言う。

「せやで。明るいうちやないと、夜はバケモンが出るさかいな。今まではずっと、昼間にうっつらうっつらするだけで、夜は起きっぱなしやってん」


「だから、昨晩はいきなり寝てしまったのか?」

「せや。昼間も絶対に安全てわけやないし、こっち来てからずっと寝不足やってんけど、ゆんべはおっちゃんのお陰で、ぐっすり眠れたわ。あんなん久しぶりや。ホンマおおきになぁ」


 自分だって身体が動かない状態だったのだから、昨晩”バケモン”とやらが出なかったのは、ただの幸運だったのだろう。

 ずっと寝不足だったのは可哀想だと思うが、買いかぶられては困る。


「こっち来てからと言ったが、ここは日本ではないのか? ここはどこだ? どうして俺はここに? なにひとつ分からんのだが…」

 横を向いたまま俺は言った。

 視界の外からは、キラキラとまぶしい光が誘ってくる。


「んはは。まぁ慌てんといてーな。なんやろな、髪洗っとかんと魔法の効きが良うない気がするさかい、今は大人しゅう髪洗わして」

 マホウ? 魔法だって? 

「なんと言った? 魔法? ここには魔法なんてものがあるのか?」

「そっからか。そっから説明せんとあかんのか。……まぁそやろなぁ」

 やれやれといった声で答える少女。


「素っ裸でする話でもないし、後にしてや」

 まぁ正論だ。

「あ、ああ。すまん」

 “髪が魔法に影響する”そういうこともあるのか。

 言われてみれば、物語の中の”魔法使い”は、なんとなく髪や髭が長かったような気がした。俺は勉強は嫌いだが、図書室や図書館は割と好きだったのだ。


「おっちゃん、ついでに魚獲るから、ちょっと岩の陰に隠れといて」

「んぉ? おお」

 水浴びのついでに魚を獲る。

 なかなかワイルドな組み合わせで、隠れる理由も分からないが、俺は言われたとおり岩陰に隠れた。


ドゥン!


 水中で起こったと思しき、くぐもった爆発の音。

「なんだ?」

 少女のことが気になって、岩陰から覗こうかと思ったとたん、何かが降ってくる音がした。無意識に頭を手でかばったとき、足元に魚が落ちてきた。


「おっちゃん、もうええで」

 何事もなかったかのような少女の声。


「魚が降ってきたぞ? これは、キミがやったのか?」

 魚の尻尾をつまみ、岩陰から顔を出すと、少女は水に浮いた魚を泳いで集めていた。

 もちろん全裸のままである。


 俺は慌てて顔を引っ込めた。

「どこが“もうええで”なんだ!」

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