ふたりの少女と禁断の森

アールグレイ

第1話

 伊吹の愛車は、小さな赤いコンパクトカーだった。山道に入ると、車はまるでジェットコースターのように、曲がりくねった道を上下に揺られながら進んだ。ガードレールのない断崖絶壁を横目に、雪花は思わずシートベルトを握りしめた。

「ねぇ、伊吹、本当に大丈夫なの? ここ、出るって噂らしいよ」

 不安げに呟く雪花の白い肌は、恐怖で青白くなっていた。肩まで伸びた黒髪が、窓から吹き込む風に揺れている。

 大学生の二人は、伊吹の父の知り合いのログハウスに泊めてもらうことになったのだが、出発前にその知り合いから「出る」という噂を聞かされ、雪花はすっかり怖気づいていた。

「大丈夫だって。幽霊なんているわけないじゃん」

 伊吹はポニーテールを揺らしながらそう言って笑ったが、雪花の不安は拭えないようだった。

 伊吹の車は、人里離れた山道をどんどん進んでいく。周りの景色は、木々が生い茂り、日差しも遮られて薄暗くなっていた。

「うわぁ……本当に何もないところだね」

 雪花は窓の外を見て呟いた。しばらくして、車は目的地のログハウスに到着した。木々に囲まれた大きなログハウスは、確かに雰囲気たっぷりだった。

「ほら、着いたよ。そんなに怖がることないって」

 伊吹はそう言って、トレッキングシューズで軽快に車から降りた。雪花も恐る恐る後を追うが、足元は可愛らしいレースアップブーツだ。

「ちょっと待ってよ、伊吹~」

 慣れない山道に足を取られ、雪花の足取りは心もとない。

 伊吹は、雪花の手を取りながら、ログハウスの前まで来た。

 雪花は、伊吹にいつも助けてもらっていることを改めて実感した。雪花は、伊吹の後ろを行くことが多かった。伊吹は、いつも雪花を引っ張ってくれる存在だ。

 そのことに感謝しながら、ぎゅっと手を握る。

 それに合わせて心地よく手を握り返してくれた。

 それが、雪花にとっては何よりもうれしかった。

 10月半ばの涼しい山の風が、二人を心地よく撫でた。


「わぁ、すごい!本当に映画に出てきそう!」

 ログハウスを目の前にした雪花は、さっきまでの不安を忘れたかのように目を輝かせた。伊吹は満足げに頷き、車のトランクを開けた。

「じゃあ、荷物運び込もうか」

 伊吹はそう言うと、大きなリュックサックを背負い、両手にキャリーバッグを持った。雪花も負けじと、自分のデイバッグとボストンバッグを手に取った。

「重たっ!」

 思わず声が漏れる。普段、運動不足の雪花には、予想以上の重さだった。

「ふふ、大丈夫?手伝おうか?」

 伊吹はからかうように笑ったが、雪花の荷物を一つ持ってくれた。二人は、楽しそうに話しながら、ログハウスへと続く小道を歩いていった。

 ログハウスの中は、木の温もりが感じられる落ち着いた空間だった。

「うわぁ、やっぱり来てよかったかも!」

 雪花は目を輝かせた。しかし、その興奮も束の間、彼女はボストンバッグを開き、持ってきた本を読み始めた。


「…………」


「ねぇ」

 伊吹が雪花に声をかけたが、彼女は読書に集中しているようだった。

「ねえ!」

 伊吹は怒気を含んだ声で叫んだ。それでも雪花は本から目を離さない。

「もう! せっかく来たのに、なんで本なんて読んでるのよ!」

 伊吹は怒りを爆発させた。しかし、それでも雪花は動じない。

「だって、私、本読むの好きなんだもん」

「もう! せっかく来たんだから、探検とかしないの?」

 伊吹は口を尖らせた。雪花がこういうところでマイペースなのには慣れっこだが、それでも、せっかく来たのだからという思いがあった。

「探検なんて子供っぽいよ。それに、本の方が面白いもん」

 雪花はそう言って笑った。伊吹は少し拗ねたように、一人でログハウスの中を歩き回った。

「ねえ、雪花! 温泉すごく大きいよ! 一緒に入る?」

「ねえ、二階もあるよ! 階段すごく急でこわーい」

「うわぁ、鹿のはく製!」

 伊吹は、一人ではしゃぎ回っていた。雪花がマイペースなら伊吹もそうだ。二人ともベクトルが違う自由さを持ちながら、なぜかかみ合っている。

「もう! 集中できないじゃない!」

 雪花は少し怒ったように言った。しかし、伊吹は気にする様子もなく、部屋の中を歩き回る。

「あ、カラオケがある、どれどれ~? 最新曲まで入ってるじゃん!」

 伊吹は嬉しそうにマイクを手に取り、カラオケの機材に電源を付けた。

「ねぇ、一緒に歌おうよ!」

「もう、しょうがないなぁ」

 雪花も、伊吹のペースに流されるように一緒に歌い始めた。

「採点しようよ! 90点取れなかったら一枚脱ぐ!」

「はあ? やるわけないでしょ」

 雪花はため息をついたが、伊吹は勝手に曲を入れた。マイクを手に持ち、楽しそうに歌っていく。その歌声は透き通っていて、まるで天使の歌声のようだ。

「あはは、でも、カラオケもログハウスに来てまでやることなのかな」

 雪花は苦笑いを浮かべる。

「いいじゃない、楽しいんだから。あ、そうだ! 雪花、お風呂入ろうよ、温泉すごい大きかったんだよ!」

 伊吹は目を輝かせて言った。しかし雪花は首を振る。

「え~? まだ本読み終わってないから」

「もう、また本なの?」

 伊吹は不満げに頬を膨らませた。しかし、雪花は気にせず本を読み続ける。伊吹は諦めて一人で風呂に入ることにしたようだ。

「ふん! いいわよ、私一人で入ってくるから」

 伊吹はそう言うと、荷物の中から着替えを取り出し、部屋から出ていった。雪花はその様子を横目で見ながら、再び本を読み始めた。

 しばらくすると、部屋着に着替えた伊吹が戻ってきた。

「いいお湯だった~」

 伊吹は雪花の隣に座ると、彼女の肩に自分の頭をのせた。

 伊吹の髪からはシャンプーのいい匂いがする。雪花は少しドキッとした。

 しかし、伊吹は気にする様子もなく、雪花の手を握る。彼女はいつもこうだ。マイペースで自由奔放で、でもそんな姿が雪花を惹きつけている。

 伊吹は、そのまま目を閉じた。そんな姿につられて、雪花も目を閉じた。二人の静かな時間が流れていく。


 夕方になり、二人は晩御飯の準備を始めた。メニューは、地元の野菜をたっぷり使った鍋だ。

 こういう時は、雪花の方が頼りになる。伊吹は雪花の料理が大好きだった。

「今日はね、地元の道の駅で買った新鮮な野菜をたっぷり使うよ」

 雪花はそう言って、慣れた手つきで野菜を切り始めた。白菜、ネギ、きのこ、人参。色とりどりの野菜が、雪花の包丁さばきでリズミカルに刻まれていく。

「すごいね、雪花。いつも手際がいいなぁ」

 伊吹は感心しながら、鍋に水を張り、コンロに火をつけた。

「伊吹はいつも食べる専門だもんね」

 雪花はふふっと笑った。伊吹は少し照れくさそうに、雪花の横顔を盗み見た。

「でも、伊吹が食器の準備してくれるから助かるよ」

 そう言って、雪花は鍋にだし汁と調味料を加えた。優しい香りが部屋中に広がる。伊吹は、鍋の蓋を開け、中を覗き込んだ。

「わぁ、美味しそう!もうお腹ペコペコだよ」

 伊吹の言葉に、雪花は嬉しそうに微笑んだ。二人は、協力して作り上げた鍋を囲み、温かい食事を楽しむ。

「美味しい!」

 伊吹は鍋を頬張りながら言った。雪花も満足そうに頷いた。


 食後、雪花は備え付けの温泉に入ることにした。伊吹は先に洗い物を済ませておくと言った。

 雪花は一人になると、少し緊張しながら服を脱ぎ始めた。温泉に入るのは久しぶりだ。

 雪花は、湯船にそっと足を入れる。お湯の温度は少し高めだが、心地よい温かさだった。肩まで浸かり、ふぅっとため息をつく。

「気持ちいい……」

 雪花は、その心地よさに身を委ねた。伊吹はまだ洗い物中だろうか? そんなことをぼんやり考える。

 雪花は目を閉じて、ゆっくりとお湯に浸かった。しかし、しばらくすると、窓の外から何やら物音が聞こえてきた。雪花は窓に視線を向ける。外は真っ暗だ。こんな時間に、誰かいるのだろうか? 雪花は少し不安に思いながら、窓に近づいた。

 曇りガラス越しに、人影などがないか確認するが、特に変わった様子はない。気のせいだろうと思い直し、また湯船に深く浸かった。

 しかし、物音はどんどん大きくなっていく。


 バキ、バキ、バキ、バキ。


 木の枝が折れるような音が、連続して聞こえてくる。


 バキ、バキ、バキ、バキ、バキ!


 雪花は恐怖で体が硬直した。窓の外にいるのは、人ではない何かかもしれない。そう思うと、怖くてたまらなかった。

 雪花は怖くなって、すぐに湯船から上がった。

 急いでタオルで体を拭き、服を着直し、脱衣所の窓から外を確認する。誰もいない。雪花はホッとしたが、それでもやはり気味が悪かった。部屋に戻ると、伊吹の姿もあったので安心する。彼女は洗い物を終えて、再びカラオケを始めていた。

「もう、伊吹だったの!? 変な音の正体は!」

 雪花は、湯上りの火照った顔をタオルで拭きながら、伊吹に訴えた。

「変な音?」

 伊吹は首を傾げた。どうやら、彼女には聞こえていなかったようだ。

「えー? 何の音? もしかして、幽霊とか?」

 伊吹はカラオケのリモコンを片手に、面白そうに目を輝かせた。

「もう、ふざけないでよ! 木の枝が折れるような音がしたの。誰かいるんじゃないかって、怖かったんだから!」

 雪花は、伊吹の反応に少しイラッとした。

「えー、でも私、さっきまで洗い物してたし、歌い始めたのついさっきだよ?それに、こんな山奥に誰がいるっていうの?」

 伊吹は首を傾げ、心当たりがない様子だった。

「でも、確かに聞こえたんだもん! 嘘じゃないよ!」

 雪花は食い下がった。

「うーん、じゃあ何だったんだろうね? もしかして、動物とか?」

 伊吹は少し真面目な顔つきになった。

「動物……? でも、あんなに大きな音出す動物なんているのかな?」

 雪花は首を傾げた。二人は顔を見合わせ、しばらくの間、沈黙が流れた。

「この辺でクマが出るって話も聞かないし……」

 伊吹は、窓の外の暗闇を見つめた。雪花も不安げに窓を見るが、特に変わった様子はない。


「じゃあ、外に出て確かめてみる?」

 雪花は、恐る恐る提案した。伊吹は首を横に振る。

「それはやめた方がいいよ。もし本当に誰かいたら危ないし」

 伊吹は冷静に答えた。雪花は少し安心するが、それでもまだ不安だった。

「で、でも、不安で……」

 雪花は、少し涙目になりながら言った。伊吹は困ったように笑う。

「わかったよ、でも、私から絶対にはなれないでね。いざというとき守れないから」

 伊吹は、別に自分が強いわけでもないのに、雪花を守る前提で話を進める。雪花は少し呆れながらも、そんな伊吹の優しさに甘えていた。

「うん、ありがとう」

 雪花は素直にお礼を言う。伊吹は満足そうに微笑んだ。

「じゃあ、ちょっとだけ外に出てみようか。でも、すぐに戻ってくるからね」

 伊吹は、雪花の不安そうな表情を見て、意を決したように言った。二人は、脱衣所から続く勝手口をそっと開けた。

 ひんやりとした夜の空気が、二人の肌を撫でる。辺りは静寂に包まれ、虫の声だけが聞こえてくる。

「ね、誰もいないでしょ?」

 伊吹は、少しホッとしたように言った。しかし、雪花の表情は、サーっと青ざめていく。

「伊吹、足元見て……」

 雪花の震える声が、伊吹の耳に届いた。

「なんなの雪花、冗談やめてよ……」

 伊吹は、恐る恐る雪花の視線の先を見た。

 そこには、巨大な足跡があった。それは、人間のものとは思えないほど大きく、深く地面に刻まれていた。

「嘘……でしょ……」

 伊吹は、思わず息を呑んだ。

 雪花の手の温度が下がっていくのを感じる。それでも、現実感を確かめたくて、伊吹はギュッと雪花の手を握る。雪花はそれに応えるように、弱々しく握り返した。

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