記憶をどこかへ置いてきて

かけふら

前編

 思い出した。日本は東京、より正確に言えば、北緯35度41、東経139度42のどこかである。あの場所からどれほどの角度と距離からは判然としないが、それも少し先の威容に比べれば霧のように消えるものであった。


 少なくとも事前知識を完全に裏切るものであった。その街は、ネオンやアルゴン、LEDの光を浴びていくつかの宝石として成り立っているように感じた。それは確かに今まで見た2次元に収められていたはずである。けれどもこうやって何かを学べたと感じているということは、クオリア論者の補強になるのかもしれない。

「あれ、5番君?」

「あ、3番」

「うん、今思い出せたよ」

「とりあえずどこ行く?」

「任せるよ。歩くだけで学べる気がするし」

 あの場所では「3番」と呼んでいた、彼女の顔にいくつかの可視光が優しく反射してゆく。


 よいしょ、と立ち上がる彼女を待って、夜の街を歩きだした。この光景が自分の人生にとってプラスになるかマイナスになるか分からないが、とかくどちらにとっても一生忘れることはできないものだ。

「見覚えあるね。駅とあっちは歌舞伎町? はー、凄い」

「そうだね。今から本当の俺たちの人生だな」

「邪魔なんてされないよ。1番、2番、4番、6番のためにもね」

「そっか。うん、そうだね」

 「3番」というディストピアのようなものは彼女に付けられた番号だった。

 自分もそうだ。本当の名前、今となっては「5番」以外しっくりくるものはないので前の名前と呼ぶべきだろう、それは覚えていない。自分にとっては珍しく忘れてしまったものだ。

「あれは拷問だったよね。ま、ちょっとだけ感謝しているけど」

「メンタル強くない? あの場所でそれ言えるわけでしょ」

「あの子たちは私たちよりも強かったんだろうね。だから……うん、だから、かもしれないね。私たちは雑草みたいなもんだったから」


 この国について多くのことを知っている。約38万キロ平方メートル、社会保障が手厚く、かつては世界第2位の経済大国であった、そんな国。けれども法的に存在しない「幽霊」に冷たいという意味ではあまり変わらないのだろう。

「5番君、私たちってどうなるのかな」

「野垂れ死にだよ。きっと」

「それは困るな―」

「どうせ死んだと同じ扱いじゃん。しょうがないよ」

「まあ、でしょうね」

 彼女とは今でも正確な場所は分からない、恐らく地下空間で出会った。もう2、3年の付き合いである。私と彼女の共通点は端的にいえば、高度な記憶能力の持ち主であったことだ。



 そのメリットはあまり大きくない。多くの成長過程において恐怖に思うことは当然あるものだが、しかし乗り越えるないし脳内のゴミ箱に捨てることができるものだ。けれども私も彼女もそれができない。辛いことを辛いものとしていつまでも享受し続ける。

 家族はそんな状況に参ってしまったのだろう。ついに私はあの組織に売り払われ、私も彼女もそれまでの記憶は消し去られ、番号として生まれ変わった。



「そういえばここらへんって、私たちと同じような年代の集まる場所あるんでしょ?」

「あー〇〇?」

「そそ。私たちも行かない? どうせそこでしか生きていけないんだし」

「そうだね。ちょっと歩いていこうか」

 私はなんとなくポケットに何か入っているように感じた。中には1万円札が入っている。


 確か、私と彼女があの場所から解放される時、警察にタレこむなよ、と念を押されたついでに貰ったものである。正直安すぎるが、あの場所ではあいつらに従う以外の選択肢は無かった。

「あ、私も持ってるよ。1人当たり1万でどうやって暮らせって話?」

「あいつらは俺たちに死んでほしいんだよ。きっと」

「ま、そんなところか。あんなことできる連中だしね。あ、そうそう。私たちってさ『3番』と『5番』で呼び合いしてるわけじゃん? それってめっちゃ変じゃない?」

「一般論からすればね」

「そうそう。だから名前作ろうよ。あなたと私だけの知ってる名前になるじゃん」

「そう? じゃあ、5番だから五十嵐、とか」

「テキトーじゃない? でも気にいった! じゃ私は三田。みたちゃんって呼んでよ」

「これからもよろしく、みた……ちゃん?」

「うん、よろしくね、五十嵐君」

 100万ドル、と形容されるような、いや電気代からしたら1桁上だろうか、その街で私と彼女は暮らすことにした。悲惨な運命ぐらい分かっていた。けれども私たち2人にはそれしかなかった。できなかった。



 ――あの場所で、あいつらは生成会話AIを目指していたのだと思う。ただその失敗の連続に狂いこう考えたのだろう。「人動なら一番人間に近づくじゃないか」と。あいつらはなまじお金を持っていたから、6人もそういう子どもを集めてきては無限のインプット・アウトプットをさせていた。


 終わりが来たのは突然のことである。もともとプロジェクトは交代制であった。3ペアが作られ、2ペアが働き、1ペアが休む。彼女と私はそのペアの1つだった。他のペアでは恋愛ごっこをしていたぐらい、みんな仲が良かった。

 その1人、2番だった――彼が突然壊れてしまった。ふさぎ込んで、何があってもぶつぶつとしか言えなくなってしまったのだ。メンタル関係は伝染するらしい。退行、果てには未遂など連鎖的にそれが起きてしまい、このプロジェクトは中止が宣言された。



 ――私と彼女はその街を特に当てもなく、ただ失われた「生の記憶」を作るために歩いていた。足を止めたそのスクリーンからどこかのテレビ局のニュースが流れていた。確かそこから色んなものが飛び出してくる演出を記憶したことがある。

「先日、生成AIを利用した会話アプリ、『2ANIA』のサービスが終了いたしました。『2ANIA』はSNS『Elb』の……」

「まさか、こんなところで遭遇するとは思わなかったけど」

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