第122話 プール・パレード 終幕の五
一瞬──
剣聖シンコウは、一瞬だけ、確かに呆けた。
今まさに斬ろうとしていた神にも近い相手。
ようやく刃が届きそうだった、ずっと斬った感触を知りたいと思っていたモノ……
かつてシンコウの目と心を焼いたモノとは
それが、自分が手を降す前に、どこからか湧いて出た謎の存在に、頭を貫かれて消えてしまった。
シンコウは目の前の、つい今しがたまで異界の騎士ルウという神成りがいた場所に顔を向ける。
そこにあるのは煙のような黒い残滓のみで、それさえも、すぐに見えなくなってしまった。
その、呆け、一瞬の隙……
そこを断ち斬らんと迫る、刃が一閃。
「まあ」
完全に隙だらけだったシンコウ、しかし、刃が脚に触れた瞬間、その体は勝手に反応している。
右から来て右脚をふくらはぎの半ばから断とうと振りぬかれた剣。それが触れた瞬間に、剣の起こす風に押される綿毛のごとくふわりと舞いながら回転。短刀と述べるにも長い、異世界剣フラガラッハの左剣をためらいなく投擲した。
通常であればそれで剣を向けられた相手は死ぬ。
しかし剣聖、目の前で楽しみにしていた命に不意に消えられたショックがあり、その反撃まではさすがに万全ではなかった。
加えて、たった今、右方から来て脚を断とうとした者。
シンコウがその才を認めた実力者でもある。
ぱちん、と剣を鞘に納める音が、シンコウの耳に届く。
次撃への備えとしてシンコウが体を向けた先にいたのは……
愛刀を鞘に納め、居合の構えをとる、ウメ。
そのウメの左肩には、シンコウが投げたフラガラッハ左剣が刺さっている。
貫かれぬように、重要な骨に突き刺さらぬように、とっさに回避したのだろう。
重要な場所は避けられていた。貫通してもいない。だが傷は深い。
シンコウは──
忠告することにした。
「今の奇襲で傷の一つもつけられなかった時点で、実力差は理解できたはず。無理はおやめなさい。その状態で居合を使おうものならば、左腕が二度と使い物にならなくなりますよ」
それは心の底からウメの身を気遣っての言葉である。
剣聖シンコウ、
ただ単に興味がない相手には優しいように見えるというだけではなく、未来ある若者を気遣う心もまた、確かにシンコウの中にはあるのだ。
その点で言えば、ウメはまぎれもなく『未来ある若者』であり……
シンコウが殺意を向けるほどの、興味はなかった。
なので真心からの忠告ではあるのだが、ウメは臨戦態勢を解かない。
シンコウは忠告を続ける。
「居合の神髄は右手で振る速度ではなく、左手で鞘を引く速度にあります。その角度、その深さで剣が肩に刺さったまま左手を引けば、あなた自身の動きで刃を食い込ませることになる。ゆえに、生涯で最後の一刀となるでしょう。……このようなところで、剣術使いとしての生命を終えることはありません。大人しく戻り、治療を受けなさい」
「……退け、ません」
ウメの声が途切れがちになったのは、痛みのせい、ではなかった。
これは彼女のいつもの様子だ。
左肩に剣が突き刺さっておきながら、ウメはその弱みを見せない。
驚嘆に値する我慢強さであった。
その様子を、シンコウはかわいらしく感じる。
「忠義、ですか」
「……」
「であれば、この場で氷邑梅雪を殺さぬと約束しましょう。ですから、治療を受けなさい」
この発言に目を見開くのは梅雪であった。
「この俺を……見逃すとぬかすか、剣聖!?」
「時間切れでしょう?」
シンコウが困ったように呟いた次の瞬間……
梅雪の髪と目が元の色に戻り、全身から炎のように立ち上っていた黒い影が消え去る。
効果終了である。
瞬間、梅雪を襲ったのはあまりにも強い気怠さだった。
今すぐその場で倒れて寝こけてしまいたくなるほどの疲労。
最初の襲撃で、ルウの剣によりやられた内臓、神喰の副次効果で治っている。
いったん肉体すべてを
だが、自分のものではない、なおかつ、自分を殺すほどの神威を回し続け、そうしながら戦い続けたがゆえの心身の疲労は半端ではない。
今の梅雪は立っているのもやっとであり……
一方、剣聖シンコウ、なんの疲労もない。
梅雪が『後の行動力』と引き換えに成す神喰、シンコウに使わせれば、効果は同じ、仕組みは最適化され、代償はないという、めちゃくちゃな昇華を果たすのだ。
天才性は恐らく、梅雪もシンコウも同じぐらい。
だが、シンコウは梅雪より年上だ。天才が狂った目的のためにひたすら積み上げてきた年月、その差がそのまま、梅雪とシンコウの技量差になっていた。
しかも、今の会話は梅雪にとって屈辱的かつ、それ以上に衝撃的なものだった。
(こいつ、俺よりも、神威が見えているのか……!?)
神喰の効果終了時間をぴたりと言い当てられた。
最初からここまで見えていたのか、それとも、今の戦いで見えるように進化したのかはわからない。
だが、上を行かれている。そう思い知らされるには充分で……
「氷邑梅雪、今一度打診しましょう。わたくしの直弟子になりなさい」
シンコウの提案は、気合だけで立っている梅雪を揺るがすほど、必要だと心から感じるものだった。
「あなたの不幸は、あなたを指導できる者の不在です。……このたびの戦いを経て、わたくしはあなたへの期待をますます高め、そして、悲しくもなりました。……誰も、あなたを知らない。あなたが何を必要とするかをわかっていない。……いえ。あなたの見ているものがわからないのです」
「……貴様ならそれがわかるとぬかすか、変態女が」
「わかりますとも。わたくし以上に、あなたと同じ景色が見える者など、この大陸のどこにもいないのですから」
「……」
「わたくしに教わり、わたくしを超え、わたくしを殺しなさい。死を望んではおりません。ですが、強くなったあなたを斬りたいとは、ずっと思っているのです。ですから、強くなりなさい。これはあなたのための提案であり、わたくしのための提案でもあります」
梅雪は考える。
ルウをサトコに持っていかれたことは、まあいい。なぜなら、最初からその予定だったからだ。
そもそも今回の立ち回りはすべて、イタコのサトコの手伝いという名目である。
サトコは命懸けで梅雪に仕える者ではない。しかし謝った。ゆえに少しばかりの手伝いをしようと思った。その手伝い……『妖魔との戦い』が大嶽丸に恩を売る結果を生むというメリットのついでではあったが、梅雪は確かにサトコの手伝いを引き受けてやった。ゆえに口に出したことは守る。
なのでルウには『貴様を殺す。だが、それはさんざん使い倒したあとでだがなァ!』という煽りを用意していた。
そして実際、ルウは今ここで殺せた。
剣聖という邪魔が入らずにルウと力比べをしていたころ、確かに超えたと思った。
だが……
剣聖が、それ以上だった。
いや、プールでの再会直後の剣聖であれば、恐らく、ルウを殺せる実力があれば殺せた。
しかし剣聖、戦いの中で成長してしまった。
ゆえに梅雪……
意地と思考の重なった答えを口にする。
「断る」
「あなたにとって、最善の道を敷いたつもりですが」
「その『最善』は、俺の考える『最善』とは異なる」
「意地を張るだけなら、おやめなさい。あなたの人生がもったいない」
意地。
……ないわけがない。
だが、実際問題、剣聖のもとでの修行は、梅雪にとって最善ではないという判断をしているのも事実だ。
シンコウは、梅雪の技を見ただけで盗む。
そしてシンコウのつける修行を受け続ければ、その成長はシンコウの監視下に置かれる。
……確かに、剣士用の氷邑家秘伝剣術を覚えるよりも、
それに、シンコウは梅雪と同じものが見える。それは、理想や目標といった曖昧なものではなく、もっと具体的なもの。すなわち神威だ。
神威が見える者と、見えない者。この二者の間には隔たりがある。
であれば神威が見える前提で修行をつけてくれる師匠は貴重であり、シンコウはそういう役回りが可能であった。
それでも梅雪の結論はこうだ。
「俺は、貴様とは違う道を行く。……生意気にも、俺の将来を値踏みする変態。貴様以上の師匠など、俺はとっくに知っている」
「……氷邑
「愚か者め。……俺にもっとも適した師匠、それは、俺自身だ。実戦の中から学ぶ俺自身こそ、もっとも俺を理解し成長させる者である」
「……」
「ゆえに剣聖、貴様の指導など願い下げだ。師としての才能でこの俺が貴様より劣るとなぜ決めつける? それに……」
梅雪は、神喰効果時間切れとともに消えた、神威による剣を再び編む。
それは道術とさえ言えない簡単な神威操作だった。
だが、今の梅雪は、剣を出すと左腕を維持できない。
神喰は心身のみではなく、神威を流す経路のようなものになんらかの重い疲労を強いるらしい。
シナツの加護もうまく動かないのを感じる。
それでも構わない。
梅雪は、残った右手に出現させた剣をシンコウに向けた。
「貴様は、殺す」
「……挑みかかるならば、対応せざるを得ません。いえ……今のわたくしは、きっと、あなたを逃そうとしたところで、体が勝手に対応してしまうでしょう。これは挑発でもなんでもありません。わたくしに斬りかかれば、あなたは死ぬ。わたくしは、今はまだ、あなたを殺したくはありません」
「そうか。やってみろ」
勝機は──
なかった。
梅雪は理解している。今の自分と剣聖シンコウ。その力の差は歴然だ。
神喰込みで並び、超えることができたはずだった。だが、相手が成長し、また差が開いてしまった。
だがそれは、吐いた殺意を呑む理由にならない。
冷静になれ、冷静になれ、冷静になれ。
屈辱でも呑み込め。今は大人しく剣を納めろ。生き残ってこそ叶うことは数多くある。きっと成長できる──
『理性』が梅雪の中で激しく叫び続ける。
「おやめなさい」
ふらつきながら近付いてくる梅雪へ、シンコウが声を発する。
だが、その身は動いていなかった。
……最初からそうだが、この女には『逃げる』という選択肢がない。
神の光を相手に目を開き続けた女には、生まれつき『逃げる』『避ける』という選択肢が欠如していた。ゆえに、『自分が下がればいい』という発想がない。
ただ、行きたいタイミングで、行きたい場所に行くだけの、生粋の根なし草。
撤退行動は彼女の主観では『この場所にはもう自分が残る理由も価値もない』というだけのものであり、ゆえに生涯で一度たりとも、主観的には『逃げた』という経験がない。
一方で氷邑梅雪もまた、退く選択肢がない。
ただしこれは生まれつきのものではなかった。
神の海さえ浅いと
それは精神での戦いには滅法強い。しかし、決して退いてはなるものかという想いこそが、本来の梅雪を破滅に導いた原因でもある。
道筋は変わった。
しかし今また、氷邑梅雪は破滅への道を歩み続けている。
『中の人』が入ったところで、その運命は結局変わらなかったのか?
氷邑梅雪という存在にはなんら変化がなかったのか?
それは──
「お願い、もうし、あげ、ます」
──否である。
梅雪は、ふらつきながらも決して止まらなかった歩みを止める。
なぜなら……
目の前で。
剣聖を背負うような位置で……
ウメが、床に額をつけていた。
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