第88話 ■■■■■の顕現 四
暗い、『海』の中にいた。
「……は?」
ごぼり、と口から泡が抜けていく。
意味が、わからない。
(は? ……は? は?)
大辺はこの『海』に見覚えがある。
かつて見せられた海だ。帰属を迫る声たちが潜む、暗い暗い、概念上の深海。
遥か下からこみ上げる重圧こそが
よく知っている。
何せ、大辺は巫女なのだから。
幾度も幾度も捧げものとして凌辱された経歴を持つ。
そのたびにこの冷たく深い海に投げ出され、体温と空気を奪われ、無限の苦しみの中、安らぐ方法をささやきかける声を頭蓋の中に反響させ……
しかし、決して『自分』を手放さなかった。
そうしているうちに、自分は『自分』を保ったままいられるようになり、この暗い海の中に沈められることもなくなった。
だというのに、なぜ、今、こんな場所に、自分は、いるのか。
(有り得ない有り得ない有り得ない……! 私は巫女でしょう……私は神の寵愛を受けた特別な存在のはず! だから神は力を貸した! 無限に、私の正気も、私の
混乱しつつ、いつものように自分に都合のいい解釈で原因を考察していると……
ぬるり。
そういう感触が、足首に触った。
視線を下げる。
海の加護を確かに受けている大辺の目は、この暗い海の中でも、自分の足首に絡みつくものを確かに見ることができた。
それは、
海神の、触手だった。
「………………は?」
足首に絡みついた触手は、大辺の体を下へと引き始める。
「……は?」
ごぼ、ごぼ。
現実を受け入れられぬ大辺が間抜けに声をあげるたび、命そのものとも言える空気が、泡になって、遠い水面へとのぼっていく。
彼女はその空気の重要性を認識していなかった。なぜなら、海神が自分の命を奪うわけがないのだ。海神に愛された巫女たる自分は、海という領域において、息切れなど心配する必要がない……
触手が、下から、伸びてくる。
一本や二本ではなかった。
数十さえ超えて、百、いや、千に届こうかというほどの触手が、暗い深海のさらに暗い水底から、大辺に向けて伸びてくる。
「は?」
ごぼり。
触手どもは大辺の四肢に、胴体に、あるいは首にからみつき、その身をどんどん水底へと引いて行く。
意味が、わからない。
一瞬、これもまた神の愛なのかと思った。
何せ海神に愛され、海神がすべてを捧げたくなるような自分だ。だから、こうしているのも、何か新しい力を自分に捧げるための準備なのか──大辺はそのように考えた。
……考えたまま沈んでいけたら、彼女の末期は幸せだったのだろう。
だが、それは、許されなかった。
「どうして」
声が聞こえる。
幼い少女のものだった。
「どうして」
また、幼い少女の声。
ただし、先に聞こえたものとは違う。
「どうして」「どうして」「どうして」「どうして」「どうして」「どうして」「どうして」「どうして」「どうして」「どうして」「どうして」「どうして」「どうして」「どうして」「どうして」「どうして」「どうして」「どうして」「どうして」「どうして」「どうして」「どうして」「どうして」「どうして」
幾重にも重なる声の耳障りさに、大辺は不愉快そうに顔をしかめ、耳を塞ごうとする。
できなかった。
大辺を縛り付ける触手の先端が、少女の手のようになり、大辺の服や肌を、しっかりとつかんでいる。
「…………ごぼっ、ごぼぼぼぼ!」
大辺はその手と声の目的を察した。正体まで、思い当たった。
その手は、大辺が海神に捧げて来た少女たちのものであった。
罪なき少女。無垢なる少女。普通に生きて普通の人生を歩むはずであった少女たち。
それらは少女たち自身が、だいたいは少女の縁者が、それも同じ地域に住んでいる程度の薄い関係性の者が、うっかり大辺の服に泥を跳ねさせたなどの罪を犯し、地域一帯丸ごと報復対象となり、その結果捧げられた少女たちであった。
大辺はこの触手を動かしている『意思』がかつて自分がふみにじり、その狂態を楽しんだ少女たちの成れの果てであり、少女たちは大辺も深海の都に引きずり込もうとしているのだと理解してしまった。
さらに追加の情報が脳裏によぎる。
ここは、『海』。
すべては『海』に帰属する。それはとりもなおさず、『海』の支配者たる海神の力の一部になるということであり、永遠に海神にすべてを捧げ、地上をこの存在の庭へと戻すべく魂までずっとずっと暗く冷たい深海に縛り付けられたまま、海神に隷属する存在になるということであった。
で、あれば。
少女たちの自我ごとき、何人いようが、海神の意のままにならぬはずはなく。
大辺は、気付かされた。
──神がこの身を捧げさせようとしている。
……彼女はずっと、運がよかった。
正気を喪失するべき時に、最小限の喪失しかしなかった。
心を削られる時に、なんだか抵抗に成功してしまった。
普通であれば力のすべてを差し出し、正気も存在も差し出し、その上でさらに代償を支払う必要がある『神の玉体の招来』というものを、何も差し出さずにこなしてしまった。
もしも彼女が気付くきっかけがあるとすれば、それは、玉体そのものを引き出された神が、
だが、彼女はそこのおかしさについて、深く考察をしなかった。
振られなかった
『神は、自分に従属していない』
そもそも神がすべてを差し出し、神のすべてを従えることができるなどというのは思い上がりもいいところだった。
だが、運が良すぎた。ゆえに思い上がりは否定されぬまま──
彼女が海に落ちた瞬間、支払いを踏み倒さんとする愚かな女を、海が捕らえる。
「いばらぎぃ!」
無数の手にたかられ、海中に沈まされながら、大辺は叫ぶ。
口から大量の
「いば、ら、ぎぃ! いま、すぐ、やめッ……!?」
触手が伸びて来て、大辺の口を塞いだ。
絶息する。だが、気絶できない。
そもそもここは、神のさにわ。浮上後ならばともかくとして、ここに来ることができるのは肉体ではなく精神のみである。
精神のみであるから、ただ強く自我を保てば、抜けられる可能性も、もちろんある。だが……
その抵抗判定は、海にかかわった時間が長いほど、失敗しやすくなる。
その結果は──
◆
「ぶはぁ!」
大辺は荒い息をつきながら覚醒する。
体中は水につかったかのようにびっしょりと汗で濡れており、全身がだるくて立っていることもできないほどであった。
岩壁に手をつく。
ここは……ここは、あの洞窟だ。
大辺は、笑う。
「は、はは、ははははははは! 戻った、戻ったぞ……! やはり私は、こんなところで終わるべきじゃない……! 神は私を愛している!」
そこで彼女が語る神はもはや、海神のことではなかった。
運命を定める
彼女が今口にした神の姿や権能をどう想像しているかはともかくとして……
賽を転がす女神について語る者たちは、この女神のとある趣味についてほとんど確信している。
「──おい、お目覚めのところ申し訳ねぇがよぉ」
「へ?」
大辺が目を向ける、声の方向。
そこにいたのは──
「オレに借りたモンを返済する時間だぜ、クソ
イバラキ。
ただし、その手には──
神器、アメノハバキリ。
大辺がここに来てから、決して持たせないようにしていた神器。
見ただけでわかる。あのおぞましさ、あの恐ろしさ。触れることさえしたくない。洞窟の端に打ち捨てたまま決して見ないようにしていた。
一目でわかる。アレは、自分からすべてを根こそぎ奪い取るおぞましきモノ──
……客観的に語らば、だからこそ大辺は、アメノハバキリをどうにかして壊すなり、神器ゆえに破壊は不可能としても、捨てるなりするべきであった。
だが、そうしなかった。
都合の悪いものからは目を逸らす。
それが、大辺という女の生き方ゆえに。
神器のうち、『剣』であるアメノハバキリ。
その効果は、神器三種がすべてそろった時には、衛星から超質量を落とす地点を決めるビーコンであり……
ゲーム
『神関連スキルの無効化』
シナツも、ミカヅチも、ホデミも、この剣の前には加護を失う。
もちろん海神も例外ではない。人が人の手により、人として戦うための剣。それこそがアメノハバキリという神器である。
「あーあ」
梅雪が笑う。
彼の姿は、イバラキの後方にあり、壁に背中でもたれるようにして、大辺の姿を見て、ニヤついていた。
「『海神の信者』というスキルに目覚めさせなければ、助かる目があったやもしれんのになぁ。信者化して支配することに慣れすぎて、心を掴む努力をしようとも思わなかったツケを払うことになったな」
あくまでスキルの無効化ゆえに、スキル芽生えかけの状態ならば、無効化はできないだろう──
梅雪はそういった解釈で話した。
その発言を受けて、大辺は理解する。
あの氷邑は、何かを知っている。
その瞬間、大辺の生存本能が閃きをもたらす。
この場で自分を救える者は、梅雪のみである。ゆえに。
必死の交渉が、始まる。
「お、お前の大事にしている獣人は私が身柄をあずかっている! 私を助ければ居所を教えてやるぞ!」
「ならばなぜ、ここにいない? お前の性格であれば、俺の目の前で甚振る姿を見せたがるはずであろう。だいたい、イバラキにすべての『海』関連の操作権を奪われていた貴様が、どのようにして『自分の力で』身柄を確保する? ……つまらん嘘だな」
「『海』に侵され海魔になった者も、私なら戻せる!」
「ほう! 興味深いな! すでに全員斬り殺していなければ是非とも方法をご教授願いたいところであった!」
「な、あ……!?」
「なんてなァ。薄っぺらい嘘だ。貴様はそのような方法を知らない。そもそも海魔に変じた者が戻る例さえ、この俺が目の前でそうなるまでは知らなかったのだろう? もう少しまともな命乞いはないのか?」
「し、従います……私を、使ってください。きっと、お役に立ちます」
「ほう。であれば、この俺のために命を懸けると?」
「はい! 命を懸けて従います!」
「ほうほう。うーむ。そうだなぁ」
梅雪は目を閉じて考え込む様子を見せ……
それから悪辣に笑った。
「その嘘だけは絶対に俺には通じぬぞ」
「………………な、なんで」
「なあ」イバラキがため息交じりに声を発した。「助けてもらった恩があるから待ってやってるが……もういいか? コイツの口からクソが垂れる様子を見せられても、オレは面白くもなんともねぇよ」
「ひ、氷邑! 氷邑様! 私は──」
「言っただろう?」
梅雪は肩を揺らして笑う。
「助かる目はもうない。まあ、ようするに──貴様の命乞いは自動失敗だ。大人しく死ね、雑魚が」
イバラキの手にした七支刀が振り上げられる。
大辺はその時、海魔を呼び出そうとした。が……
触れることさえ避けた神器アメノハバキリの前に、その抵抗はあまりに無意味。
肩口から両断された女は、最後の最期まで自分の死を受け入れられない顔をしながら、
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