第87話 ■■■■■の顕現 三
(なんで! なんで! なんで!? うまくいかない!?)
客観的事実として、大辺は間違いなく、ここまで最高の
かつてあった『
その境遇でこうして生き残り、ここまで食い下がったこと、紛れもなく望外の幸運である。
巫女とは、そもそも神への捧げものである。
現在、大辺は
それは、触手に少女を差し出して凌辱させるということだ。
かつての大辺は巫女として海神に身を捧げるのが役割であり、そういった暮らしをしていく中で『海』に同化していき、最初黒かった髪は次第に青みがかり、その目は海色に濁って、四角く歪んだ瞳孔を備えるに至った。
通常、こうして捧げられた女は、すぐに『海』に帰属する。
海神に捧げるための行為は正気を奪い尽くすような惨く激しいものであり、たいていの女は正気を保てないのだ。
だが、大辺は自我を保った。
物心ついたころからずっと、彼女の中には、ある一つの確信があった。それが、彼女の正気を保たせたのだ。
すなわち──
(絶対におかしい……私はこんなところで終わるような存在じゃない!)
──生まれつきあった、『自分は特別だ』という気持ち。
すべての苦境はいずれ打破されるべきものであり、すべての敗北はいずれ来る大勝利のための前振りであり……
……いや、そのような細かいことは、すべて後付けだろう。
ずっとずっと、漠然とあったのだ。
(私がこんなに追い詰められるなんて、絶対に間違ってる!)
自分は誰よりもかわいそうで、誰よりも救われるべきだという確信。
大辺のこの気持ちを一言で言うならば、それは……
「私はただ、心労なく静かに生きたいだけなのに……!」
『平穏願望』。
彼女は真実、静かに、心労なく、平和に生きたいだけだった。
……ただし、彼女の思う『静か』は、『自分を苛立たせるすべてよ、あらかじめ死んでいてくれ』というものであり。
彼女にとっての『心労』は『ふと思いついたことを思いつくままにできないようにさせる、この間違った世界がすべて自分に都合よくならないこと』であり。
彼女にとっての『平和』は、『自分以外が自分に無限に尽くし無限に差し出す環境』である。
そして大辺は、自分がそうやって世界に遇されるべきだと心の底から思っている。
生まれつきだ。
何らかの、自分が特別だと思い込む事件があったわけでもない。
海神の巫女として物心ついた時から凌辱されていた環境が彼女にこの考えをもたらした──わけでさえない。
だって、自分の人生の主人公は自分なのだから。
これが都合よく無双できないのはおかしい。思い通りにならないのはおかしい。
思い通りにならないとしたら、それは、努力をしない、改善をしない自分が悪いのか?
断じて、否。
自分の思い通りにことが運ばない時、悪いのは──
「イバラキ! どうにかしなさい!」
──他人に決まっている。
手下の実力がないのが悪い。偶然いい方に転がらない運が悪い。こんな苦境を自分にもたらすタイミングが悪い。
そして何より悪いのは。
こんなにかわいそうで、こんなに頑張っていて、こんなに幸せになるべきな自分に、わけのわからない理由で立ちふさがる、敵対者である。
ゆえに殺す。
殺しても許される。すべてを奪っても許される。最大の屈辱と恥辱を与えても許される。どれほど惨いことをしても、『この私の前に敵として立った罪』を
「償え!」
それが大辺の、敵に求めるすべてであった。
だが、敵対者、すなわち
道理はうかがえない、が……
「ほう」
梅雪の認知は、これを煽りと判断する。
ゆえに、煽り返す。
「こうして近寄られては逃げ回るしかない雑魚が、もしかしてこのお山の大将にでもなったつもりかァ? 高い場所は空気が薄いというからな。ここでしばらく過ごすうちに、どうやら頭がやられてしまったらしい。……ああ、違うか。もともとだな。劣った知性が顔に出ているぞ、狂信者ァ!」
梅雪の目の前に、海神の『手』や『触腕』が出現する。
それらは梅雪を詰むべく動く。足を引っ掻けようとする。左右に壁となるように展開する。海魔さえもが出現し、梅雪の動きを封じるべく位置取りをした。
『海』に帰属したイバラキの用兵は、『声を出して指示をする』『目線やハンドサインで意図を伝える』などの無駄な手間は必要ない。
イバラキも海。こうして出現する海魔や触腕、手もまた海。
であるから人間が自分の手足を動かすのにいちいち『おい、手足よ』などと呼びかけることがないように、無言、無動作のまま、イバラキの意のままに海神の部品たちは動く。
それはただ一人を相手にするにはあまりにも絢爛豪華な戦術的運用であった。
しかし、相手が悪すぎる。
氷邑梅雪は統率一の一人軍隊。
ただの一人で軍勢に立ち向かう戦いをこそ、もっとも得意とする。
洞窟内に風が吹きすさび、自身を取り囲む海神の部品どもを散らしていく。
その風の威力、明らかに先の戦いよりも強い。
風の余波で吹き飛ばされながら、大辺が叫ぶ。
「どうしたイバラキィ! さっきやったみたいに、ここを『海』で満たして、あの忌々しい風を封じればいいでしょう!? そんなことも思いつかないで軍師気取りか!」
しかしこの声に、すぐさま笑い声が上がった。
喉を慣らすような、嘲るような笑いは、梅雪のものである。
「大変だなァ、イバラキ。権限だけはある無能なアホが横からぎゃあぎゃあと口を出してくるというのは。ああ、口も利けん状態にされているのか。いいように使われているな」
梅雪の嘲りはイバラキへ向いていた。
その余波で大辺が何やら金切り声を上げるが、その声を無視することこそもっとも大辺に効くと理解している梅雪、大辺を徹底的に無視し、イバラキへの声かけを続ける。
「貴様の勝ち筋を教えてやろう」
相変わらず梅雪へ差し向けられる海神の攻めは苛烈なものであった。
だからこそ、梅雪はこれを散らし、撃ち落し、打ち払いながら、大辺には一切攻撃を向けぬまま語り続ける。
「まず、このあたりを『海』の神威で満たす。なるほど、神の力というのは領域の取り合いだ。そして……神そのものを操作できる貴様の方が、この俺よりも領域の取り合いにおいて有利よ。で、あればまずは、領域を『海』に塗り替える。これが勝ち筋の第一手。さすれば俺の風は封じられ、俺は刀と神の加護以外の技で戦わねばならなくなる……」
「そうです! そうなさい!」
大辺の金切り声を、梅雪は鼻で笑った。
「できたらやってるに決まっているだろう。アホか」
見下し、笑い、風を吹き荒らし、大辺を情けなくころころと転がしてやる。
一度転がされるたびに、大辺の自尊心がいたく傷つくらしく、顔を真っ赤にしてにらみつけてくる。
心地よい。
ただでは殺すつもりがない。
屈辱と恥辱にまみれながら死んで行け、と梅雪は笑うような吐息に殺意を乗せた。
「なぜイバラキが有利な領域を展開できないか教えてやろう。貴様がここにいるからだ」
「……は!?」
「貴様、まさか本気で、海神の神威を展開されて自分が無事でいられると思っているのか?」
それは大辺にとって、意味のわからない発言だった。
何せ、そもそも海神とアクセスしてその力を引き出しているのは大辺である。
自分は海神に愛されている──これは、大辺のゆるぎない確信であり、前提でさえあった。
だから大辺は、鼻で笑う。
「……はんっ、出鱈目を」
「であればイバラキに命じてやればいい。貴様への気遣いがいらぬと貴様自身が言うならば、きっと全力を出してくれるだろうよ」
「つまらない脅しのつもりですか? ……イバラキ、やりなさい。全力で、氷邑を殺せ!」
イバラキがその時、ちらりと大辺を見て一瞬固まったのは、心配か、あるいは『このアホめ』とでも言いたかったのか。
ともあれ、巫女が海神のさにわの宿った杖を持ち、そう言う。
ならば海神の使途であるイバラキにためらう理由はない。
ごぼごぼと、周囲が青黒いものに満たされていく。
それは梅雪だけではなく、どうにも、多くの者に見えるほどに濃い神威のようだった。
大辺が高笑いする。
「終わりですよ、氷邑! クソガキの分際でよくもこの私にここまでの心労を覚えさせてくれましたねぇ……お前はただでは殺さない。海魔にして使ってやろうと思ったけれど、それもしない。……綺麗な顔をしているではないですか。海神に捧げてやる。あの従者どもの目の前で、命乞いさせながらよがらせてやる」
あたりがついに、青黒い、深海の水のごとき色合いに満ちる。
大辺は勝ち誇った笑みを浮かべ、梅雪はこれを見下すように顎を上げる。
そして、イバラキは──
「……アホめ」
『海』に帰属しているとは思えないほどはっきりした侮蔑を込めて、呟いていた。
深海の神威の中、決着がつこうとしていた。
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