第82話 『酒呑童子』討伐・海の陣 五
代々七星家の侍大将を勤める家で産まれた男であり、長男であったがゆえに、将来は侍大将にするべく育てられた。
七星家の侍大将というのは、他の御三家を含めたどの大名家とも性質が違う。
七星家だけは当主大名が伝統的に道士であるため、侍大将が家の武を担うことになる。
そのために他家と比べても七星家の侍大将は発言力が高い。……それゆえに、比類なき主家への忠誠が求められた。
彦一は不器用な男だった。
だから、『そうあれかし』と望まれた生き方を懸命にこなせるよう、努力を続けた。
傍目に見た彦一とは、どういう人物に見えているだろうか?
家柄と才能に恵まれ、勤勉にして忠義者。真面目にして不正を許さず、いざ戦いとなれば都度適切な判断をし、勇猛果敢に自ら危地へ飛び込んでいく──そういった人物に見えることだろう。
だが、彦一の自己評価は、そういったものとは大きく異なる。
彦一は己のことを、こう思っている。
(私では、『道』を見つけること、
敷かれた道を歩むことについて、彦一は誰よりも優れた才能を持っていた。
だが、自ら道を見つけ、後進を教え導くことについて、彦一はそういった才能がまったく己に備わっていないことを強く自覚していた。
忠誠以外、できない男。
現代風に言えば『マニュアル人間』。それこそが彦一の性質であった。
──『ソレ』は。
道を先導する山賊たちの露払いとして軍の先頭にいた彦一が目撃した『ソレ』は、一目でこれまでの触手どもと存在の格が違うことが明らかだった。
染料でも落としたような、青黒い水でできた……手、だろうか。
五指がある。指と指のあいだには水かきのような、黄色の皮膜がある。
皮膚と呼んでいいのかわからないが、表皮にあたる部分は黒い斑点が浮いたぬめぬめとした印象のものであり、それは液体で形成されているようで、一見すると水っぽく、頼りなさそうにも見えた。
だが、『ソレ』が出現した瞬間、山賊の一部から金切り声が上がった。
すでに『ソレ』の攻撃は開始されていたのだ。
ただ姿を見せる、というだけで攻撃になる。
精神に過負荷を与えるのは触手や海魔と同じ。
だが、その度合いが
「ッ!?」
彦一は、一瞬、自分が水中にいるのではないかと錯覚した。
それは、中空の水たまりから現れた『手』があたりの湿度を一気に上げていたから、というのみならず……
「各々方ッ!
そのうち一つに『肺を海水で満たす』というものがあった。
予備動作、詠唱などの準備、一切必要なし。
この存在は常に『肺を海水で満たす』術式をまとっており、この存在と同じ空間に立っている限りにおいて、常にその術式に抵抗しなければならなくなる。
この海水も、そもそも神そのものも神威の塊であるから、術式より強い神威で身を守ればはねのけることが可能ではあった。
加えて『肺を海水で満たす』術式は、この神にとっては特に力を込めていない、そこにあるだけで自然と発動するだけのものである。この術式はこの神にとって攻撃ではなく、ただの身じろぎ程度のもの。剣士であれば抵抗は難しいというほどではない。
精神の均衡を欠いていない剣士であれば、だが。
「ごぼぼぼぼ……!」
山賊たちの一部が、地上で溺れ始める。
そもそもの神威量が大名家剣士と比べれば低いうえに、幾度もの正気度喪失を奇跡的に潜り抜けただけであり、今までは偶然に助けられて致命的失敗を避けていたものの、幾度も繰り返される正気を問うような神性との接触は、いつか必ず失敗するものである。
「各々方、どうか、どうか、冷静になられよ!」
彦一は叫ぶ。
彼にはそれしかできない。
すべての能力に優れた理想の剣士たる彦一。
部下に偉ぶらず、努力を欠かさぬ立派な勇士。
だが、彼には一つ、巨大な弱点があった。
指揮がうまくない。
ゲーム
だが指揮官にとって
彦一の適性も精神性もどうしようもなく一兵卒である。
それでも、通常想定される状況であれば、事前の学びによって、指揮が適う。
だが、今の状況は……
大江山に『
そもそも、七星家の流派は、家臣団用剣術も、それをアップグレードした侍大将用の剣術も、人間の相手を想定している。
妖魔などは知恵が人より劣るとみなされており、そういった知恵に劣る存在が、七星家の『
ゆえに、七星家の仮想敵は、情報の重要性がわかる人間である。
その剣術も戦術も対人間用であり……
出現しただけで発狂を強いてくる化け物の相手というのは、事前の学びの中になかった。
(駆け抜けるべきだというのに、足を止めてしまった……! 一人も死なせぬと仰せだというのに、そう仰せの
落ち着け、冷静になれ、神威を巡らせろ、と叫ぶことはできる。
だが、緊急時の狂乱の中にいる者たちに叫んだところで、その叫びの意味を受け取ってもらえない。
落ち着いていない状況で、人の声が意味を持った言葉ではなく、ただの音に聞こえるという現象が起こる。
しかも彦一の周囲にいるのは、彦一の言葉を聞くように訓練された七星家家臣団ではなく、それを先導する役割を負った山賊どもである。
誰も彦一の声を聞かない。
(どうすべきだ)
彦一は不器用な男である。
ゆえに機転をきかせることも、緊急時に何かを急に閃くこともなかった。
(私にはやはり、このような状況での露払いなど荷が重かったのか)
これまで感じてはいたが、ねじ伏せていた不安や心配が、どんどん心の奥底から噴出してくる。
度重なる邪悪なる神性との接触は、彦一の頑強な精神も疲弊させていたのだ。
だが、彦一は不器用な男である。
不器用で、忠義者である。
忠義とは何か?
時には主人に
ただのイエスマンではいけない。主人が誤ればその方向を命懸けで正すのもまた、家臣の役目である。
だが、彦一にとっての忠義とは、疑わぬことであった。
ゆえに、彼はこう考える。
(……否。否、否、否。否である。露払い役が私には荷が重かったとするならば、それは、私に命じた梅雪殿の指示が誤っていたということになる。命懸けで尽くすと定めたお方を疑うのか? ありえぬ。我が身、七星家のもの。ゆえに梅雪殿は仮の主。しかし、仮であろうがなんであろうが、主は主である。ゆえに、これを疑うこと、
彦一は
周囲には未だに溺れている山賊。進むべき足は止まってしまっており、言葉は届かない。
そもそも彦一にはこういった時に、周囲に冷静さを取り戻させるためにできることが極端に少ない。
彦一にできること、それは。
「ウオオオオオオオオオ!!!」
吠える。
そして、
殴る。
それのみである。
梅雪の指揮下に入ったことで、風の加護を得た鉄鞭が、『手』へと振るわれる。
『手』は液体そのものの質感をしながら、柔らかい金属と言うしかない感触があり、しかも自在に形状を変えるようだった。
彦一の一撃は手を殴り、その一部を飛散させた。
だが彦一が抉った部分はすぐに再生してしまう。
だが。
(それがどうしたッ!)
彦一の全力の一撃が、横薙ぎに振るわれた。
それは、今まさに彦一の身を五指で掴もうとしていた『手』のうち、指二本を吹き飛ばす。
すぐさま再生を開始する、が。
「各々方ッ! 恐れる
彦一にできることは、暴勇を奮うことのみである。
言葉での精神鎮静、不可能。
戦術的部隊運用による作戦の遂行、不可能。
七星彦一は不器用な男だ。
ゆえに、背中を見せることしかできないし……
その背中に御三家の武を負う、忠義勇壮の士である。
そして、言葉や立場ではなく、奮われる武と、大きな背中……
何よりもバカでかい声には、人がついつい従いたくなる勢いがある。
緊急時で錯乱している状況下だからこそ、誰でもはっきりわかる『強さ』こそが、人の精神を平静に戻すのだ。
だから、『落ち着け』だの、『神威を巡らせろ』だの、そういった言葉はいらない。
彦一はただこう命じるのみでよかった。
「我に続けェ!!!」
狂乱を収めるにはどうすればいいか?
その答えは複数存在する。
彦一の場合──
より強い熱狂で上書きする。
山賊どもが叫び、武器を握る。
その目は正気でもなく、平静でもなかった。だが、これぞ彦一流精神分析。止まった者たちを進ませるのは、作戦の意義だの、止まると危ないという注意喚起などではない。熱くなれの一言である。
止まっていた
鉄鞭が薙ぎ払われ、道が開く。
氷邑軍先手、■■■■■の鷲掴みを熱狂にて突破成功。
続く、中央は──
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