第79話 『酒呑童子』討伐・海の陣 二
いつの間にか、周囲には溺れるような湿度と、鼻にこびりつくような、濃い潮のニオイが漂っていた。
どことなく青みがかった景色は海中というフィルターを通して見る景色のように揺らいでいて、その景色の中には、宙に浮く水たまりが一つ、二つ、三つ、四つ……どんどん増えて、ごぼごぼという耳障りな音をそこらで立て始めている。
(なんだ、コレは)
直観的にわかる。
あの水たまりは、さんざん蹴散らした雑魚である
(ははは……山なのに、海? ここは、海中……? あれ、息、が……)
海魔が海神が身じろぎするたびにたつ
ヒトは生来、カミを畏れるようにできている。
ゆえにこそその一部とはいえ、招来を目撃した者たちは、ヒトである限り逃れられない畏れを思い出す。
七星家家臣剣士は笑っていた。
笑いが止まらなかった。自分でも耳障りだと思うほどの笑い声。うまく立っていられないほどの笑いが腹の底からあふれてくる。
そしてそれは、彼の身だけに起こっていることではなかった。
金切り声で叫ぶ者がいた。その場で倒れこみ痙攣して泡を吹く者がいた。唐突に隣の味方に斬りかかる者、自分の喉に切っ先を向ける者までいた。
夏の山に唐突に顕現した海そのもの。本来はこの地上にいない、否、いるべきではない脅威。それが、目の前に唐突に出現した。
その根源的おぞましさ、冒涜的恐怖を前に正気を保つのは難しい。
ゆえに、これを前に正気を保つことができるのは、精神力対抗に致命的な成功をしてしまい、これから始まる絶望に対し正気で正対することになってしまった不幸な者。
あるいは……
あまりの我の強さゆえに、神が出た。それがどうした? と鼻で笑う者のみである。
「俺に服従せよ」
正気を失った者たちの頭に染み入るように、その『我の強い者』の声は響いた。
「俺に従う彦一にではない。この俺に命をあずけよ。さすれば……貴様ら全員の生還を保障してやろう」
その声に──
ぶら下げられた『生存』というエサに、一も二もなく飛びつく者がいた。
また、わけのわからぬまま、とにかく聞こえた声の通りにする者がいた。
正気を失った者たちの中で、まだ他者の声を聞く余裕がある者は、正気がないだけに素直に従うことが叶った。
だが、悲惨なのは、正気を保ってしまった者だ。
……否。半端に正気を失い、しかし発狂できなかった者、か。
「ふざけるな! 誰が貴様などに従うか!」
そう
だが、その者が振り下ろした刃は触手に当たると、『ぼよん』と跳ね返された。
その弾力はその者の想定以上だったらしい。振り下ろした勢いよりも強く跳ね返されたせいで、手の中から剣がすっぽ抜けてどこかへと飛んでいく。
「へ?」
その者は、剣のなくなった右手を不思議そうに見て……
触手に削り取られた。
タコのような、あるいはイカのような、太さが成人男性の胴体ほどもある、暗い青色の触手。
それがゆったりと薙ぎ払われただけで、剣士の丈夫な上半身がぞりっと消え失せたのだ。
まだ己の上半身がなくなったことに気付かぬよう、下半身は直立していた。
だが、膝から崩れ落ち、倒れこみ、それから血だまりを作っていく。
……おぞましいのは、そのあとだ。
倒れこんだ下半身が不意に濃紺の泡を立て始めたかと思うと、衣服ごとぐずぐずにとろけて、血たまりと混ざっていく。
そうして彼自身の血と、どろどろに彼自身が溶けて混ざった水たまりから……出るのだ。
海魔が。
しかもそいつは、それまで七星家郎党が相手どってきた海魔とは違っていた。
これまでの海魔は身長一五〇cm程度の者であった。
しかし、今、剣士だった水たまりから現れたのは、身長にして一八〇cmはあり、しかも、その右手には刀を持っていた。
それだけではない。
右手を振り上げ、刃の切っ先を上に向け、左手を顎の前に置くような構え──
七星家家臣団用剣術の構えである。
ことの成り行きを見守っていた七星家家臣団の中には、その存在についての真実に気付いてしまった者がいた。
あの海魔──
今、触手に殺されたあいつではないか?
動揺と言うには生ぬるい衝撃が静かに広がる。
家臣団は唐突に出現した触手と、それがもたらす死よりなおおぞましい結末に気付いてしまった。
あの触手は、剣士の肉体を一撃で削り取るほどのモノであり……
アレに殺されると、おぞましい化け物にされる。
「ひっ」
誰かが悲鳴をあげかけた。
そこに、
「ハァ」
嘲るようなため息が、やけに強い存在感をもって響く。
声の主人は、銀髪碧眼の少年。
その性格の悪さと横暴さによって知られた、氷邑梅雪である。
「優しく言ってやってもわからんか。では、愚鈍にして蒙昧なる貴様らにもわかるように言ってやろう」
触手が攻撃を開始している。
梅雪はそれを一撃で斬り捨てた。
それは膂力によるものではない。
この触手には絶対に勝てない。
そもそも、勝つ、勝たない、倒す、倒さないと考える時点で間違い。そういう存在である。
これは、海魔などとは位階の違うモノ。
それらがたとえば炎の姿をとったなら、燃やしたいと思ったものを必ず燃やすだろう。酸素量がどうとか、燃焼率がどうとか、そういったくだらない物理法則など鼻で笑う奇跡である。
それらが風の姿をとったならば、術者を空中に留まらせることも、風の力で剣士ではない者に剣士以上の速度を与えることも、子供の細腕でヤマタノオロチの首を八本まとめて斬らせることも可能にするモノ。
それらは、神である。
カドワカシの操る炎と相対して、炎そのものを斬ろうとする行為は果たして有意だろうか?
梅雪と相対した者が、彼の操る風そのものを両断しようとしたならば、果たして、傍で見ている者はどう思うだろうか?
そう、その行為は愚かなのだ。
神を斬るには神を宿すしかない。
だからこそ、この触手を斬り裂けるのは、この場において、風の神の力を宿した梅雪のみであり……
梅雪が宿す神の加護は、本来、部隊全体に加護を与えるスキルである。
「俺に従えぬ者、見捨てる」
梅雪は傲慢に宣言する。
「ただし、俺に服従する者、一人たりとも死なせぬ。ゆえに──」
七星家家臣団はいつしか、触手という脅威ではなく、銀髪碧眼の少年の方を見ていた。
少年から、風が発せられる。
それは抵抗しようとすれば足を地面に引きずらせるほど強い風であった。
だが、受け入れてみれば、おぞましい湿度と夏の暑さを吹き飛ばす、なんとも快い風であった。
「──反論するな。説明を求めるな。四の五の言わず、さっさと俺の物になれ、愚図どもがァ!」
少年の声が響きわたる。
その声に、最初に応じたのは……
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