帰る
松ヶ崎稲草
第1話 雪
外の景色を焦点の合わない目つきで眺めていた藤枝さんが低い声で「あ、雪や」と口に出すと、回りの、いつものように呆然とした表情で過ごしている車椅子の高齢者達や歓迎会の準備のために忙しく動いていた職員達も、一斉に外の方を向いた。
壁一面がガラス張りになっている一階ホールからは、天候や季節の変化が身近に感じられ、晴れた日には居ながらにして日光浴が楽しめ、建物の外へ出ることが困難な高齢者が暮らすケアハウスとしてよく考えられた造りになっている。
天気の悪い日や、日差しが強過ぎる日には白い布製のブラインドカーテンを下ろす。今日は午後から雪の予報になっており、積雪は年に一度あるかないかの京都盆地の田園地帯にあるケアハウスの高齢者達が、雪が降り出すのを今か今かと待っているため、ブラインドカーテンは上げられていた。細かく、白い雪が曇り空の下、ぽつぽつと降り始めているのがよく分かる。
いつになく熱心に身を乗り出して外の雪を見ていた藤枝さんがホール内の方向へ振り向くと、歓迎会の主役で、今日からこの施設で就業するインド人技能実習生アジャイと目が合い、数秒間固まったように視線を止めた後「インドは雪なんか降らへんやろ?」と話し掛ける。
午前中にアジャイのことを紹介してはいたが、藤枝さんは聞いているのかいないのか分からないぼんやりとした表情で返事もなかったし、インドから来た、と言ってもまるで関心を示していないように見えたが、今はっきり「インド」と口に出しているということは、しっかり記憶しているということだろうか。アジャイの顔がいかにも類型的なインド人の顔で、肌の色が浅黒く、鼻が高く、目が大きく、彫りの深い顔立ちだからだろうか。
このケアハウスには過去にもインドネシアやベトナムからEPA制度を利用して就労に来ている。今までの研修生達は日本人と同じモンゴロイドののっぺりとした顔立ちだったが、アジャイは彼らとは容貌が異なっている。
去年の秋からデリーの日本語学校で日本語を勉強して三ヶ月ほどで、来日してからは一週間ほどだが、今朝からの義彦による仕事の説明には大体は理解している反応が返ってきていた。しかし藤枝さんの低音の声と関西アクセントに対しては理解できなかったようで「ゆき?」と訊き返している。日本語学校で教わった日本語は標準語なのだろうから、語尾のイントネーションが変わると聴き取りにくいのかも知れない。
「雪はインドでは降らないの?」と間に入った義彦から改めて聞いてみると、アジャイはようやく理解したようで、話し始める。
私の出身地はインドでも首都デリーから北東へ数百キロメートル離れた夏の避暑地としても知られるムスーリー近郊の村で、冬は寒く、雪も降るし、積もります。だから、雪は珍しくないです。
ちょっと細か過ぎるのではないか、とも思える説明が続いた。多分、日本語学校でこんな風に自己紹介の練習をしたのだろう。流暢かつ慣れた口上で、いきなり固有の地名の羅列を浴びせられた藤枝さんはポカーンと口を開けてアジャイを見つめていたかと思うと、義彦に向かって「この人、何て言うてはんの?」と聞く。まるでアジャイの発した言葉が日本語ではなかったかのような聞き方で、やりとりを見ていた職員達や他の高齢者達から笑いが漏れる。
「藤枝さん、彼は日本語を喋ってるんですよ」と義彦はとりなす。アジャイの顔を見ると、困ったような自信をなくしたような表情に見える。
二十代の頃、いわゆるバックパッカー的な旅行を数年掛けてしたことのある義彦は、インド人に対しては、語学が得意で、あらゆる言葉をすぐに習得する民族、との印象がある。相手の話はあまりよく聴かず自分のことを喋りたがる傾向や、説明が長いことなども思い浮かぶ。義彦から見て、アジャイも典型的なインド人の特徴を有しているように思える。同じ日本語でも、ぼんやりとした曖昧な表現を並べて喋ることの多い普通の日本人の日本語とはかなり違って聴こえたし、年配の人にとっては微妙なアクセントが外国語のように聴こえたとしても無理はない。
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