第26話

「お姉、さま……!?」


 驚愕するアリシアの声が鼓膜を揺らす。

 体に違和感を覚え、エルザは敵の腕を払いのけた自分の手を見遣る。

 たしかに己の腕である。


 ただひとつ、短かったはずの爪が、鋭利な刃物のように鋭く伸びていることを除いては。


 まるでヴァンパイアだと、頭の片隅でそう思った。

 長く伸びた爪の先端から、赤黒い血が滴り落ちる。


――これなら、戦える……!


 正直、急激な自分の体の変化に頭はついていっていない。

 しかし今はそんなことをいちいち気にしている暇はなかった。

 敵はまだ目の前にいる。

 エルザはおもむろに立ち上がると、自分たちを狙うグールに向かってその爪を振りかざした。



◇◇◇◇◇



「二人とも無事!?」

「えぇ、お姉さまが守ってくださいましたから」


 いつの間にか駆けつけたギルベルトの声に、エルザはふと我に返る。

 目の前の敵を狩ることに無我夢中で、記憶がすっぽりと抜け落ちていた。

 気がつけば、辺りには静寂が戻っている。


「ですが、少々血を流しすぎましたわね。ダグ、帰ったら、少し分けてくださいませね」

「あぁ」


 ヒトの姿に戻ったダグラスの腕にかかえられながら、アリシアは彼の顔に頬を寄せた。

 いくらグールごときがヴァンパイアの敵ではないとはいっても、多勢に無勢。

 ヒトよりスタミナがあるアリシアでも、さすがに疲労感が否めない。

 静かにまぶたを閉じたアリシアは、疲労と安堵からか小さく息を吐く。


「がんばったね、アリシア」


 妹の頭をなでるギルベルトも、心なしかほっとしているようである。

 グールさえ退けてしまえば、あとは無事に家に帰るだけである。

 アリシアの傷も、ライカンスロープであるダグラスがいればすぐに治癒するだろう。


「……エルザ? 大丈夫?」


 ギルベルトは、一歩うしろに立つエルザを振り返り、わずかに腰を曲げて彼女の顔色をうかがった。

 うつむいたまま微動だにしないエルザは、ぼんやりとした表情で自身の手のひらを見つめたまま。

 その指先は、グールの腐った血で赤黒く染まっていた。


「あ……、ギル、あたし……」


 エルザはゆっくりと顔を上げる。

 アメシストの瞳が、不安げに揺れていた。

 あふれんばかりの涙が、瞳に映したギルベルトの姿を震わせる。


 長く伸びた鋭利な爪。

 素手で肉を切り裂く感覚。

 指先にまとわりつく生暖かさ。

 記憶にない戦いの形跡と、それを物語る手のひらの血痕。


 あまりにも想定外のできごとに、エルザの心が置いてけぼりになっていた。

 なにもかもが急すぎたのだ。

 小さくひらいた唇が言葉を紡ぐ前に、エルザの体は膝から崩れ落ちる。

 すぐさま抱きとめたギルベルトは、そのまま彼女の体を横抱きにした。


「っと、危ない危ない。急に覚醒しちゃうから、ビックリしちゃったー」


 ぐったりと彼に身を任せているエルザは、どうやら急激な体の変化に耐えきれず気を失ってしまったらしい。


「……エルザがヴァンパイアとしての能力を有していても不思議はない」

「むしろ当然ですわね」

「だが……」


 ダグラスとアリシアが、互いに顔を見合せたのちにギルベルトを見遣る。

 なぜエルザのヴァンパイアとしての覚醒が『今』だったのか。

 それをギルベルトがわからないはずはない。むしろ彼こそが原因の一端なのだから。


「ははは~……」


 ギルベルトは妹と友人からの痛いほどの視線をごまかすように、苦笑いしてみせた。


「……お前、まさかヤったのか……?」

「ちょっと言い方! 少し味見しただけですぅー」

「大して変わらねぇだろ」


 ダンピールの覚醒のメカニズムを知るダグラスは、訝しげにギルベルトを見遣った。

 ルビーの目がいつもより細められているのは、きっと気のせいだと思いたい。


「お兄さま! 無理やりなんて最低ですわよ!」

「だから違うって!」

「なにが違うんですの!?」


 どうやら妹の追及からは逃れられそうにない。

 ダグラスの腕にかかえられているおかげで目線の高さが同じ兄を、アリシアはここぞとばかりに問い詰める。


「お兄さまのせいじゃなきゃ、どうしてお姉さまが覚醒するんですの!?」

「それはまぁ、俺のせいではあるんだけど」

「ほらご覧なさい!」

「お前ら、兄妹ゲンカはあとにしてくれ」


 ため息をつくダグラスに、兄妹は「ケンカじゃない!」と同時に叫んで、さらに彼をあきれさせた。



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