第20話 偶然

「絵には心理状態が現れやすい。今日は絵を描くには向かない日のようだ…。」

 夜会の翌日、久しぶりの休日に会ったアロワに、叱られるわけでもなく諭されるように帰されてしまった。確かに俺はうわの空で、絵を習う状態ではなかった。俺は次回の課題だけもらって帰路についた。


 アロワの家から帰る途中、街でエドガー家の召使、ベルに偶然出会した。


「ノア…!ちょうど会いに行こうと思ってたの!ローレン様にはもう会った?王宮騎士としてエヴラール辺境伯邸に滞在していらっしゃるんでしょう?すごく格好良くなったって噂よ!それでね…ローレン様の姿絵が欲しいって、みんな言っていて!」

「ロ…ローレン様の?」

「そう!あとね…私じゃなくて、その、他の子たちもいっているんだけど、できたら体の線がもっとわかるように描いてほしいの 」

「身体を…?」

「そう!だってきっと、大人になって逞しく立派になられているはずだから!お願いね、ノア!楽しみにしてる!」

「あ、ちょっと…!」

 ベルはいつもの注文書を俺に渡すと慌ただしく駆けて行ってしまった。――確かにローレンは美しく、逞しく成長していた。だけど…今はローレンを描けそうな気がしない。注文書の中にはローレン以外にもエヴラール辺境伯家所属の騎士の名前が書いてある。まずその辺りから描いて行こう…明日からはまた仕事だから、午後の早いうちに、エヴラール辺境伯家の訓練場へ向かった。


 訓練場はすり鉢状に作られていて、周囲は芝で覆われている。冬の今は、色が少々寂しいが、春から夏にかけてはそれだけで大変美しい。芝の上は風通しも良く気持ちがいいので、俺以外にも数人、エヴラール辺境伯家の使用人が弁当を食べたりしている。俺は訓練場を見下ろせる位置に座って、素描を始めた。今日は冬の始まりにしては日が照って暖かい日だった。騎士たちの中には上半身裸の者もいる。身体の線をもっと…という要望に応えるため、まず上半身の裸体から描いていく。

 夢中で描いていて、誰かが近づいた気配に気が付かなかった。スケッチしている紙の上に影がさしてようやく、顔を上げて近付いてきた人物を確認した。



「何を描いているんだ…?」

 俺に声を掛けて来たのは…、ベルの知り合いに描くように頼まれた騎士の一人。彼は俺の絵を覗き見て、噴き出した。

「何とまあ、破廉恥な…!」

「ち、ちがいますこれは…。こういった手法で…!」

「こういった手法…?こういった手法で、己を満たしているとか?『人妻』だと聞いたけど、欲求不満なのか?それで娼館でも働いているって聞いたけど本当?」

「は…?」

「一晩いくら?興味がある…。すごく… 」

 男は俺の手を指でなぞる…。俺は絶句した。『娼館で働いているって聞いた』ってどういうことだ…?そんなことしたこともないのに…。ギルド職員に娼館の紹介状を貰ったことがあるけど、それが誤解を生んだとか…?俺が男の手を振り払うと、男はカッとなって俺の腕を掴んだ。

「こんな破廉恥な絵を描いていたことを…バラされてもいいのか?」

「これは絵の練習をしていただけで…!」

 俺が抵抗すると、男は舌打ちした。腕を振り上げられて…。俺は目を瞑った。


「何している?」

 殴られると思って身構えていると頭上から、凛とした声が響いた。


「ジェイド様…!こ…こいつがここで、破廉恥な絵を…!」

 声の主はローレンの父で騎士団長でもあるジェイドだった。ジェイドは俺の描いている絵を少しだけ見ると、騎士に言った。

「…ノアは絵を習っているんだ。練習していたんだろう。ノア、そうだな?」

「は、はい… 」

 俺の返事を聞いた騎士は、ジェイドに頭を下げると駆けて訓練場へと戻って行ってしまった。

 ジェイドはため息をついてから、俺の隣に座る。


「ノア…。お前に話があって来たんだが…。全く…この世には困った輩が多いな…。」

「先程の事ですか…?誤解です。彼も、誤解をしていて… 」

俺は娼館の噂をジェイドに知られたくなかったから必死に誤魔化した。それを知られると、エヴラール家の使用人を辞めようとしていたことも知られてしまう。俺が言い訳をすると、ジェイドはじっと俺を見つめた。


「昨夜のことなんだが、ノア…。お前の同僚、ジョルジュを捕らえた 」

「え…?!フィリップ殿下のお茶に抑制剤を混ぜた件で、ですか?しかしあれは…!」

「そうだ。フィリップ殿下に抑制剤入りのお茶を出したこと…ノアを脅して、ノアを犯人に仕立てるつもりだったようだ。それで昨夜お前をつけて乱暴しようとしたところを、捕まえた 」

「俺をつけて…?」


 あの足音…ジョルジュだったのか…!?確かにジョルジュは俺を先に帰らせた…。あれはわざと?俺が青くなっていると、ジェイドは察したらしい。


「つけられた事には気づいていたのか…?それなら騎士団に申し出ろ。ノア…、本当に危なかった。偶然、通りかかった、騎士がいたから良かったようなものの 」

「…ありがとうございます。あの、ジョルジュはこの後どうなりますか?彼には年老いた母親がいて… 」

「それは嘘だよ、ノア…。彼の親はまだ若いし元気だ。賭博にのめり込んで勘当になっていて、相当切羽詰まっていたようだ 」

「…そ、そうですか… 」

 俺は完全に騙されていたらしい。やっぱり馬鹿だ、俺は…。俺が「助けてくれた方にお礼を…」と申し出ると、ジェイドは笑った。

「ふふ、騎士として市民を守るのは当然だ。礼には及ばぬ…。“偶然”、通りかかっただけだからな?」

「偶然… 」

「あとこれ 」

「え…?」

 ジョルジュは紙袋を俺に手渡した。中には小さな瓶がはいっている。

「傷薬だ。手に塗りなさい 」

「あ…ありがとうございます。…そういえばローレン様も手に薬を塗れとおっしゃっていました。やはり二人は親子ですね?」

 俺が笑うと、ジェイドも微笑んだ。

「…本当にそう思うか?ノア…。でも確かに、一緒に暮らすと似てしまうのかもしれないな?」

 ジェイドは楽し気に笑っている。

 ひとしきり笑うと、ジェイドは少し真面目な顔をした。

「ノアお前は…修道院にいたわりに温室育ちで…人の境遇に同情して信じてしまうような優しい男だ。それは良いことでもあるが…だがな、全てを疑えとまでは言わないが、何が真実か良く考えて見極めろ 」

「…は、はい… 」

 俺が返事をすると、ジェイドは頷き、訓練場に戻って行った。


 ジェイドが戻ると、訓練場には王宮騎士団が現れた。ローレンの姿も見える。噂を聞きつけて、訓練場には徐々に人が集まって来た。若い女性の黄色い歓声が響く…。

 ローレンは中でもひときわ美しかった。成長した逞しい身体…。変わらない、美しい瞳。俺は訓練場の隅でローレンを描いた。これは誰にも渡さない…俺だけの、宝もの…。

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