猫は黄昏刻に鳴く

風宮 翠霞

第1話 猫は黄昏刻に鳴く (始)・(終)

夏の茹だるような暑さの中、蝉の鳴き声が響くある日。


––なおん。––


ある海辺の街の、小さな波止場。


麦わら帽子を被った少女のワンピースが、潮の香りの風に揺れる。


その足元で、三毛猫が一声鳴いた。


まるで来客を知らせるかのような相棒の声に、少女は静かにうなずいて微笑ほほえむ。


––お客様、御用件ごようけんはなんでしょう?––


波止場の先に立つ青年に、茜色の夕陽を背にし、猫を連れた少女はたずねた。


鈴の鳴るような、心地の良い声色で。


自らのもとに来た客の、心の底の願いを聞き出すように。


穏やかに話す。


––……案内を。愛する彼女のいる所まで、案内してくれませんか?––


その声に促されるようにして青年が話した願いは。


それは、永年ながねん約束を果たせず、この場所に留まり続けた青年の。


魂の叫びのようだった。


静かな声でありながら、あるだけの感情が込められているような。


そんな声だった。


––ええ、勿論もちろん。必ず貴方を送り届けます。––


そう言って青年の願いを受け止めた少女は。


持っていたトランクケースを置き、青年の手を取った。


その足元では、猫が静かに青年の事を見上げている。


少女の手は体温が低く冷たかったが、青年には何よりも温かく感じられた。


きっと、こういうところが彼女が青年のような存在にとって【救生者】たりえる所以なのだろう。


––では、始めましょうか––


少女がぽつりと告げた。


彼女の足元に陣取った猫が、まるで何かを待つように丸くなって目を閉じる。


青年もそっと目を閉じ、が来るのを待った。


夕陽は沈み、仄かに残る陽の光が辺りを照らす。


太陽から月へと支配者が移り変わる、狭間の時間。


黄昏刻たそがれどきだ。


––なおん。––


柔らかに、足元の猫が鳴いた。


その声を境に、青年の世界から音が消えた。


あんなに響いていた蝉の音も、波の音すら、消えた。


––送りましょう。還しましょう。我が名の下に、貴方を大切な人の元へ––


唯一聴こえる少女の声は、旋律に乗って遥か彼方まで届き、やがて波間に消えた。


唄が終わるとともに、少女の手のひらから何かが自分の中に入り込んでくるのを感じた。


いや、これは入り込んできているのではなく、抜け落ちているのか。


嗚呼……長かった。


青年は嘆息する。


何故か、これでとわかった。


目を開くと、目の前に片時も忘れた事などない人影が浮かぶ。


ほとんど意識もしないうちに、一歩を踏み出し人影の……愛しい人の頬に触れる。


–−やっと、君のところに帰れた。––


(おかえりなさい)


記憶の中の優しい声が聞こえて、声が震えた。


––ただいま、遅くなって、ごめん––


(ううん、大丈夫。だから、泣かないで?)


彼女がそう言って手を伸ばすから、初めて自分が泣いている事に気がついた。


波の音だけが聴こえる、静かな世界。


知らない場所でありながら、彼女がいるだけで帰って来れたのだと安心できた。


(ありがとうございました)


振り返れば、送り届けてくれた少女と、彼女の相棒である三毛猫が佇んでいた。


––ありがとう––


涙を拭う事なく、再会した愛しい人の肩を抱いて目一杯の笑顔でお礼を言う。


感謝を伝えると、少女は笑みを深くして首を振った。


––どうぞ今までの分まで、ゆっくりとおやすみなさい。––


その言葉を残して、次の瞬間には少女と猫は、消えた。







––さて、次はどこに行きましょうか?––


ある海辺の街の、小さな波止場。


麦わら帽子を被った少女のワンピースが、潮の香りの風に揺れる。


少女は片手にトランクケースを持ち、足元の相棒に問いかけた。


問いかけられた猫は、少し首を傾げるだけで何も言わない。


––君は本当に無口ですね。……嗚呼、また一つ、灯篭とうろうの灯が消えた。仕方が無い、行きましょう––


––なおん。––


少女が独りごちたその声に、少女を見上げていた猫が鳴いた。







黄昏刻の一刻。


三毛猫の声とともに現れ、その声とともに姿を消す少女。


彼女は三毛猫とともに、今日も何処かに現れて誰かを救う。


彼女に救われた誰かは、一度ぽつりと呟いたそうだ。


––猫は黄昏刻に鳴く––


と。



















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